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2004年10月3日(日)
井戸掃除

2軒下の家主、Oさんは現在、内地で暮らしている。が、諸事情により、先頃、急遽西表に戻ってきていた。
Oさん一家はもともと台湾で暮らしていたらしいのだが、戦後家族ともども西表に引き揚げ、この地に屋敷を構えた。多い兄弟の中、Oさんのみがこの屋敷で生まれたのだという。
しかし、兄弟はみな内地へ移り、やがて土地は忘れられた。
ただここで生まれたOさんのみが、この地に未練を持ち、いつか定年後に妻と戻ってこようと思っていたという。
彼は10年ほど前、荒れ果てた屋敷跡に掘建て小屋を作り、そこに住み込みながら、ブロックの母屋を建設した。
住むことはなかったが、その屋敷は内地で働く彼にとっての心の拠り所ともなっていた。
が、彼が留守にしていたその間、屋敷は適切に管理されることもなく、再び荒れ果てた。
今回、彼は戻ってきて、まず屋敷の復旧に没頭した。雨漏りする箇所をシリコンで埋め、また部屋中の長年の汚れを取り除いた。
Oさんはここに戻ってきて住むのであろうと僕は思っていたのだが、しかし実際はそうではなく、彼はこの屋敷の復旧が終われば、また仕事の為に内地に戻ると言う。
せっかくの郷里への里帰りながら、彼は休むことなく動いていた。
さて、大方の作業も終わった。しかし、最後に大きな仕事が残っている。それが井戸の清掃であった。
Oさんの屋敷には立派な井戸があり、それはOさんが生まれる前からあったものだという。記憶では非常によい水源で、干ばつでも枯れることなく、甘い清水が溢れていたという。
が、そう聞いて僕が井戸を覗いてみれば、いやいや、とんでもなく汚れている。
水は黒く澱み、かすかに匂いすらした。
「だからよ。この井戸をきれいにするまでは帰れんわけさ。先祖の供養の一つだ」
Oさんは言った。
話の流れで井戸掃除に付き合わされることになってしまった僕であったが、これまでにしたことのない経験は金を払ってでもしておきたいものである。
ましてや労働ぐらい。喜んで朝から付き合った。
まず、給油所から借りてきたポンプでひたすら水を汲み上げる。
水はそのまま前泊の浜へ流していたが、これが結構な水量である。まさかかように深いとも思いもせず、ただどんどん下がっていく水面を見つめていた。
ホ−スを通り、白砂の上へと落とされた井戸水はやがて黒いヘドロの混ざったものへと変わっていた。
水位が下がり、剥き出しになった井戸の側面にも汚い土砂がこびりついている。
「昔は家族で井戸を掃除したもんだけどな、20年も何もしていないとこうなるんだな」
Oさんもあまりの汚れに驚いている。水道につないだ別のホースから水を出し、井戸の壁面を丹念に洗い流しながら、作業は続けられたが、その間、井戸からは様々なゴミが上がってきた。
古いブルーシートやビニールゴミ。木材などである。まったく酷いものである。もし、井戸の神様が実際にいるのであれば、これは怒る。
やがて水は底を尽き、勢いよく井戸水を吐き出していたポンプのホースはブブブッと汚い音を立てて、急速に縮んだ。
底にはヘドロがヌラヌラと光を反射している。これを取り除かないことには井戸を清掃したとは言えない。
水を少し貯めては、ポンプでヘドロごと汲み出すなどということをしていたが、そのたびにポンプに小石などが詰まって動かなくなる。
こんなことの繰り返しで埒があかないのだ。
しょうがないので、ここからは、底に溜まったヘドロを掻き出す作業である。Oさんが脚立を井戸の中に下ろして井戸に入り、バケツに汲んだヘドロを紐を引き上げて僕が捨てる。
この同じ作業を何度も何度も繰り返す。
ヘドロは相当深く、Oさんは膝上まで埋まりながらの必死の奮闘であった。
臭いのみならず、井戸の底には相当蚊が溜まっていたようで、時折、Oさんの怒鳴り声とも悲鳴とも付かない叫び声が聞こえる。
しかし、どうみても狭い井戸の底で、脚立が邪魔となって作業しにくそうなので、「脚立上げますか」と何度か訊ねたのだが、この質問には決まって押し黙る。
その理由こそ口にはしないが、どうも僕が脚立を上げたまま立ち去るののではないかと心配でもしていたのだろう。なかなかに複雑な人である。
が、考えてみれば、あのような地の底では誰でも疑心暗鬼になるのであろう。僕だってまさか井戸の中の作業まで手伝いしたくはないもんなあ。
果たして、Oさんの健闘で、ヘドロの底は更に下まで下がり、小石混じりの井戸の底が見えてきた。地上にはくみ出したヘドロが山となって異臭を放っている。
「よおし、これまでにしよう!」
Oさんはそう言って、作業を切り上げた。まだヘドロは残ってはいるが、二人とも疲れ果てていたし、第一、これ以上掘っては、脚立が井戸の上まで届かなくなるところであった。
上がってきたOさんは勿論、真っ黒。気付けば僕も真っ黒である。
「これだけやれば、母ちゃんたちも喜んでくれるだろうさ」
Oさんはそう言ってまた僕にも感謝の言葉を述べた。
おもしろいなあ。うまそうに煙草をくゆらす彼を見ていてそう思う。
先祖を敬う気持ちは島も内地も同じ。若干今は日本人のそういった信仰が薄れてはいるが、基本は変わらないだろう。
が、島の人々の信仰は即物的なお墓やトートーメーだけでなく、先祖=家でもある。家は家名というより、実際の屋敷である。
この部落では屋号が今も強く意識されているが、実際に今僕が借りている屋敷を今の家主から買い戻そうとしているのは、さらにその前の持ち主であったりする。
こういう意識は、島だからこそのものだろう。
田舎から都会に移り住み、自分の先祖が暮らした土地すら見たこともない大多数の人々にとって、屋号だの、屋敷だのといったものは、さほど執着するほどのものでもあるまい。
家は自分の根っこであることを島の人たちは無意識で知っている。
また、Oさんのように島を離れて数十年経つ人でも、強く根っこを意識している人は屋敷を大事にする。彼は荒地に家を建てたし、家の急を聞いて島に飛んで来た。
ついでに屋敷を清めて帰ることが先祖供養とも思っている。
近代に名を成した多くの日本人の偉人はいるけれど、それが自分のアイデンティティに繋がるとは思えない。が、もし、それが近い親族ならどうか。それは充分アイデンティティになりうる。
近しい人ならば別に偉人でなくてもいい。この僻地と呼ばれる島に住み、マラリヤと闘いながら、田畑を営み、家族を作り、そして名を成さないでも自分という種を残してこの世から去っていた先祖の存在は、その屋敷跡、毎日使った井戸、もっと言えば、茶碗一つからでも子孫は感じ取る。
名もなき人々にも近しいというだけで、人は優しさを暖かさを思い出せる、いや想像できるのである。
これは全て結局は本人自身の家族体験にあるのだろうなあ。先祖をアイデンティティとして意識できる人は結局幸せなのだ。
故郷があるというのは、いいものである。

2004年10月1日(金)
服着た外離れさんの訪問と御嶽の前でハダカで遊ぶテレビ関係者

外離れ島のNさんがやって来た。先の訪問から2週間程度。今日も買出しである。
今回は僕も在宅していた。玄関先に腰掛け、少し話をした。
お土産に山盛りのシークワサーを持ってきてくれている。前回妻があげたグリーンティーの礼だと言う。
勿論、今回も服を着てきている。あちらではずっとハダカのNさん。数少ない大事な服を汚すこともないし、第一楽なのだろう。
かく言う僕も最近では家の中では素っ裸で、妻には見苦しい思いをさせているであろうが、なんと言っても楽なのである。
Nさんは買出しに祖納に来る時、必ずヒゲを剃って頭もきれいにし、洗い立てのようなきれいな服を着てやって来る。
祖納の人々への礼儀だと言う。最初に無人島に住み着いた2,3年はやはりひどく警戒されたと言う。そりゃあ、目と鼻の先に怪しげなオジイが勝手に住み着いたのでは、祖納の人も不安である。
ましてや、近づいてみればすっぱだか。誰でも怪しく思う。
Nさんはそれを彼なりの誠意で少しづつ解いていった。彼は、わきまえている。人里離れたところで勝手気ままに暮らしてはいるが、決して自分のエゴを通そうとはしない。
人里に入ってはそのルールに従っているのである。
僕はハダカのNさんが服着てやって来ることを、「福来た」と勝手に言っている。勝手に吉兆と思っている。海からやってくるニライカナイの使者のように。
買い物を終えたNさんとビールを飲んで、その後、前泊の浜につけた彼のボートに水を運ぶのを手伝ってあげた。そうして潮が引く前に帰る彼を見送っていた。

