五本 - GOHON - 福井県坂井市坂井町五本


五本の田んぼから、JR北陸線とたけくらべ山を望む

※毎年ゴールデンウィーク頃になると、なぜか多くの県外ナンバーの鉄道ファンが写真を撮りに来るのは、ちょうど田植え前後の水を張った田んぼに、逆さ富士ならぬ「逆さ電車」が写るからだそうです。
五本区最古の古文書 従講中銀子十両慥請取候難有覚候 
就其当流乃安心の事不珎候へとも 
毛路〜乃雑行雑善を不り寿て、
一心に弥陀を頼ミ申さむ人々ハか奈ら寿 
佛の御心尓か奈飛てミな 〜 
極楽尓往生寿遍き事不可有疑候 
其上尓は佛恩報謝の為尓常に念佛 
申さるへき事肝要候也 
穴賢々々 
九年四月 
准 如 花 押 
越前五本村 
六日講衆中へ

※准如上人御消息(越前六日講衆あての書状) 五本区内にあった最古の古文書である。准如上人の生没年代からすると、おそらく1600年代の初めのものである。

<五本の位置と地名の由来>
 五本村(福井県坂井市坂井町五本)は、坂井平野中央部東寄り、田島川下流左岸に位置し、地内には五ヶ江・東江・五分一江・中江・西江など十郷用水の支流が通っている。 集落は旧北陸街道沿いにある。土師器(はじき)は古墳時代から平安時代にかけてつくられたと歴史は伝えているが、この土師器が、現、五本43番地字馬渡の田で出土していることから考えると、1200年前の8世紀頃には既に集落らしきものが形成されたと思われる。この集落こそが当区の誕生である。
 五本の地名の由来を尋ねれば、越前国坂北郡河口荘に属し、五本卒塔婆と称していたとある。鎌倉期の状況を伝える年月日不詳の河口荘御前帳写(東荒井春日神社文書)に大口郷(河口荘のうち)の仏神田として、「五本卒塔婆大日田八段」「五本卒塔婆地蔵堂一反」「同神田二反半」と免田(免税田)が見え、当地に大日如来・地蔵菩薩などを本尊とする仏堂があったことがわかる(春日神社文書)。建武元年(1334年)6月日付の建武元年記(南北朝時代初期)によれば元弘三年(鎌倉時代後期・1333年)6月7日に三国湊で強盗・殺害・刃傷をはたらいた悪党人の交名の中に「河口庄内五本卒塔婆」の住人禅海房・源三が見える(北国庄園史料)。この悪業は鎌倉後期に幕府が行った三国湊津料に対する処置に不満を持っていた人々の行動と考えられる。  また、当地は北陸街道沿いの集落で「冷泉為広卿越後下向日記」延徳三年(戦国時代・1491年)3月9日条には新庄と関の間に「五本ゾトバ(里)」と記されている。
 坂井町誌によれば、五本という村落(部落)名は故徳田宇平氏によると前記のように十郷用水の支流の各江が五本村の付近で五本に分かれた(または貫流していた)ので、そこから名前が起ったのではなかろうかと考えられるとある。しかし、定かではない。
 また、東大連家文書(あわら市)の十郷用水絵図(文政七年・1824年)に、五本区と上関区の境附近、用水と北陸道が交叉する地点に卒塔婆橋の文字があり、江戸時代末期になお卒塔婆の地名が生きていることは興味深い。

参考) 土地改良前の五本  土地改良後の五本

八幡神社、五本のお宮さん
参考) 五本の八幡神社について