『失われた景観―名所が語る江戸時代―』(長谷川成一著・1996年))を読んで以来、象潟訪問は念願であった。松島とならぶと賞された見事な景観が、どうのようにして失われたか、自分の目でも確かめてみたいと思っていた。象潟町郷土資料館で齋藤一樹氏の話を聞いたあと、いよいよ現地へ。
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象潟の海が地震による海底隆起で陸地となったのは文化元年(1804)、その後の藩の政策により田地化が進んだ。(中央は金鯛島か。) 立秋過ぎとはいえ真夏の暑さ。揺れる穂並みの向こうに点在するかつての島々。(右は絵松島、奥は奈良島か。)
小鳥島。 小鳥島付近から山吹島、銭貝森など。
鳥島にある寺院(蚶満寺ではない)。 国道側から蚶満寺(かんまんじ)へのアプローチ。
北西側からのアプローチが旧参道。 ということは、この山門は北西向きということになる。
蚶満寺山門の見事な装飾。蟇股(かえるまた)は老松に姿を変えている。下は二十四孝のうち「扼虎救親」。父親でなく母親が表わされるのは、珍しいのではないか。 蚶満寺山門内に立つ金剛力士(吽形)。格子の間からカメラだけ突っ込んで撮影。
蚶満寺境内に立つ芭蕉像。左の句碑には「象潟の雨や西施がねぶの花」とある。「象潟や雨に…」で覚えていたのだが…。 蚶満寺のある八ツ島は、地図で見ると九十九島中最大の島。東側から見る。
九十九島のほぼ中央を走る用水路。その直線ぶりが、点在する島々とどうもしっくり調和しない。 素朴な造りの橋と小屋、水面には鴨。こうしたのどかな風景を見るのは久しぶり。
失われた景観は取り戻せるのか。自然が自ら破壊した景観を人間が取り戻すことはできるのか、許されるのか。 田地化が景観破壊の固定だったとすれば、そこにビニールハウスがたつことは、どう考えればよいのだろう。

象潟のアイヌ人物図
 象潟調査のもう一つの目的は、蠣崎波響の《夷酋列像》によく似た《アイヌ人物屏風》を実見することだった。
 正確には、東北福祉大学芹沢_介美術工芸館《アイヌ人物屏風》と非常によく似た作品で、どちらにも波響の《夷酋列像》と似たポーズの人物が含まれている。
 象潟町郷土資料館の企画展「象潟と北海道展」に出品されていた作品は、思ったより彩色が鮮やかで、筆致も粗放ながら力強く、また芹沢本にはない図柄も混じることから、芹沢本とは違う手によるものと思われた。
 屏風の所蔵者は、江戸時代に東蝦夷のアッケシで代々通辞(通訳)をしていた木内嘉右衛門の子孫とのこと。ほかに北海道の古地図なども伝わっているという。
 気になったのは、芹沢本にあるウイマムの図が、全く違う労働作業に変わってしまっていること。通辞がアイヌの生活習慣に無知であるとは考えられないから、これは画家の「責任」かもしれない。この図は《夷酋列像》には描かれていない。
 いずれにしても、興味深い作品であり、今後さらに詳しく検討してみたい。
(どうもこういうテーマで書くと固くなってしまう…
。)
石頭の地蔵さんは何も答えてくれない。(蚶満寺境内)

提案:国道の西側あたりに展望塔を建てたらどうだろう。
    函館の五稜郭タワーのような。
象潟周辺 拾い撮り
道の駅「象潟ねむの丘」で。娘は1年ぶりに見る日本海の潮風をうけてご機嫌。 道の駅「にしめ」に隣接したスーパーで。岩ガキはこのあたりの名物だそうだが、食べそこなった。ちなみに、1つ300円。
道の駅「にしめ」のそばで。ヒマワリ畑が迷路になっている。真ん中やや右で、娘が手を挙げている。 秋田の夏は確実に仙台より暑い。しばらく駐車していると、路面温度は50度に近づいていた。

お礼

おまけ
象潟町郷土資料館の齋藤一樹さんには
詳しい説明や貴重な刊行物のご提供をいただき
たいへんお世話になりました。
あらためてお礼申し上げます。
井上ゼミのトップページ 芭蕉はホンモノ、曾良はニセモノ(合成)。