すると、前泊の御嶽から突然、法螺貝を吹くような大きな音が響いた。「ボオオ、ボオオオ〜!」しばらくそれが続く。
なんだなんだ、と驚く。ここには僕の知らないことが山盛りある。その一つかも知れぬ。なんの行事だと、急いで行ってみた。
すると、予想に反し、部落の人は誰もいない。代わりに大型のタクシーが2台泊まっている。
その関係者か、まばらに人がいた。誰も知らない。
一番近くにいた防波堤に座っている人に声をかけた。彼はじっとうつむき、興味もなさ気に携帯をいじっていた。
「これは何をしているんですか?」
おもむろに上をむいた顔には見覚えがある。英数字名のお笑いコンビの小さい方である。
彼はなんだよという顔をして「さあ・・・」とまたもや興味なさそうに携帯に視線を戻した。
なんだ、こいつ、と思う。西表には芸能人は山ほど来るらしいが、別に僕も興味はない。むしろ、こんな西表自体に興味のない人間来ないでくれとも思う。
と、そこで御嶽の前にいた白浜の人を見つけ、訊ねてみた。
「これから、なんか撮るんですか?大きな音がしたので来てみたんですが」
「ああ、なんか拝みが出来るというので連れてきたんだけど」
「あっ、すみません。驚かしちゃいました?」
その横から法螺貝を首から下げた若い男が顔を覗かせた。別に山伏というわけでもなさそうだが、拝みもできるとは、これまた如何に?
沖縄の御嶽はどこもそうだろうとは思うが、誰でも立ち入っていいという訳ではない。神司の人に連絡は行っているのだろうか、とちょっと気になる。
公民館長にでも知らせた方がいいのでは、と思いつつ、言いつけるみたいで嫌だったので離れて見ていることにした。白浜の人もいるだろうし、そんなに無茶はさせまいとも思った。
小さい芸人は相変わらず、同じ場所に座り込んだままである。
一方、法螺貝吹き(面倒くさいので以下ホラ吹き)はそのまま御嶽前の砂浜から海に向かって法螺貝をまた吹き始めた。
部落の人はみな仕事なのか、誰も出て来ない。法螺貝自体はまあまあ上手いが、ここではそういう問題でもないだろう。
ふと見ていると、このホラ吹き、今度はいきなり素っ裸になったかと思うとそのまま、海に向かって走り出した。TV的には笑えるのだろうが、ここはそう言う場所ではない。
おい、おい!
僕はあっけにとられた。なんのつもりか。
ここは誰もいない無人のビーチではない。祖納の人の生活圏である。ましてや誰も見ていない夜でもない。真昼間、外からやってきたお笑いの番組が大声をあげて走り回っていい場所ではない。
前泊は信仰の地でもある。
部落の人々に対する敬意を感じなかった。Nさんですら服を着てくるものを・・・。
旅の恥は掻き捨てではない。部落の人は見ていなくても、僕はこういう人間がいたことを忘れない。
自分への戒めとしても。

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2004年9月30日(木)
生協の仕分け作業

離島は大変である。まず、生活物資に幅がない。島にスーパーは何軒かあり、それぞれで最低限のものが揃いはするが、やっぱりそれではつまらないと思うのが消費者の心である。
色々モノがある中から選ぶ楽しみは家計を支え、家族の食事を預かる女性の特権でなくてはならない。毎日旦那に子供に何を食べさせるか。それを考えるだけでも大変なのに、チョイスの幅がないとなれば、なお一層大変である。
その点、生協はありがたい。幅広い品揃えと生協ならではの安心感は、その部分を補完してあまりある。
かくいう我が家の女将も生協に参加することとなった。毎週配布される次週購入可能な商品を載せたカタログは、それ自体、娯楽の少ない島での小さな喜びとなる。毎週二人であれこれ言いながら見て楽しみ、結局買うのは牛乳に納豆だけであるが。
どっかでも書いたが、ないことよりもあることの方が嬉しい。よく豊かさを議論された時代があったが、ないことへの憧れはある人の持つものであり、実際にない人に豊かですね、と言えば張っ倒されるのである。
さて、今日はたまたま人を送る用事があったので上原港まで出向いたが、ちょうど週に一度の生協の物資の到着日であった。港の片隅に運ばれたコンテナの前には西表の西部中から女性が集まっている。各地域、各班ごとに代表者が集まり、コンテナから下ろした荷物の中から自分たちの班の荷物を仕分けしているのである。
う〜む。西表にはこれほど女性がいるのかと思わされる。これだけ女性ばかりが集まっている姿は島ではちょっと見ない。
けっこうな労働であろうが、どの顔もけっこう楽しそうである。この為に毎週今日を休みにしている人までいるそうな。
ところで、こんな話を聞いた。
とある島で、生協が同じように盛んになった。それを見た島の長が、これでは島の売店が潰れる。生協は入れない方がいい。そう言ったというのである。
それは間違いだなと思う。よく町中でも商店街の近くに大型店が出店して問題になるが、しかし、ものを購入するのは、また店を選ぶのは消費者の権利である。
確かにそうした大型の資本に小型店が対抗していくのは難しい。
しかし、考えなくてはならない。なぜ、消費者が向こうへ流れるのか。本当にそれが限界か。自分に出来る努力はもうないのか。
小型店にしか出来ないサービスもある筈である。細やかな心遣い。何処よりも美味いオリジナル商品。大型流通では出来ない島の地の材料を使った生鮮食品。顧客をつかめるかどうかは努力次第。
僕達だって西表に最高に美味い豆腐屋があるならば、毎日でもそこでゆし豆腐を買いに行く。実際に生協では宮古石垣には生のパンやら豆腐やらは送られてこない。
圧倒的な競争力の侵攻は確かに地元には大変なことであるが、贔屓の客を掴むことで、同じ土俵で勝負しなくてもよくなるのではないだろうか。
これは自分自身にも対する忠告である。

