卒論とは、たとえば…


2002年度卒業生の卒論要旨一覧
「東北地方の木造仏塔について」
「浮世絵に描かれた女性像-顔の表現と心理描写」〜歌麿美人を中心に
「長澤蘆雪―動物画にみるユーモアと奇想と呼ばれる訳―」
「絵本の歴史-人々が求める英雄像」
「竜安寺石庭の謎に挑む」
「柳宗悦と民芸理論−柳宗悦の民芸美−」
「鳴子こけしとその周辺」
「資生堂の広告美術史」
「パフォーマンス―日本における身体芸術について」
   
「東北地方の木造仏塔について」

 加藤 史恵

 寺院建築の中で,特に木造仏塔についてのテーマ設定をしたのは,毎年訪れていた善宝寺五重塔(鶴岡市),慈恩寺三重塔(寒河江市)の,荘厳さや美しさに心をうたれたからである。

 寺院のシンボルとして存在する塔は,仏教の伝来・その後の伝播に深い関わりがあると認識しているが,本来の由来はどこまで遡るのか。各仏教宗派はどのような位置づけで建立したのか,また,神社にも塔があるのはなぜか。その形式・様式は時代ともに,どのように変化してきているのかなどを研究することは,塔がもつ美としての気高さを認識する上で必要不可欠と考えた。

 また,仙台市宮城野区の本山孝勝寺で,五重塔が新たに建立され,心柱立柱式,上塔式に出席する機会を得た。塔の中心となるべき心柱の構造及び建て方,塔の中心としての信仰上の役割等,日本古来の伝統技術・儀式の崇高さを強烈に印象づけられ,ますます塔への興味関心が増すこととなった。

 木造仏塔は奈良・京都が中心で,壮大・豪奢でよく知られ,建築様式の時代的特徴や変化をよく表している。しかしながら,東北にも多くの木造仏塔があり,中には小さい集落に守られ,他に知られずに佇んでいるもの,廃れて栄華の面影を残さずいるもの,最近になって建立され有名になったものなど,それらが混在している。東北という歴史的に難しい立場にあり,かつ,過酷な気象条件のもとで,凛とした姿を見せる木造仏塔の歴史と建築様式にスポットを当てる。

 そこで,奈良・京都の主だった木造仏塔と,東北のすべての木造仏塔(20基)を現地調査し,寺院建築のシンボルである塔について考察を加える。

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「浮世絵に描かれた女性像-顔の表現と心理描写」〜歌麿美人を中心に〜

 佐藤麻衣子

 日本美術史を4年間研究してくる中で、「浮世絵」というジャンルに興味を持った。特に喜多川歌麿の描く女性の「顔」について分析していきたいと考えた。

 「歌麿の作品は感情表現に優れている」と述べている研究者が多くいる。国内だけでなく、海外でも評価は高く、外国人研究者も「浮世絵」に注目している。私の卒業論文の目的は、人間の感情が一番表れやすいと考えられる「目」の描写はそれぞれどのように描き分けているのか、「感情までも表現されている」と評価される理由は何なのか、という点を探るためである。

 歌麿の遺作は、現在2,000点といわれている。そのなかで30点を研究対象とし、目の描写の特徴を3項目に限定し、「細い、長い、線が太い」という面において、その特徴が最も表れている女性を表であらわしてみた。

 その分析結果から、目が特に細い女性には高位の遊女、芸者が多く、上品さを表現している作品が多いことがわかった。

 また、動作ごとに目の描き方は異なっているのか、という疑問から《台所》という作品をとりあげ述べている。この作品に描かれている4人の女性はそれぞれ異なった動作で目の表現も全く違っている。また、職業や位ごとに目の表現は変えているのか、という点については職業別表現の節で述べている。ここでは《当時三美人》のなかに描かれている職の異なる三人の女性の目の描き方に注目している。

 大学院での研究は、歌麿に限らず、春信、清長、国貞などの美人画にもふれて、浮世絵美人画の秘密に迫りたい。   

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「長澤蘆雪―動物画にみるユーモアと奇想と呼ばれる訳―」

 佐藤 恵美

 江戸の華やかな美術に興味をもったわたしが、とても興味のひかれる本に出会った。それは榊原悟著『日本絵画の遊び』である。はじめて蘆雪の絵画に興味をもったのは《群雀図》小襖をこの本の挿絵で見た時である。本物の絵を見たわけではないが、江戸の華やかな美術をたくさん見てきた中で、その素朴さとかわいらしさに心引かれた。この作品を見た時に、以前飼っていた小鳥のしぐさにとても似ていて、ちょっとした姿やしぐさがうまく表現されており親しみを強く感じた。

