エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2015年2月
2月1日 【正しい者と悪者の道A】 詩篇1:2-3
 「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
 その人は、何をしても栄える。」
 「おしえ(ヘブル語トーラー:方向付け、教訓、基準、指示)」は、神の御旨の啓示としての神の言葉、聖書全体である。「喜びとし(愛し)」は、意志としの意味であり、宗教や信仰と同義である。主の律法に意志があることを表す。「口ずさむ(思い巡らす、御言葉を深く思う)」は、黙想する、瞑想しながら軽く声に出すの意味であり、原意の語源は、獅子のほえることや鳩のうめきである。積極的に神に向かう姿勢、日々の決定のための導きが与えられること、神の具体的な教えに信頼し従うこと、思いから結果が生じることを表す。
 「水路(川、流れ)」は、人工的な灌漑用の溝である。「植わった」は、移植されたの意味である。「水路のそばに植わった木」は、根を深く張っている。「その葉は枯れない」は、日照りの深刻な被害から自由であることを表す。
 神との交わりの中にある者は、「何をしても栄える(することはすべてうまくいく、繁栄をもたらす)。」神の祝福が実現する。全てが神の手入れを受けているからである。善人は断固として罪に背を向け、神の喜ぶことをしようと心と思いを定める。「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。」エレミヤ17:7
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2月8日 【正しい者と悪者の道B】 詩篇1:4-6
 悪者(神を信じない者たち、神に逆らう者)は、正しい者とは全く違う。「まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。」「もみがら」は、穀物の中の価値ある実を取るために、取り除かなければならない外側の殻であり、方向もなく漂う信仰のない人生の象徴である。地に落ちる穀粒は、神に用いられる信仰深い人生の象徴である。「もみがら」は、生命の源によって養われておらず、外見は種のように見えても、生命がない。根なしで重みがなく、意味のない人生を送る、むなしく軽い人たちを表す。

 「それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。」悪者はしっかり張った根がないため、暗黒と滅亡が臨む日には、立っていることさえできない。神の裁きに耐え得ない価値のない者、無益なものの究極を意味する。「さばき」は、歴史的な神の摂理と、終末の審判の両方を表す。「正しい者」は、真っ直ぐであるの意味であり、神との関係における状態を表す。「つどい(会衆)」は、契約を中核とした律法の民である。悪者は神に従う人の集いに堪えず、信仰者の中にいることができない。礼拝者は神の御前で悔い改め、罪の赦しを確信し、賛美と感謝をもって、主との交わりを深めていくのであるから、神を否定し、高ぶる者には耐えられない。

 「まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」「知っておられる」は、心に留める、自分のものとする、一つになる、人格的交わり、愛し守られる、気を配る、神が主権をもって恵みの中に選ぶの意味である。「滅びうせる」は、破滅と追放である。全ての人は、このどちらかの道を選び、歩んでいる。第3の道はなく、2つの道は永遠に分かれている。「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」ガラテヤ6:8
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2月15日 【キリストの世界的支配@】 詩篇2:1-3
 詩篇2篇には、反逆する世界と主権者なる神が記されている。王なるメシアの世界的支配が記されているメシア詩篇、王の詩篇である。使徒の働き4章では、ダビデ作とされている。

 1節から3節には、反乱を企てる諸国民が記されている。国々(一般的に異邦人、諸国の民)は騒ぎ立ち、神に逆らう国民はむなしくつぶやく。神に敵対する指導者たち(王たち、治める者たち)は立ち構え、相ともに集まり、主と主に油をそそがれた者(キリスト)とに逆らう。そして、「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう(さあ、われわれは自由になり、神などいらないのだ)」とうそぶく。「主に油をそそがれた者」とは、神に仕えるために特別に選ばれ、神に権威を与えられた者(王、祭司、預言者)であり、地上における神の主権を代表する。「かせ」と「綱」は、服従と忠誠を表す。

 しかし、私たちは創造主である神に真心をこめて仕えることによって、自由への確かな一つの道を見出すことができるのである。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイ11:29-30 「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」ローマ6:20-22
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2月22日 【キリストの世界的支配A】 詩篇2:4-8
 「天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。」全世界の王(王の王)であり、統治者であられる神は、あきれて、笑い出してしまわれる。神の嘲笑を描く詩的表現である。神は人間の小さな誇りを笑われる。本当に笑われる対象は、傲慢自体である。地の王たちは、神の手の中にあり、神によって裁かれる。「しかし、わたしは、わたしの王(わたしが選んだ王)を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」神が立てられた王は、神の代理人、地上の代行者、神に忠実な指導者である。

 神の定め(勅令)が語られた。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ(あなたに王としての冠を授ける)。」この聖句は、使徒13:33でキリストの復活と結びつけられている。「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずり(嗣業、相続、分け前)として与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」王の務めは、常に天の王の御旨を求めることにある。約束の地が与えられることを求めるのである。それは、大宣教命令の成就を求めることである。「 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」使徒1:8
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