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2004年9月29日(水)
ビーチコーマーの季節

長く続いた台風の影響で仕事もなかった。が、僕にはちょっと価値のある風であった。
27日は台風がすぐそばを通過する中、仕事があったのであるが、当然カヤックは出せないので、ツアーではトレッキングが中心となる。
ちょっと山々を巡り、林床に落ちたモダマの種子を拾ったので、ああ、そろそろモダマは川の流れに乗って海に出て、また海岸に流れ着いているに違いないと思い、ツアーの閉めに風の強い海岸線をビーチコーミングしてみることにした。
が、予想に反し、ビーチには流出した島産モダマは殆ど見られない。代わりにわずか200メートルほどの間に5つもの外国産を見つけたのである。
因みに西表のモダマはDNA的に学名Entada kousyunesisと呼ばれるもので、これまで思われてきた奄美産と同じphaseoloides(いわゆるモダマ)でもなく、別の学者が唱えてきたEntada parviforia(ヒメモダマ)でもないことが明らかになっている。このあたりのことは少し難しく、僕が入っているseeds maniaのMLでも議論の対象となっている。
このE.kousyunesisであるが、学名どおり台湾の高雄にあるものと同じであるということである。したがって結論をいそぎたがる人などからはすでにコウシュンモダマと呼ばれている。
が、僕などは何も台湾産と同じコウシュンモダマなどと呼ばなくてもいいじゃないか、と思う。現地で台湾の人がこれをそう呼んでいるわけはなく、コウシュンモダマは古い日本人学者がつけた和名。日本の南進時代に琉球列島をすっ飛ばし、興味を南へと向けた学者が命名したもの。そんな前近代的遺産に八重山のモダマのアイデンティティーが侵されていいわけがない。
八重山のセマルハコガメがヤエヤマセマルハコガメとして台湾産と区別されるように、ヤエヤマモダマにすれば・・・と単純に思うのである。分類学的に難しいというのであれば、なんとかほんの一箇所でも違う場所を見つけ、そうして欲しいと願うのである。
と、説明が長くなった。話を戻す。ここのところの風で南方産のモダマが多数漂着していることが分かったのだから、今日はビーチコーミングをして南方産の種を拾おうと考えたのである。
さて、妻と一緒にビーチに向かう。西表にビーチは数あれど、なかなかビーチコーミングに適した場所はそう多くはない。
風向きで漂着物の上がるビーチは限定されるし、その時々の喫水線によって、大潮では漂着物が海岸林の奥まで入り込み探せなくなる。
色々あたったが、今日は2箇所のビーチでしか収穫らしい収穫はなかった。
風は強いもののご覧のように空は美しく澄んでいる。
海岸線のグンバイヒルガオの絨毯はそこここに薄紅色の花を咲かせ、まったく悪天候のもとで行う冬場のビーチコーミングとは趣からして異なる。
いつも僕のこの趣味をうさんくさく見つめる妻も今日はちょっと楽しそうにビーチコーミングをしていた。
収穫物はけっこうあった。
外国産の種多数。中には僕がいまだかって一度しか拾っていない種を彼女が見つけたなんてこともあった。
そう言うと彼女もちょっと嬉しそうである。
だが、まだ今年になって出会ってない種がある。ピンクモダマ。僕がそう勝手に命名した赤いヂオクレアである。
その姿は白いビーチで一段と輝きを増し、見るものをたとえそれが興味のない人であっても羨望の目にさせる。
今年はいつかの種に会えるだろうか。拾ったらあげるという予約が一件入っているのでなんとか、2つみつけて、彼女にその一つをプレゼントしたいものである。
きっといいラッキーチャームになるだろう。
因みに今日はHIROMIX風に彼女を撮ってみた。色々できるものである。

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2004年9月28日(火)
大事な時間

なんだかんだでバタバタしていた。今だけではない。西表に二人で移住してからずっとである。
よくいう甘い新婚生活でもない。生活のリズムは不規則にならざるを得ず、さらに収入も乏しく、と特に新しい土地での不安と戦う妻には辛い思いをさせている。
しかも、生活に余裕もないので、極力外食は避けてきた。
が、二人で頑張ったおかげで、この3ヶ月で厳しいながらもほんの少しのゆとりが見えてきた。
折りしも、妻の誕生月である。僕は多いと言われながらも、付き1万円の小遣いをもらえるようになったので、これで何か彼女にプレゼントをしようかと思った。
なんかアクセサリーでも・・・と思ったのだが、が、彼女は頑として首を縦に振らない。着けていくところもないし、いらないと言う。
ならば、ということで島で数少ない立派なレストランへ食事をとりにいくことにした。月に一度の外食ながら、4200円のコース料理。
贅沢ね、と言いいながら彼女も嬉しそうであった。ところが、当日のあの火事である。
彼女は再び心を重くしてしまった。
それでも、僕はこのままではいけない、と思い、今日は是が非でもと、彼女を食事に誘った。
「誕生日は誕生日。早く行かないとなんのお祝いかわからなくなる!」
そう言って、返事も待たずにレストランを予約した。彼女もしぶしぶ従う。が、行くとなれば、お洒落をしなければ、と思うのもおんなごころ。
西表では滅多にしなくなった化粧を久しぶりにまた、念入りに施す内に彼女の顔が明るくなってくる。良かった・・・と僕は思う。
レストランに着いたのはまだ開店前。一番の客である。その落ち着いた雰囲気に彼女もリラックスしているようだ。
友人の支配人が現れた。彼にワインのチョイスを頼む。贅沢だね!と思う気持ちが久しぶりで嬉しい。別に物欲はないが、心の贅沢はたまには物欲に伴う。
衝動ではなく、ご褒美と思って行う贅沢。
毎日いっしょではさほど話すこともないけれど、ゆっくりとした時間を共有することが出来る。
美味しい料理に美味しいワイン。テレビを横目で眺めることもなく、テーブルの蝋燭の明かりを囲んで目の前の料理の味にただ感激しながら、「いいシェフだね」などと一丁前の口を利く。
コース料理のゆったりとしたペースもいいのだろう。支配人のちょっと二人に入ってくるペースも申し分ない。
「一月に一度は贅沢しに来たいね。頑張って仕事してさ」
「うん、島の中ではお得意様になりたいね」
そう言いながら、最後のデザートを楽しんでいたら、支配人、シェフ以下、スタッフ一同がサービスのフルーツとアイスのプレートを持ってきてくれた。
「誕生日のお祝いです」
そう言ってみんなで僕達を囲んで、彼女に「ハッピーバースデー」を歌ってくれる。
小さなサプライズは大きな感動を呼ぶ。今まで毎年お家でハッピーバースデーを歌ってもらっていたという彼女の、この上ない嬉しそうな笑顔に僕も幸せな気持ちになった。
ありがとう!

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2004年9月26日(日)
焼け跡の後片付け

朝、道路をガガガと重機が通る大きな音がしたので、飛び起きる。着替えて出てみればTさんのお家の後片付けが始まっていた。日曜日であるせいか、手伝う人間も非常に多い。勿論、Tさんもいる。一夜明けて落ち着いたということもないだろうが、手伝う人間に気を使ってか、無理に笑顔を作っているようにも見える。
そのせいか、特に現場には悲惨さはない。けが人が一人も出ていなかったこともあるだろう。集まった人間はなにかしら彼に恩のある人間であるが、努めて明るく作業を手伝っていた。
見る見る間に焼け残った壁などは取り壊された。その中から燃え残ったものを拾い集め、ゴミや焼けた柱はダンプに積んで搬送する。すごい熱であったのだろう。一円玉は溶けてひっついていた。
手伝っていた青年がなにかを楽しそうに見ている。見ればTさんの写真であった。
このひどい火事の中、Tさんのお母さんの写真は燃え残った。Tさんも驚いている。オジイが言う。
「これは母ちゃんの思し召しだよ。とにかくまず簡単でいいから仮の位牌を作れ。新しく家を建てたらその時、しっかりしたものを作ればいいから」
生きている人間が勿論一番大事だが、その人が生き続ける為には、心の中の今は亡き祖先も大事である。彼らが自分を見守っていると思えばこそ、人間は孤独を耐えられるのであろう。
自分の存在していることを知るのであろう。
ところで僕はこの地にTさんは再び家を建てるのだろうと考えていたが、そうではなかった。ここは他の人の土地であり、Tさん自身の土地はまた別の場所にあるという。
Tさんはこの土地を主に返す為に、焼け跡のみならず、植木から焼け残った便所まで全てを撤去しなければならなかった。
立派なバナナの木にヤシ。シークワサー。全てユンボで掘り起こしていく。
実はTさん、自分の先祖の土地にお家を再建するべく、借家住まいの中、一生懸命その資金を貯めていたらしい。
そう言われてみれば、よく仕事はするもののなにも贅沢はしていない。唯一の贅沢は釣りの趣味と船だけである。
が、その資金を彼は床下貯金していたらしい。全く全ては無に帰してしまった。
その話を聞いて僕は言葉が出なくなってしまった。
Tさんは敷地の全てが更地に戻った後、手伝ってくれた人にブガリを用意していた。公民館での慰労会である。
バーベキューを用意してくれたらしいが、僕はまだ、気分がすぐれない妻のことなどもあり、少し気が引けていかなかった。
だが、そうしているとわざわざ使いを使って呼びにまで来てくれたのである。
でかけるとすでにブガリはいい感じで進んでいた。
青年連中とオジイ連中で別れてはいたが、Tさんを囲み、みな楽しそうにやっている。
こういう時は、難しいなあ・・・僕は思う。僕にはなかなかTさんに対してどういう表情をしていいか分らない。
苦しい中の心遣い、ありがたく受け取って楽しくするのが、Tさんに報いることなのだろうとは思うけど・・・
やがてまずオジイ連中が去り、それを潮に後片付けが始まった。終わると今度は青年連中が帰っていく。
しかし、そういうタイミングを計れない僕は、取り残されてしまった。
Tさん、そしてその一番の弟分のYにいにいに、2番目の弟分のSさんと一緒に残り、電気の消えたテラスでまだお酒を飲んでいた。
Yにいが言う。
「Tにい、がんばろう!僕らなんでも手伝うから。まずTにいの家を作ろう!ああ!今日はTにいと一緒にここで寝る!」
Yにいも熱い思いやりの深い人である。Tにいにもその気持ちが通じてか、Tにいも先ほどよりはリラックスしているように見えた。
話は熱く、また僕にも及ぶ。僕もこの3人ならと、場違いではあったかもしれないが、ちょっと気になっていた妻のことを打ち明けた。
彼女がまだ祖納に慣れず、不安に思っていることなどである。
と、その時、彼女からの携帯が鳴った。早く帰ってきてと言われるのかと思えば、家の裏の露出している水道管のパイプが風で倒れた木によって外れ、水が止まらないという。
それを聞いて「よし!みんなで行こう!」
Tにいがすっと腰を上げた。自分のことはさて置いての、この頼りがいである。先ほどの僕の話を聞いて、彼女を励ましてくれようとも思ったに違いない。
僕は妻にそう告げ、その後、4人で飲めるようにと彼女に準備を頼んだ。
水道管の修理はさすが、あっという間に済み、心ばかりではあるが、妻は3人を手作りのものでもてなしてくれた。
場は和んでいたように思う。久しぶりに見る妻の笑顔に僕も嬉しくなった。
感謝してもしきれない祖納の人々の暖かさなのである。