 また、この本では《那智滝図(瀑布図)》が全体図と部分図にわけて挿図が載っており、蘆雪の巧妙な空間マジックが示されている。これを見た時、これほどの空間が、流れ落ちる水と滝壷から吹き上がる水煙をうまく表わし、さらに滝の大きさと滝壷の深みを感じさせる構図になっていることに感動させられた。そして、この本でも紹介されている《象と牛図》を図版で見た時は、象とカラス、牛と子犬といったそれぞれの大きさの対比に驚かされ、さらに、白象と黒牛に白い子犬と黒いカラスといった色の対比までもが、みごとに表わされていることに面白みを感じた。加えて、それらの作品を描いた長澤蘆雪が円山応挙の弟子であると知り、応挙については以前に興味を持って調べたことがあったので、弟子である蘆雪により親しみを感じた。

 蘆雪は動物画を好んで描いているので、動物画を中心に取り上げ蘆雪の魅力に迫る。蘆雪の特徴である対比表現、側面性の欠如した表現、平明な抒情性をもった親しみやすい表現、ユーモアある表現は見所である。また、様々な論文を読んでいると、蘆雪はたいていの場合、若冲と蕭白とともに“異端の画家”や“異端の画家”といったようにひとまとめにされている。このような「奇想」とまとめてしまうことに疑問を感じたので、蘆雪と若冲・蕭白の画風の違いを明らかにしながら考察する。

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「絵本の歴史-人々が求める英雄像」

 谷津祥子

 私は、大学でこのゼミに入り、美術の歴史を学ぶとともに、昔から興味があった絵巻物への知識を深めた。そして御伽草子などにみられる室町時代から江戸初期にかけて作られた短編の物語に興味をひかれ、詳しく調べてみたいと思った。こうして今回の卒業論文のテーマができあがっていったのである。

 私は、その中でも比較的新しい題材である「桃太郎」に魅力を感じた。それに関係する様々な文献を読むうちに、現在私たちが昔話として聞かされるものと、その話が作られた頃の内容との間に、いくつかの相違点があることに気付いた。それとともに、各時代や文化ごとでは、一体どのような話が好まれたのかということに興味が沸いた。そこで、この論文では「桃太郎」にテーマを絞り、この物語に注目して絵本の歴史を追ってみようと思った。

 第1章では、物語に関する資料や研究論文などから「桃太郎」に関する基礎知識を挙げた。次の第2章では時代ごとの話の内容を調べていった。古代から鎌倉・室町や江戸、そして近代の戦争の時代を経て、現在にいたるまでの間に、それらの内容がどのように変化していったかを研究した。最後に第3章で、これまで調べた各時代の内容や描かれた英雄像と、それぞれの社会の時代背景や文化を照らし合わせてみた。絵に表れた登場人物の服装や顔つき、また道具や背景などに注目し、これらの関係を明らかにしていった。さらに、その時代に生きる人々が物語に何を求め、またどのような英雄像を求めたのかについて解明しようとした。

 その結果、それぞれの「桃太郎」の姿には各時代の、子どもに対する願い、理想の姿がこめられているということを学んだ。これらのことをまとめて卒業論文とした。 

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「竜安寺石庭の謎に挑む」

 菅野 まどか

 私は、日本を代表する枯山水として有名な竜安寺石庭について研究した。なぜこの庭園をテーマに選んだかというと、竜安寺石庭が日本で一番謎の多い庭園だからである。この庭園に関する謎は大きく分けて3つある。

 1つは庭園の作庭年代が不明であることである。竜安寺石庭は造形が非常に抽象的で理解し難いので、禅問答を表していると解釈する人が多い。そして庭園が禅を表現しているので作庭年代も禅宗が最も盛んだった室町時代だというのである。しかし、竜安寺石庭が室町時代に作られていない証拠があった。竜安寺石庭は禅院にある方丈の南庭に作られている。しかし、禅院の方丈は1619年の寺院改革が起こるまで儀式に使用する神聖な場として、白砂以外は何も置いてはいけないという掟があった。この掟を破って庭園を作るとは考えられないので、この庭園が作られたのは寺院制度の起きた1619年以降、すなわち江戸時代初期であることが分かった。

