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4 あえて実物にこだわる。

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島野三秋「三秋梅螺鈿香合」

 はじめてテレビのハイビジョンが登場したとき、博物館でも美術品がハイビジョン撮影され、実物の横でスペースをつくって、盛んに放映されていました。保存等の理由で展示機会の少ない作品でも、実物に迫る美しさと正確さで見ることができる、というのがふれこみでした。どんなに綺麗なのだろう、と思って見たのですが、実際はたいしたことがなくて、がっかりしたのを覚えています。その後、デジタルになってもその印象は変わりません。それは映像という別の作品であって、そもそも実物の替わりになるはずもありませんでした。考えてみれば、あたりまえのことです。それは、放送局が多額の資金を出して技術開発した、その売り込み先のひとつと博物館をターゲットにしたという、多分に戦略的な政策にうまく乗せられていたところがありました。

 けれども若い人には、美術作品をそうした映像や美術全集・教科書などの本で見て、見た気になっているという場合がかなりあります。あたりまえのことですが、美術全集で見ると、立体でもすべて平面の写真になります。それだけではありません、東大寺のような巨大な大仏と岡寺の愛らしい如意輪観音像が、同じ大きさになって、本の見開きの右と左に載ったりします。けれども実際には、私たちは東大寺の大仏は大仏殿の中で見上げてみますし、岡寺の如意輪観音は博物館の陳列ケースに顔を近づけてみます。ケースがなければ、手のひらに乗せてみたいと思わせるようなかわいらしさです。つまり、美術品の前で私たちは、気がついたときにはすでにいろいろな姿勢をとって見ているのです。ひとつひとつ同じ条件で見るということはありえません。「モノ」に対峙するということは、その「モノ」の方が見る者を規定するからです。

 画像が実物と違うのは大きさだけではなく、ほかにも色だとか質感だとかがありますが、やはり一番大きな問題は、この見る側の姿勢とか臨場感でしょう。つまり自分の経験としてどのように残るのか、という問題だと思います。現在は醍醐寺の山下の博物館に降りている薬師如来像は、もともと上醍醐の平安時代後期の薬師堂内に安置されていた本尊で、醍醐寺を創建した聖宝に関連すると考えられる仏像です。堂々とした体躯、太い首、厚みのある唇、しっかりとした目鼻立ち、まぎれもない平安前期の名品です。わたしは、この像がまだ山上の薬師堂にあるとき、許可を得て鍵を開けてもらって堂内で拝観したことがあります。堂内は意外と明るかったのですが、軽やかな月光・日光両菩薩を両脇に従えた薬師如来像は威厳があり、その付近だけ森閑とした空気を漂わせていました。その印象はいまもって忘れることができません。それは、急な坂道を登って額に汗したことや、堂内に閉じこめられた空気を冷たく感じたことなど、さまざまな思い出といっしょになって残っています。要するに、実物を見るということは、常に人の経験の中に位置づけられることだと思うのです。

 近年のインターネット等の情報化の時代で、美術品や古文書の映像やその解説概要は手軽に入手できるようになりました。しかしこれは、あくまで情報であって、経験や知識ではありません。インターネットの利用はそれに適した目的があります。情報の取得と広報、そして連絡と交換です。しかし利用はそれに限られるべきです。デジタル化も研究目的として有効な場合があります。たとえばその映像そのものが他に代えられない貴重なものであったり、ほかからは得られない本文テキストの取得であったりです。その場合は、その映像や史料そのものが芸術品や資料・史料であるわけです。

 情報は利用するには便利だけれども、人を豊かにする経験そのものではありません。その手伝いをしているだけです。世の中はネットとデジタルかが大流行ですが、その半分はかつてのハイビジョンと同じように、うまく乗せられているところがあります。社会の大勢がある方向に進むと、どうしてもその流れに乗り遅れないようにしたいというあせりが生じるものです。もちろん遅れる必要はありません。ほどほどについていけばよいものです。それよりももっとたいせつな、人の真の幸福を求める本質を失ってはいけません。

 あえて、言います。実物を見てください。ネットはそのあとでもいい。

 

 

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