2004年9月25日(土)
デンサー節大会・・・えっ!お家が火事?!頑張った妻

さて、今日は青年会で上原地区のデンサー節大会の会場装飾の予定である。が、出発間際になって妻のマサヨとまた喧嘩である。西表に来てから実は小さな喧嘩は絶えない。まあ、それは西表が原因というよりも結婚に伴うお互いの生活観のぶつかり合いによるところが大きかったのだが、ちょっと今朝のは違っていた。
もう随分西表にいる僕と違って彼女は、ちゃんと生活するのは初めてのこと。2年前に結婚の前準備として3ヶ月一緒に暮らしたとは言え、今は独立した自分の仕事を影で支え、また自分の留守を守り、初めての祖納部落で得意ではない人付き合いに頑張っている。しかし、そうした部分に大きなストレスを溜め込んでいたようである。
第一に大きな問題は彼女と同年代の話し相手がいないことであろう。仕事で多くの人と接する機会の多い自分と違い、彼女の孤独は痛いほどわかる。が、僕は全て時間が解決すると思い込んでいた。つまり、彼女への手助けを怠っていたのである。
ちょっと暗い気持ちになりながら、僕は大会会場のワイワイホールへと急いだ。着いた時には約束の時間を30分も過ぎていた。大きな遅刻である。申し訳ない。
僕を待っていたメンバーは早速、ステージ装飾に使う椰子の仲間の葉や、月桃の株、アダンの木などを取りに山に向かう。なかなかはかどりはしないが、それでも7人ほどで手分けして充分なだけ切り出した。途中、デンサー食堂で飯を食ったが、その時、ちょっと電話してみようかなと思ったのである。マサヨに。
彼女は祖納部落の一員として学校の運動会へ回っていた。彼女も上原青年会の会員であるが、部落の行事である運動会に二人とも顔を出さないのではいけない、ということで祖納に残ったのである。ええ、因みにややこしいのだが、僕ら二人はもともと上原におり、青年会も上原で、また役付きである為、祖納に引っ越した後も、今年一年はということで祖納を含む西表地区ではなく、上原地区の青年会に在籍を認めてもらっている。
さて、電話しようかと思ったものの朝喧嘩した手前、これがまた謝ってしまうようでなんだかしにくい。人間とは卑怯なもので、こんな時は問題を後回しにしようとするものである。結局電話をかけなかった。
さて、昼後、採って来た草木をいよいよ飾りつけようかという段になって、電話が鳴った。見ればマサヨからである。彼女には大会の最後の表彰式でプレゼンターに賞状やら記念品やらを運ぶ役目が与えられている。
僕はその時間の確認に電話してきたのだろうと考えた。なぜなら、彼女から今朝の喧嘩を謝る筋はないからである。努めて険悪なムードを解消させるべく優しく語りかけた。
「どうした?」ところが、なんだか様子がおかしい。
「あのね、お隣りのTさんのお家から火が出て・・・全焼で家の庭木にも火が移ってて・・・」
最後は泣き声になって聞き取れない。が、これは大変!
すぐ行くと電話口で叫んで僕はホールを飛び出した。すれ違ったメンバーにも短く伝えて車に飛び乗る。
ホールのある中野から祖納まで、これほど短く感じたこともない。途中3台車を追い越した。普段はレンタカーにも追い越される。
祖納仁到着し、前泊浜から家の方角を見上げたが煙は見えない。が、カーブには何台も車が置いてある。パトカーも見えた。
車を道路に置き、僕も家へ走った。人だかり。家は・・・
無事!
マサヨの姿も見えた。落ち着いてTさんの家を見る。
跡形もない(写真左)。
「怪我はない?」「うん」「Tさんは無事?」「うん」
その顔はよほどの恐怖だったのか涙で腫れている。
話を聞けば、昼過ぎ、布団を取り込みに家に帰ってきたマサヨはまだその時点で火事に気付いていなかったようである。
が、外で作業をしていてまた誰かが集落で刈り草を燃やしているのかと思うぐらいの煙が漂っていたらしい。迷惑だなあ、やっぱり布団は取り込まなくてはと、布団を持って入って、裏の窓ガラスが赤く染まっているのに気付いたと言う。
「火事だ!」と直感した彼女は自分の家が燃えていると思ったらしい。動転したのかどこに電話することもできず、とにかく水を!と正反対の方角にある蛇口からホースを目いっぱい伸ばし、が、うまく裏に回り込めず、ホースと格闘しているところに隣人が駆けつけ、スラブ屋の屋上へホースを持って上がって水を撒いてくれたらしい。
実はこの時燃えていたのはうちの家ではTさん宅に面した庭木だけで(写真中)、だが、既にTさん宅は炎上。屋上に上がって水を撒いてくれた隣人もまともな北風に乗って押し寄せる煙に水タオルを顔に撒いての奮闘であったらしい。
とにかく、Tさん宅は消防車でも来なければ消えないほど燃えており、どうにもならない。マサヨはその間もまた別の隣人宅(当時留守中)からホースを引っ張ってきて下から庭木に水を噴出していたようである。かなり熱気がきつく大変であったようだが、これも運動会会場から駆けつけた知り合いに代わってもらって、みんなで消防車が到着するまでの間、延焼を防いでくれたという。その時、彼女は初めて僕に電話してきた訳である。
が、僕が到着した時には全て鎮火し終わった後であった。
集まっていたオジイが言う。「まともな北風だったから危なかった。庭木があったから助かったんだよ。それからこの塀も」
塀は炎で熱せられた後、水をかぶってまだ湯気を上げていた。
焼け跡では水でビショビショになった消防団員(多くは西表青年会員)がホースを片付けたり、焼け残ったものを拾っている。彼らは運動会会場から通報を受けてそのまま飛んできてくれたらしい。Tさんの姿もあった。一瞬の出来事であっただろうが、焦燥感が漂っている。
なにが原因かは分らないが、僕もマサヨもこの気さくで親切で男気のある兄貴分が大好きであった。うちの家が無事だった今、焼け出されたTさんのことが心配であった。
ただ、この集落は恩に情に非常に厚い集落である。Tさんが住む場所はその気になればどこにでもある。建て直すのならば、僕を含めて誰でも力を貸すだろう。
と、ふと気付けば、中野にいた上原青年会のメンバーも全員が揃っていた。僕が飛び出た後、みんな手助けしようと飛び出して追いかけてくれたらしい。熱い気持ちに感謝である。
誰かが、ここには西部の男連中がみんな揃っている、驚いたと言っていた。

さて、火が収まったならば、僕にもせねばならない用事があった。デンサー節大会の開演時間は5時。変更はない。青年会はステージ装飾を仕上げなくてはならない。
一足先に戻ったメンバーを追いかけ僕も戻る。
午後4時半、ようやくステージ装飾は完成した。今年もいい出来栄えである。
因みに優勝者は干立の青年で西表青年会の中心人物であるヨッシー。先ほどまで消防団でホースを握っていたが、今はそれを三線に換えて唄っている。
彼は勿論そうだが、西表の男達はみんな熱い!