 次の謎は竜安寺石庭の造形についてである。他の枯山水の庭が植栽を用いて具体的な景色を表現しているのに対し、竜安寺石庭は白砂に15個の石を配置しただけの非常に抽象的な姿をしているのである。この造形は何を意味しているのだろうと、様々な説を唱える人が多いが、私はこの造形について、石の持つ魅力を白砂の上に表現した「盆石」を真似たものではないかという結論にいたった。

 最後の謎は竜安寺石庭の作庭者についてである。導き出した造形意図から、作庭者は作庭の知識があまりない者であることが分かった。そして、あまり予算を掛けないように作庭されていることから、経済状況を考えて寺の者に手伝わせてこの石庭を作ったのである。このことから、竜安寺の住職が寺の僧侶を指導しながら作庭していったという結論に至ったのである。                              

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「柳宗悦と民芸理論−柳宗悦の民芸美−」

 高橋 とも子

 柳宗悦は「民芸」こそ美の本質であると定義した。彼は、どのような道をたどって「民芸」という言葉をつくり、その「美」と出会うことになったのかを、彼の生涯と民芸運動という活動を通して見ていった。

 また、民芸理論を形成するにあたり最も重要な対象は「やきもの」であったことに注目し、柳がはじめに民芸の美しさに目覚めた陶磁や、民芸運動として柳とともに活動を行い、影響を与えた個人作家達の作品について取り上げた。

 柳宗悦の唱えた民芸理論は、従来美の対象として顧みられることのなかった無名の工人の無銘の作に美を見出したものである。無銘品の美を直観することから始まった柳の工芸美学はそれまでの近代工芸の主流であった「貴族的工芸(鑑賞的工芸)」に対して「民衆的工芸(民芸)」の美的、社会的優位を主張した。工芸を美術より一段低いものと見る風潮に正面から反論し、厖大な著作によって工芸理論として成立させた。

 いっぽう、出川直樹らによる柳の民芸理論の見直しは、全面的な否定という結果を生んだが、実際に社会の変化が民芸理論の矛盾に生じたのではなく、元々の理論自体が矛盾に満ちているという主張であった。

様々な民芸品が生まれた背景には、民芸理論の無理解や無視などによる、民芸の語の一人歩きという見方がされていた。柳の特殊の工芸観、美の意義、工人への期待は、現実と照らし合わせにくいものであり、存在しがたいものであった。

 現代および将来において生活様式の変化・機械による生産の変化で、昔ながらの手仕事で日用品として使用されていた民芸品は、現代において新しく生み出されない以上、過去の大きな文化遺産としての価値を持つ芸術品と同じものである。

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「鳴子こけしとその周辺」

 桜井 千春

 私が卒論のテーマにこけしを選んだのは、私の家でこけしを製作していることが大きく影響している。以前から、どうして私の家ではこけしを作っているのかと疑問をもってきた。そこで、こけしがどのようにして始まり、各地で特徴をもっているのはなぜなのか、こけしの歴史を通して見てみようと思った。そうすることで、なぜ私の家などでこけしが作られるようになったのか、その理由が見えてくるのではないのかと思った。  はじめに、こけしの起源そして名前の由来諸説を調べたが、様々な考えがあり、はっきりと断定することは出来ないが、御所人形や堤人形から、すくなからず影響を受けているのではないのか、と思った。

 次に各地のこけしの特徴を調べてみた。こけしの構造、胴の形、頭の形、描彩と様々で、改めてその個性に驚かされた。またよく見ると、類似する点も見られ、伝承の様子がうかがい知れた。そして鳴子こけし、特に私の家も含まれる大沼一族のこけしを見てきた。各工人について、その工人の生活の様子や性格なども加味しその作品を調べた。各工人がそれぞれに特徴を持った作品を製作しているが、大沼一族として共通に繊細で華麗な描彩がみられるのではないかと思った。

 現在でも、私の祖父や父が、先代の工人の形を復元しつくっている。やはり伝統的なものに最終的に行き着くのかと考えたが、こけしについての自分の見方にもっと時間をかけなければ、伝統の良さは、理解することが出来ないのではないのかと思った。

