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3 一流を見る

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 ルノアールに「ピアノの前の少女たち」という名画があります。私は最初に画集でこの絵を見たときはそれほど感心しなかったのですが、大学生のときフランスで実物を印象派美術館(現在はオルセー美術館)で見たとき、その色彩のハーモニーに感動したことがあります。やっぱり本物は一流で見なければわからないと思いました。そして、それ以降、ルノアールを見るときはこの絵が、自分の感性の中でひとつの基準になっているような気がします。一流を見て二流を見ると、どの部分が二流かがわかります。それと同時にたとえ二流、というのが悪ければ未成熟(または不十分)であっても、その中に一流の才能やひらめきを見ることもできるようになります。けれどもその反対に、最初の経験で二流を見て、そこから一流を推測することは、ほとんど不可能だといっていいでしょう。

 

 

 

 

 

無鄰庵庭園

 学生が、仏像が好きだとか、寺院の建築が好きだとか、あるいは能や歌舞伎が好きだというので、ではどこの何という仏像が好きですか、と聞くと、答に詰まる、ということがよくあります。何となく好きでそこまで考えていなかった、とか、全部です、というのです。全般的な範疇の概念でものを好きだというのはたいへん危険だと思います。人にもいろいろな人がいるように、仏像もさまざまですから、仏像もそれぞれの個性を見てほしいと思います。そして、その名前を覚えてほしい。ちょうど人の名前を覚えるように。名前を覚えることは、その個性を他と区別して認識することだからです。できれば、誰もが知っている興福寺の阿修羅像といった有名どころははずして、その次の少しマイナーな、それでいて知る人は知るといった仏像を好きだといえる人になってほしい。というのは、自分が何が好きかということを表明することは、その人の個性とかオリジナリティーを主張することにほかならないからです。何が好きだということは、自分は何ものかという表明にほかならないから、ひとつひとつ自分の好きなものを確立する作業を進めてください、とわたしは学生にいつも言っています。

 何が一流かを決定するのは、最終的に自分の感性です。自分の感覚を信ずるしかありません。社会や他人が一流といっているからといって、自分の感性で腑に落ちなければなんにもなりません。ですから、一流は必ずしも高いお金を払って見るものとは限らない。先に述べたように、観光とは基本的に関係ないものです。のせられるのではなく、自分の見識でそうだと思うものが一流です。ところが、見てみないと何が一流かがわからない。とりあえず、何でも見る、人がよいというものを見るように心がけることがたいせつで、そのためには、やっぱりお金は使わなければならない。けれども、経験には必要な投資だと考えるべきでしょう。

 一般的に一流といわれるものが、自分にはそう感じられないとしたら、その理由は二つあるでしょう。ひとつは自分の感性がまだ未熟であること。この場合は経験を重ねることによってある日突然その真価に目覚めるときがあると思います。もうひとつはほんとうは一流ではなく大したものでない場合です。でも、たくさん見ることによって、次第にその二つの違いは明確になり、感性は定着してきて、何がほんとうに一流かがわかるようになります。それまでは少し辛抱して、あるいは勉強しながら、そのときを待つことが必要です。

 美しいものは人さまざまで人によって異なる、という人もいますが、わたしはそう思いません。美しいと思うものは、細部は別としておおよそ共通しています。しかも経験によってますます一定していきます。それは人間の感性の方向には必然性があるから、おおよそ同じところに行きつくのです。ですから、自分が一流と感じるものには普遍的なものがあることを信じてください。

 

 

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4 あえて実物にこだわる  

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