が、僕にとって今日一番頑張ったで賞をあげたいのは、やはり妻である。
大きな炎に怯えながら、泣きながら、泣いていても始まらないと怒鳴られながら、それでも火を消そうと頑張った。本当は一番に消防に電話して欲しかったが、しょうがない。
頑張った。
今日は因みに彼女の誕生日であった。

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2004年9月24日(金)
ここしばらくのまとめ

晴天に恵まれた西表。しばらく仕事が続いて嬉しい日々であった。またお客さんが他にもこの天候は嬉しい日々であったに違いない。
仕事ゆえなかなか日記が書けなかったという部分もあるが、それ以上にしばらくの間、京都から大学の友人後輩一同が来ていたことも忙しさを増す要因ではあった。
さて、そんな中で起こった特筆すべき出来事のいくつかを紹介しよう。

仕事関係
最近、仲良川ではサガリバナが再び沢山蕾をつけ、また朝には花を水面に落としている。勿論、7月の最盛期には比べるべくもないが、これは紀行があの時期に近づいているからかと推測。
確かにだいぶ、特に川の水は冷たくなってきた。しかし、今となっては7月頃の気候をなかなか思い出せない。どんなであったかなあ。
しかし、朝夜の冷え込みは今の方がきついはず。妻のマサヨは既に分厚い布団で寝ている。彼女は西表を侮っていたらしく、冬用の洋服の一枚も持ってきていないという。
もともとインドア派ではあるが、今年の冬はさらにインドアになるに違いない。

鳩間にツアーで上陸した。たまたま音楽祭の後だったようで、港では臨時便の観光フェリーと安栄丸で帰る観光客の見送りが行われていた。見送りの際、鳩間の歌い手が桟橋で生演奏をしていた。
歌は鳩間の港。いい曲である。海の見える芝生で昼食をとらせてもらった後、知人の家を訪ねる。最近島の人の手を借りて直された赤瓦の屋根が眩しい伝統的家屋である。家の内部の修理もすっかり落ち着き、外観も内観もともになかなかの風情。
因みにこの家主とは今年家が入れずに素泊まり民宿に長居していた際に知り合った。民宿のおばあの弟であるが、この時、おじいもおばあも留守にしていて、僕らが管理を任されていた。鳩間のこの方はしかし、おじいらをあてにしていたようで、一銭も持たずに西表に用事でやってきたのである。
仕方ないので僕らが彼を招待し、ともに飯を食い、酒を振舞った。彼は一宿一飯の恩は忘れないと言い、鳩間に来る時には必ずお返しするからお家によってくれと言ってくれた。まあそんな縁である。
が、その後、またしてもおじいおばあの留守の際に宿を訪れ、今度は僕らも留守であったのだが、しっかり、僕らの夕食であった冬瓜と豚の煮物を食べて帰っていた。実際には一宿二飯の恩である。
しかし、この間お客さんのトイレを頼んだ際、修理が終わっていないという理由でにべもなく断られた。おいおい一宿一飯はどこへ・・・と思ったが、まあ、変わった人である。鳩間でもこの調子のようでそういう評価をいただいているようだ。
しかし、今度は家のある程度の完成に満足してか、連日続く祭の酒に気分を良くしてか、かなり歓迎し家の案内をしてくれた。たまたまお客さんが本島と石垣出身の方であったので、これが嬉しかったようで、随分懐かしがられていた。今はなき、自分の生家の面影を見ていたようである。
現在は使用されていない豚便所を見て、奥さんは、「ああ、家にもあった。よく豚にお尻をなめられた」と仰っていた。よく考えればすごい体験である。
この知人、今度は必ず奥さんを連れてきなさい。トイレさえ直っていれば無料で泊めてあげるから。また、お客さんがあったら、家には4台自転車があるから、これで島内観光したらいいよ、と言ってくれた。はっきり言って、少し見直した。
良縁というのはなかなかあるものではないが、少しでもこうして気を使ってくれたら、期待していないだけに二倍も三倍も嬉しいものである。人には親切にしよう、情けは人の為ならず。(これで意味あってたっけ?)

外離れコースもいいコースである。GoodOutDoorではこのコースに行く際、前泊の浜からカヤックを出している。祖納のオジイなどから、せっかく祖納にいるのだから、出来ればこちらから船を出しなさいと言われたからである。
実際、いつも出す白浜港と比べれば、外海のうねりが入り込む為、天候が良くなければきつい。また、仲良や船浮湾に出るのにも祖納では少し遠いのである。が、ばあしま、祖納に対し熱い誇りを持つオジイらの気持ちを汲み、こちらから出すコースを定着させようと思っている。
それがこのコースである。他のコースと違い、滝などの売りがないので人気爆発は少し難しい。しかし、外離れ島の内側の穏やかな藻場。琉球黒真珠の養殖筏で作業をする島人の遠景。内離れ島との水路にまたがる砂州の砂浜の美しさ。島の外側のリーフの珊瑚礁の素晴らしさなど、どうしてどうして。
実にいいコースなのである。特に裏側にはハダカの老人キャンパーNさんが住んでおり、彼のお話は面白い。
Nさんとは僕が別のサービスでスタッフをしていた時代からの知り合いであるが、彼は月に一度、祖納のスーパーへ買出しに出る。で、現在は祖納にある僕のお家を訪ねてくれるようになったのである。
かってこのお家で老境の夕凪を過ごしていた家主のオジイと酒を汲み合ったと思い出を語るだけに、このお家へ寄るのも懐かしかったようである。
僕は残念ながらいつも留守であるが、Nさんはマサヨを覚えていたようである。一方のマサヨはハダカでなかった為にすぐにそれと認識できなかったらしい。
が、僕が来るかもと話しておいたこと、以前会った時に好感を持っていたことなどから、僕の代わりにNさんを歓迎してくれた。
Nさんはお土産にと、古く変色した文庫本数冊に使えるのがあれば、と以前誰かが置いていったCDプレイヤーなどを持ってきていた。
まあ、家でも必要のないというか使いようのないものではあるが、マサヨは代わりにお土産にグリーンティーの粉を1パック持たせたらしい。
これがNさんは実はお気に入りである。前回に僕がツアー用に常備している分を置いていったのだが、その後の台風で湯が沸かせない時にも役立ったらしい。
どこに売っているかなと言うので、売ってないから持っていってとマサヨは自家用を持たせたという訳だ。
そのおかげか知らないが、Nさん実によくしてくれる。自分のテント先を僕らのツアーの食事スペースに貸してくれ、またブルーシートで屋根まで作ってくれた。
もとからなんのかんのと親切な人だから、今度の歓待ぶりは凄かった。たまたま参加していた子供用に流れてきたものを拾って海でプカプカ昼寝するのに使っているという浮き輪を譲ってくれたり、みんなで飲む為にビールに入れるようにと、沢山シークワサーをくれたり、と下にも置かない歓迎振りである。
さすがに自分のお昼のおかずを提供してくれた時は、味見程度にさせてもらったが、これは僕だけでなくお客さんみんなが喜んでくれる。僕からも大いに感謝である。先と同じ結論であるが、情けは人の為ならず。かといって期待もせぬことが大事な人と人の付き合いなのだろう。