 最初はこどもの玩具であったこけしであるが、天江富弥氏により文献に紹介されると一大ブームとなった。当時のこけしは決して上手とはいえないが、素朴であり、誰にもこびることのない純粋さが感じられる。利潤追求ばかりの世の中にこのようなものがあったのかと、天江氏は驚いたのであろう。時代の変遷と共に、こけしも様々な変化をとげたが、誰もが利益ばかりを追い求める現在、童心をとりもどしてくれる、天江氏が見たような素朴なこけしこそが必要なのではないのかと思った。                    

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「資生堂の広告美術史」

 五島 睦美

 広告は一般的に美術作品としては広く認知されていないが、日常的に見る広告には美術作品としても価値が高いものが数多くある。今回は、その中でも私が常々惹かれていた資生堂の広告について、その歴史や芸術性について研究した。

 第1章では資生堂社史をたどり、第2章では広告美術史と資生堂の広告美術の関わりを考察し、資生堂及び広告美術の歴史を体系的に振りかえることにした。後に断片的に登場する資生堂の広告、それを制作した芸術家達を知る上では、資生堂やその広告美術の歴史を知ることは重要な基礎知識となるだろう。また、資生堂だけでなく広告美術史全体を把握することは、ある時代の資生堂の広告とその他の広告を比較してその違いを知る上で必要なことであると考える。

 第3章では資生堂の広告美術を語る上で欠かせない3人の芸術家について掘り下げた。アール・ヌーヴォー、アール・デコを基調とした「資生堂スタイル」を確立した山名文夫、昭和41年に一世を風靡した「太陽に愛されよう」のポスターを生み出し、ポスターに斬新な写真作品を取り入れた中村誠、「ニュー・アール・ヌーヴォー」というべき作風で東洋と西洋の美の融合を目指したセルジュ・ルタンス。彼らの作風はそれぞれ異なるが、いずれも資生堂の広告美術に多大な影響を及ぼした。3人について考察することで、資生堂の広告の魅力が紡がれてきた背景にはどういった功績があったのか知ることができた。

 第4章では資生堂の広告美術について、今後期待されるものは何かについて考察した。ここでは現在資生堂が提唱しているテーマ「サクセスフルエイジング」について取りあげ、これに広告制作がいかに関係していくかについて推測した。常に時代の先端を行く資生堂の広告美術の、さらに未来を予測することは困難であったが、一方で非常に興味深い研究テーマでもあった。

 広告というと、往々にして商業的意義においてのみ評価されがちである。しかし今回の研究で、美術作品として評価するに値する広告に数多く出会い、その美術的価値を認識できたことは、私にとって大きな収穫であった。 

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「パフォーマンス―日本における身体芸術について」

 佐藤 歩

 パフォーマンスとは、作家自身の身体を作品として提示する美術の総称である。わたしは1950年代後半から1960年代にかけて日本でおこなわれたパフォーマンス作品についての研究を行った。

 第1章では、まず敗戦後の日本美術界の復興と変遷を具体的に紹介した。そして戦後のパフォーマンス美術の先駆となったグループ「具体美術協会」の活動の詳細を挙げつつ、やがて身体から絵画作品へと収斂してゆく過程を追いながら、具体美術協会にとっての身体芸術の意味を問うた。

 第2章では、具体美術協会や海外の美術運動から影響を受けた若手作家たちの「反芸術」運動を中心に、読売アンデパンダン展や街頭で繰り広げられたパフォーマンス作品について、資料を参照しながら年表を作成した。

 その年表をもとに、第3章では具体美術協会が行ったパフォーマンスと「反芸術」パフォーマンスに特徴的である、裸体を晒す等の過激的な特徴を比較しながら、日本における身体芸術の意味を探る試みを行った。

 時代や社会状況の波がどのように美術と関わり、また美術がそれらをいかに表現するのかという興味・関心が、私が美術を研究する根本にある。テーマを50年代後半から60年代という時代に選択したのも、日本が敗戦を迎え、“もはや戦後ではない”という言葉が登場し、安保闘争が起こり、東京オリンピック、万国博覧会が開催され、日本が新しい世界に突入していく激動の時代だったからである。それは今私たちが立っている場所の真のスタートラインだったかもしれない。

 そのような時代の中で、術家たちは社会に身体を投げ出して美術作品を作ろうとしていた。形のない作品において、彼らの行った社会と美術の関わりあいの意味が、本稿を通じて浮かび上がってくればと思う。 

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