遊び

とは言え、仕事ばかりなので遊びは夜である。後輩達が来ていたと書いたが、なかなか遊べないのでついつい深酒して語り合うことが続いた。
しかし、お家で遅くまで飲んでいたら、連日のツアー準備と彼らの相手にちょっと疲れていた妻のマサヨが先に入った布団の中から切れた。まあ、当然と言えば当然であるのだが、まだ語り足らずでしょうがなく、僕らは前泊の浜に酒を持って出て飲みなおすこととした。
で、何時であったかなあ。3時は回っていたと思う。酒のグラスを片手に夜空を見上げていたら、ふと頭上を巨大な物体がゆっくりスーッと横切ったのである。
「ああ、なんだあれ!」
皆に注意を促す。一人が確認。「本当だ!なんだあれ!」
大きさは夜空ゆえはっきりとは分らないが、かなりの上空を飛んでいるにもかかわらず、妙に大きく見えるのである。形は羽を広げた鳥のようで横に長い。それが青白くも、また半透明にもボーっと光るのである。
物体はちょうど前泊の御嶽の上空で影に入ったかのように見えなくなった。
「U.F.Oだね」いっしょに見れた友人が言う。「え!宇宙人?」
「いや、未確認飛行物体だからUFO」
ふむふむ。しかし、僕はあれがなにかを知っている。あれは間違いなく精霊。きっと島の守り神。
祖納にはまるま盆山という前泊の浜の小島にちなんだ歌があり、踊り手は頭に白鷺の被り物を付け、手には羽を意味する掃除の叩きのような棒に白い布が付いたようなものを持ってパタパタ踊る。
これはその小島に多くのサギが夜戻って休むところから来ているのだが、もしかすれば、もっと世界が暗かった時代、祖納の人々は皆前泊の浜で夜酒を交わし、星空を見上げてあの精霊を見ていたかも知れない。
単なる想像でしかないが、あの大きく悠然とした精霊の姿は、この集落が今も昔も島を愛し、変わらぬ気持ちを持ち続けるからこそ現れたものではないかと思うのである。
と、因みに僕は西表に最初に来た年にキジムナーも見ている。勿論、赤い子供の姿ではなかったけれど・・・。

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2004年9月14日(火)
ミジュンを釣ったその後は・・・・

さて、今日も仕事はなく、(というかまたもや酷い雨です)僕は遅めの朝飯を済ましてすぐに港に行きました。雨は冷たく、また雨が降る時には同時に風も吹くので、西表とは言え体感の寒さは厳しいものです。
夏はなかなか帰ってきません。
しかし、今日もまた港には沢山の老人が釣竿を出していました。ただ昨日との違いはみんなが釣りをする桟橋の内側(ここが最も波の影響が少なく、ずっとミジュンが群れで溜まっている)に3隻の中型の船が泊まっていたことです。
このせいで釣竿を出せる範囲が昨日の半分です。しかし、釣れるという評判を聞きつけて人は増える一方。厄介です。
僕はなんとか釣竿を出せそうな隙間を見つけ、釣り始めました。
が、どうしたことか一向にかかりません。どうも昨日から使っている針がよくないようで、仕掛けがもつれたのを機に思い切って新しい仕掛けを使ってみたら、ずっと魚が食う割合が良くなりました。
魚がかかっては指で外して、などということを繰り返している内に針は傷んでしまうようです。こうなると、魚がググッと針に当るのを感じるのに全然食いついてくれないという状態になります。
さて、今日の僕のお隣りは、いつも軽のワンボックスに山盛りの釣り道具を載せて走っているオジサンでした。最初、桟橋に車を横向けに置き、後のドアを開けてこれを屋根代わりにしていましたが、中を覗けば、天井にはいくつものリールがぶら下がっています。
オジサンは大体潮のいい日は夜になると浦内川の橋の上から竿をいくつも置いて、大物を狙っています。けっこう有名な釣り好き、釣り名人です。また、どういうわけか、山で出会ったので、見れば、背中にはバッテリー。オジサンあんたはロボットか、と思えば、手にした網袋にはウジャウジャと大きなテナガエビ、ということもありました。
今日はこのオジサンに撒き餌が多い、だの仕掛けが悪いだの、色々指導を受けながら釣っておりました。そう、今日は自前の餌付きなのです。
逆に言えば、今日は沢山釣らなければ元がとれないわけです。
しかし、昨日のような入れ食いが少なく、なかなか魚が溜まっていきません。しかし、目の前には黒々と水の中で日の光を遮る大きな群れがいます。
誰かが言います。「面白いな、この魚は。もう三日も四日も散々釣られているのにちっとも減らん。」
別の誰かは「いいやあ、毎日毎日釣られて1/3になってるう。だから釣れんさあ!」
どっちが釣れていて、どっちが釣れていない人の会話かは一目瞭然ですね。
群れは時折、シージャー(ダツ)やガーラ(巨大アジ)の突撃を受けて激しく移動するものの、基本的にはちょうど竿の届かない目の前10メートルほどに留まっています。
あの群れが寄ってくれば・・・とはみんな思うのですが、そうなかなかうまくは行きません。しかし、オジサンはみんなが使うリールなしの竿ではなく、ちゃんとリールのついた竿で、遠くの群れを狙って、一投で必ず1〜2匹は釣っています。
誰かが、あまり沢山釣っているのをみて「500円分売らんか?」と聞きますが、「駄目。これは全部注文されている!」と答えています。さすがセミプロ。海人のいない領域でしっかり副業で稼いでいます。実はこれ、西表で大事なこと。
稼ぎの少ない僕らも、なにを副業にするか、考え中です。
さて、あまり釣った気もしないまま、夕方。餌が底を尽きかけたなあ、という時間帯になってようやくマサヨがやってきました。昨晩、二人で朝から行こうと言っていたのに、これです。
まあ、昨日僕が書いたのと同じ理由で彼女にしても一人の時間が欲しいのかも知れませんが。
さて、このマサヨ。釣りの経験はほとんどないのですが、ちょっと僕が横でサポートしてやるだけでけっこう見事に釣ります。
それこそ一投必釣。魚を外してやって、糸の沈んでいるところへ僕が撒餌をしてやる。彼女が釣り上げる。これが絶妙のコンビネーションです。
そうしてものの20分ぐらいで彼女は20匹ほどを釣り上げ、餌も尽きて彼女も満足。
二人で引き上げます。
このミジュン。少ない少ないと思っていましたが、なんのことはない。今日は昨日の2倍以上。けっこうな量のようです。
しかし、釣っただけでは魚は食えない。皆さんご存知ですね。
僕らは昨日と同じように、家の前の砂浜で魚の処理を始めました。昨日よりもコンビネーション良く、要領も良くなったようで、仕事がはかどります。
僕が鱗を落とす係。マサヨが頭を取って内臓を抜く係です。見る見る間に捌かれた魚が積み重なっていきます。
因みに魚を海で捌いてくるのは、わりとこちらの人の常識ですね。まず、台所が汚れない。内臓は海に流すので、他の魚やカニが処理をしてくれ、生ゴミに蝿がたからない。
たとえ、家の外に流しがある人でも(うちにもありますが)この時間は蚊の襲撃を受けないで済む分、海がいいのですね。
さて、そうやって魚をおろしていた時、砂浜の護岸の上を首からカメラを下げた女の子が歩いてきます。ああ、観光客だなあ・・なんて思ってあまり見ないでおきますと、「デトさん?・・・ツクモ?」と声をかけてきました。
ええっ?誰?と思って頭を上げます。分りません。誰だったか・・・。頭は彼女を思い出そうとフル回転。昔の彼女?違う。昔のお客さん?う〜ん。分らない。と悩んでいたら彼女の方から、教えてくれました。
2年前、まだ僕がスタッフをやっていた時代、鹿川でキャンプをやった修学旅行の当時高校生でした。
懐かしく思い出します。人懐っこい面白い子供たちの多い学校でした。最後の晩のパーティーでは男の子も女の子も号泣しまくりの感動的な別れ。
おおお、急激に思い出がよみがえります。
今は京都の大学生となってゼミの研修で西表に来ていたようです。しかも、僕に会えるかなと思って写真を持ってきていたというのだから、なお嬉しい。
いやあ、会えてよかったね。嬉しいよ、僕も。ミジュンここで捌いていてよかった。夜友達連れて遊びにおいで。そう言って別れました。
本当に偶然。今日のこの場でなければきっと会えなかったでしょう。こういう出会いに対してうちの奥さんは嬉しそうに対応してくれます。
「来たら、お酒のあて、どうしようか?」
などと嫌な顔一つせず、僕の友達を迎えてくれる。感謝です。
それにしても今日は魚が本当に多かったので、三枚に下ろして刺身にしても全然減らない。まあ、お酒のあては刺身と・・・
マサヨは「オイル焼きにしよう」と言いました。その分をよけてもまだ余る。結局残りの100匹ほどはオイルサーディンにして保存することになりました。
その美味いこと美味いこと!
結局、再会した彼女が来る前に刺身もオイル焼きも食べてしまい、申し訳ない!その後の再会の酒盛りのあては、レンジでチンしたピスタチオだったとさ。
おしまい。

2004年9月13日(月)
暴風の中のミジュン釣り

日記のスタイルを変更してみました。どうでしょう?
さて、今朝も起きるといい加減うんざりするような風と曇天でした。
まずは、顔を洗い、生ゴミを捨てる新しい穴を庭に掘ります。結構、生ゴミというのは出るもので、2ヶ月めにしてもう5つ目の穴です。
いかに広い庭でも穴の場所にそろそろ困りだしました。そこでしょうがなく、最初に使っていて今は早くも草が生えかけた穴を再利用に掘ってみることにしました。
毎日の雨で土は柔らかく、スコップは力を入れた分だけ難なく沈みます。以前の生ゴミは・・・・と言えば、それがほとんど見当たりません。ずいぶん小さくなってまた、茶色になったトウモロコシの芯がころっと出てきたぐらいです。
それ以上にそこから出てきた太いミミズの数。素晴らしい大地の力でゴミは分解されてしまったようです。この土は使える。
現在GoodOutDoorではツアーなどで使ういくつかの野菜を自給しようと、至るところに畑を作っているのですが、このゴミ分解土はきっと野菜たちにもいいでしょう。

さて、その後、僕はあまりにも体がなまったので、外に出ることにしました。とは言え、こんな天候です。なにをするかなあと悩んだ末、昨日、暴風の中を部落の老人たちが港でミジュン釣りをしていたのを思い出しました。
ミジュン、美味いよなあ。刺身・・・新鮮な刺身・・・うむ、久しぶりに釣りでもするかな、と思い定め、仕掛けを買いにスーパーに行きました。
ところが、スーパーにはろくな仕掛けが売っていない。おまけに餌も売っていないのです。俄かに沸き立つ部落のミジュン熱に品切れだというのです。困ったことですが、とりあえず、餌なしでも釣れるか、とさほど気にせず港に行きました。
因みに以前の日記でも書きましたが、ミジュンはイワシの仲間で、この時期、大群をなして港に入ってきます。仕掛けはサビキ(糸にピンク色の疑似餌がついた針がいくつもぶら下がっているもの)とオキアミのブロックを撒餌に釣ります。
だから、たとえ、撒餌のオキアミブロックが手に入らなくても、いっぱい撒餌をする人のそばで釣り人を垂れれば、便乗して釣ることができるんですね。

港には案の定、既に多くの老人がこの暴風雨の中で並んで糸を垂れていました。命を縮めないかと少し心配ではありますが、みな育ち方が違うのでしょう。元気さが桁外れです。逆に体の割りにあまり強くない僕は遠慮がちに一番端っこで竿を出します。と、いきなり釣れます。疑似餌のついた針を咥えたミジュンは小さな体をいっぱいに動かし、糸に抵抗をして暴れます。その振動が竿にはビクビク伝わってきました。
思いっきり、竿を引き上げれば、水中では黄色く光って見えた魚体が、今度は白く光って空中に舞いました。ところが、釣れたはずのミジュンはそのまま空中で針が外れ、水中へと消えていきました。見ていれば、こうしたことはベテランの老人でもけっこうあるようです。
ミジュン用の針には返しがついていない為です。簡単に外れなければいけないが為にこうなっているのですが、まあ一長一短ですね。

さて、少しは釣れるもののさほど良くもないので、場所を移動することにしました。なぜなら、僕の隣りで釣っているオジイはあまり撒餌してくれないのです。どちらかと言えば、さらにその隣りのオジイの撒餌を当てにしている雰囲気です。見れば、撒餌を入れたバケツはほとんど空です。
このオジイもスーパーで餌を買えず、家の冷凍庫に残っていた少量の餌で勝負しているのでしょう。二人目の便乗者では、やはりうまく行きません。僕は僕らのお家の管理を長いことしていた家主さんの親戚のレイコさんというオバアを見つけてそちらの隣りに移りました。
レイコさんは、僕らの家の庭に菜園を持っており、時々、水遣りのホースを借りに来る代わりにカボチャやら冬瓜やらを持ってきてくれるのです。明るく親切なオバアはうちの奥さん、マサヨとも仲良しです。3日前も暴風の中、ミジュンが釣れているから行こうと最初に声をかけてくれたのはマサヨにでした。
が、その時はせっかくの悪天候、仕事もないし、休まにゃあ。まして雨風に打たれて風邪でもひいたらデージという感じで行きませんでした。しかし、それも3日目になると、もうきつい。また餌なしでもあまり気にせずこうやって出てきたのは、オバアがいるから大丈夫だろうという気もありました。
さて、レイコさんですが、凄いことに竿は自分の畑から切り出した一本の竹です。これを上手に操っています。楽しくてしょうがないらしく、笑顔が隠せません。
「マサヨさんは?」と聞くので「釣れるようだったら電話すると言ってあるよ」と答えます。でも、本当はあまり呼ぶ気はありません。なんと言っても雨風はきつく体温を奪ううえ、彼女はカッパをもっていないのです・・・というのはまあ、建て前。3日も顔を突き合わせていれば、たとえ新婚家庭でも息が詰まります。
特にどちらかと言えば尻に敷かれている夫は自由な時間が欲しいものだということは想像できますでしょうか?
さて、レイコさんの隣りに来てからは随分、ミジュンが掛かるようになりました。
時には入れ食い状態で、2匹、3匹と同時に上がってきます。こういう時はとにかく一瞬が勝負ですね。ほんの数分で入れ食い状態の群れは離れていってしまいます。
なのに、焦るせいか、こういう時ほど、自分の糸の針同士を絡めてしまうという失敗をしてしまいます。慌てて直そうとしますが、うまくいかない。で、しょうがないので、半分絡まったままでもいいや、えい、と再び竿を投げ入れます。
ところが、そんな時はこんな不完全な怪しい仕掛けにでも魚はかかるのです。
こうした入れ食いが2度3度あったので、餌なし、他力本願の僕でも小さなクーラーボックスの底が見れないぐらいには魚が溜まりました。
レイコさんもそこそこ釣っています。が、凄いのはその隣りの夫婦できているオバア。レイコさんより年輩のオバアは、「レイコ!あんまり近づくな!糸が絡まる!」などと時々、隣りのレイコさんを威嚇しながら、しかしすごい勢いで釣り続けていました。
見れば、手元のバケツでは酸欠状態の魚が溢れ、椅子代わりにしている大きなクーラーボックスもミジュンでいっぱいなのです。
僕が「釣れないなあ・・・」とぼやいていますと、「餌無しで釣れるか!」とするどい突っ込みも入れてきます
いました。THEおばあ。発見です。ちょっと嬉しいですね。こういうオバアに出会えると。上原にいる大好きなオバアを思い出します。

さて、レイコさん。どういう訳か、小さなミジュン釣りに来てでっかい鯛を上げてしまいました。こういう嬉しい外道が釣れるのもいいですね。
他にもガチマヤー(コトヒキ)やボラが沢山釣られていました。しかし、別にこれらはミジュンを襲う訳ではないのでいいのですが、ガーラと呼ばれる巨大アジが水中にジェット機のようにその鱗光を時々走らせるのです。
これはフィッシュイーターでミジュンの群れに突進してきては群れを散り散りにしてしまうので厄介です。ミジュンを背がけにして、遠くにほうり込めば必ず釣れるな、誰かが言うのですが、誰もやりません。当然、ミジュン第一なのですね、みんな。
レイコさんが大きなタイに満足して早目に帰った後、(とは言え一昨日150匹、昨日50匹釣っているらしい)僕はTHEおばあの隣りへそっと移動しました。
と、おばあの霊力か、魚が今までになくかかります。おばあを褒めちぎりながら、また時には絡まった糸を解いてあげるというサービスを見せながら、他力本願、オバアにうまく便乗です。
その結果、なんと!4時間ほどで70匹ほどをあげることが出来ました。作戦大成功です。

ちょっと雨に頭を打たれすぎたのか、熱っぽいではありますが・・・、それでも竿を納める前にマサヨに電話をかけます。
「ああ、僕だけど、今日の晩のおかずになるぐらいはミジュン釣ったからね、待っててよ」
それを隣りで聞いていたTHEおばあと旦那のオジイが二人揃ってこっちを振り返り、にこっと微笑みました。
「上等さあ」

その後、魚を持って帰った僕は家の前の浜に出て、二人で、魚をおろし、また突然きつくなった雨に二人家までダッシュで逃げ帰り、午後7時、ミジュンの刺身、テンプラ、ナーベラの味噌汁という暖かい妻の料理に舌鼓を打ったのであります。
勿論、最高の夕餉でございました。

明日はマサヨと二人で釣りに行く予定です。

2004年9月12日(日)
台風に耐える我が家

西表だけではないのでしょうが、今年は本当にいやになるぐらい台風が多いですね。
現在、こちらでは20号の影響でひどい風が吹き荒れています。
まず、この台風は日本列島方面には行かないようなのでそこはご安心を。
さて、西表の祖納地区に一軒家を構えるGoodOutDoorですが、お家は勿論、新築ではなく、古い借家であります。
家主さんは既に那覇に移ってしまった90を超えるおじいさん。彼の年齢とともに刻まれてきた時を感じる屋敷なのです。
有体に言えば、かなり老朽化の進んだおんぼろ家屋。借りる際、家内のマサヨと窓から外を覗き込んで、本当にここに住めるのかと充分に悩みました。
実は僕らは当初住吉地域の10畳ほどのプレハブを借りる予定でありました。プレハブ自体は小さいながらも、四方が占有地に囲まれ、カヤックの収納スペースやクルマの置き場所に困ることのない物件でした。
しかし、当初5月末の入居予定が、先に住んでおられる方の都合でなかなか空かず、6月半ばに。それでもまだまだで、いつ空くか分らないというような状況に変化してきました。
僕達は7月1日のOPENを目途に5月に島に渡ってきていたのですが、それでは困るわけです。
入居までの宿は祖納の素泊まり民宿「鳴海荘」を月極で借りていたのですが、そこのお家賃も馬鹿にならない。(最終的にはおばあの親切で格安でしたが、当初無論そんなこと知らなかったのです)
どうしようか、と途方に暮れていた、そんな時、することもなく暇だからと出かけた部落の草刈作業で、ある人にお家を紹介してもらえたのです。
僕らは上原でも青年会などに入っていた為、こうした部落作業への参加は、地域に住む人間として当然のことという意識があるのですが、祖納の人にしてみれば、ただ民宿に泊まっているだけの人間が、きついボランティア作業に率先して出てくるというのは異例のことだったのでしょう。
マサヨも僕も非常に歓迎してもらえました。そして、そこで出会った顔見知りの先輩に「住吉ではなく、祖納に住め」とお家を紹介してもらうこととなったのです。
祖納に住むなどということは全く頭の隅にもなかった二人です。しかし、西表オブ西表の祖納に住むチャンスはそうあるものではありません。
紹介されたお家を十分に検討し、そして家主さんに一度話してみて、とんとん拍子に話がまとまるようであったら、縁があるのだから、こちらに決めようということになりました。
そこで、那覇の家主さんに電話をかけたら、現在管理を任されている長男さんが石垣に出張で出ているというのです。那覇まで出なければいけないかな、と思っていたところですから、願ってもないチャンスです。
早速、僕は長男さんに連絡をとってもらい、石垣へと出かけることになりました。そこからはまさにとんとん拍子です。
後から話を聞けば、このお家を借りたいと狙っていた人が他にもいたようで、その人などはその長男さんが西表に来られる日を今や遅しと待っていたとか。
そう考えれば、まさに僕達には縁があったのでしょう。こうして祖納に一軒家を借りることとなったのです。
ただし、そこは先に何度も書いた通り、お化けの出そうな古いお屋敷です。前にここを飯場として住んでいた土建屋などは、「人の気配がする」などと君の悪いことを言ったようですが、さもありなんという感じです。
とにかく、このお家に溜まった陰な気をなくそうと、僕らは正式に借りることが決定した日から、お家の大修復にかかりました。
畳ごと落ちていた床やその下の垂木をきれいに取り払い、4畳半の二部屋は土間としました。ああ、言い忘れましたね。うちの家はもと民宿で6畳部屋が2つに4畳半の部屋が4つ。8畳キッチンという広さなのです。
だから、2部屋をなくしたところで困りません。しかし、驚いたのはシロアリによる食害です。実に直径25センチもある角材が指で持ち上げられるほどスカスカなのです。締め切って風を通すことがなかったせいでしょうか。被害は土間の部分よりも、なぜか一部コンクリで床を作ってあったところの方が酷いのです。シロアリはこの家を我が物顔に蹂躙していたのです。これでは台風の時など不安にもなります。
次にめくれてみすぼらしさをかもし出していた天井板も全て取り払います。取り払ってみますと、さすがに古いお屋敷。非常に立派な太い梁が姿を見せました。この梁まではシロアリもさすがに食い込んでいないようです。
ただし、天井板をはがす際、上から泥の塊のようなものが降り注ぎ難儀しました。どうもこれは元々の赤瓦を今のトタン屋根に変えた際に出た接着用の漆喰などがそのまま、天井板の上に乗っかっていたようです。
二人、シュノーケル用のゴーグルで目と鼻を覆い、口にはタオルをして作業しました。
その後、かって自らお家を建てたというマサヨの両親の強力なサポートでさらにリフォームは進み、友人の石原さんの手伝いで異次元空間のように歪んでいた廊下も直りました。
もはや、このお家には陰の気配はありません。部屋を仕切っていた建具を全て取り払ったことで部屋は四方から光が射し込み、風の抜けるお家となりました。
知り合いの神司(チカ)のおばあにパイパイ(拝んで)してもらったところ、花米で占えば、吉兆が出ました。
このお家はようやくにして、我が家となり、お家も僕らを住人として認めてくれたのです。

しかし、ようやく立ち直りを見せるこのお家を揺るがすような台風が今年はいくつもやって来ました。
その度に僕達は暴風対策に追われ、夜の風の唸りに怯え、また心配してきました。
しかし、それでもこの我が家は強烈な暴風雨に耐えて僕らを守り、翌朝には何事もなかったかのように雨で顔を洗った清々しい姿で建っているのです。
ビバ!我が家!

ところで、この暴風の中、祖納漁港では4,5人の年寄りがミジュン釣りなどをしております。
非常に楽しそうでした。

2004年9月11日(土)
西表島 GoodOutDoorな日々 復活!
みなさん、こんばんわ。
デトです。
ようやくにして、この日記を復活させることができました。
以前からHPの掲示板でご存知の方もあったかとは思いますが、昨年一年間、僕は今年の準備の為に内地で生活しておりました。
その間、西表の情報を耳にする度に心が焦りましたが、しかしそれでも充実した日々であったと思っています。
そして、あちらで思い残したことはもはやなく、全てのことにケリをつけて、今年5月に帰島することがかないました。
それも今回は一人ではありません。
今年3月、長い遠距離恋愛の末にようやく結ばれることの出来た伴侶を伴っての帰島です。
自分で言うのもはぼったいですが、幸せモノであるとは自覚しております。

また、同時に今年7月夢であったシーカヤック&トレッキングツアー「GoodOutDoor」をOPEN。
お客様の状況はまだまだですが、それでも二人、自分たちが楽しい嬉しいと信じる精一杯のおもてなしを心掛けて頑張っております。
どうぞこの日記ともどもGoodOutDoorもよろしくお願いします。

ああ、そうそう。僕達は縁あって、西表島の主村「祖納」(そない)に一軒家を構えることが出来ました。
これまでいた上原も僕にとっては素晴らしき土地でありましたが、祖納はなんといっても、住所が「字西表」となる場所。
まさに西表オブ西表です。
素晴らしき体験を既にいくつもさせていただいている次第ですが、済んだことはおいておきましても、またこれからも色々な体験が待ち受けているに違いないのです。
是非、この日記での二人にご注目くださいませ。

では!