エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2015年1月
1月4日 【人口調査と主の祭壇@】 Uサムエル記24:1-10
 再び主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、サタンはダビデにイスラエルの兵士の人口を数えさせた。神の許容的な意志の中にあるサタンの働きであった。主はイスラエルの罪を罰するために、ダビデを道具として用いられた。ダビデだけではなく、イスラエルに対する罪の裁きでもあり、主から離れたことに対する懲らしめであった。

 人口調査そのものには罪はないが、兵力を誇ろうとした動機が神の御心に反するものだった。ダビデの罪は、軍備、権力、国防力の規模において栄光を得ようと、人口調査をした傲慢と野望であった。傲慢はイスラエルの罪でもあった。この行為によって、数にかかわらず、自分たちを守ってくださる神ご自身の御力と祝福よりも、自らの軍隊の規模に信頼を置いたのである。高慢、うぬぼれ、虚栄心の罪である。私たちも金、所有物、国力に自らの信頼を置く時、同じような罪を犯す。「王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。」詩篇13:16-17 

 ヨアブは実際の人口が何人であとうと、必要な数の兵士を神が備えると王に諭し、健全な道理を説き、いさめた。そして、このようなことを望むのは罪であると、熱心に警告した。しかし王は、ヨアブと将校たちを説き伏せたので、彼らは仕方なく王の前から去り、徴兵制度上の人口調査に出かけた。

 彼らはイスラエル全土を行き巡り、9か月と20日の後(未完の期間)、エルサレムに帰って来た。剣を使う兵士が数えられ、イスラエルには80万、ユダには50万であった。ダビデは兵士を数えて後、良心のとがめを感じて悔い改め、神に罪を告白した。ダビデは大きな罪を犯したが、人生を神にささげ、生涯にわたって神に忠実であり続けた。
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1月11日 【人口調査と主の祭壇A】 Uサムエル記24:11-25
 ダビデが徴兵制度上の人口調査をした罪を悔い改めて、朝起きると、主の言葉が先見者である預言者ガドにあった。その内容は、イスラエルへの裁きを3つの中から選べというものであった。ダビデは主のあわれみ深さに信頼し、主の手に陥り、国に3日間の疫病があることを選んだ。すると主は、その朝から定められた時まで、イスラエルに疫病を下されたので、ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち7万人が死んだ。御使いがエルサレムに手を伸べて、これを滅ぼそうとした時、主は災いを下すことを思い直された。主なる神の深いあわれみに基づく。主の使いは、エブス人(エルサレムの先住民、異邦人)アラウナの打ち場のかたわらにいた。

  ダビデは民を打っている御使いを見た時、主に言った。「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れ(イスラエルの民)がいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手(災い)を、私と私の一家に下してください。」ダビデは民の羊飼いとして、民の苦しみを見るに忍びなかった。ダビデの家系から、羊のためにいのちを捨てる良い牧者、大牧者なるイエス・キリストが来られた。

  その日、ガドがダビデの所に来て、「エブス人アラウナの打ち場に上って行って、主のために祭壇を築きなさい」と言った。エブス人アラウナの打ち場は、御使いが裁きの手を引いた場所である。将来、神殿建築用地となる地がダビデに示された。そこでダビデは、ガドが告げた主の言葉のとおりに上って行った。そして、アラウナに代金を払って、主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主がこの国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。そこは、アブラハムがイサクをささげようとした場所であり、その場所にソロモンは神殿を建てた。更に、世の罪を取り除く神の小羊も、その地で人々の全き贖いの代価となられた。真の悔い改めによって、十字架に戻り、主の恵みの必要性をよく覚えよう。
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1月18日 【主をほめたたえよ】 詩篇150:1-6
 詩篇(ヘブル語テヒリーム:テヒラーの複数形、賛美の書、賛美歌集の意)は、聖書の中で最も長い書である。

 表題によれば、73篇がダビデの作、 アサフ(ダビデの聖歌隊の指導者)は12篇、コラの子たち(神殿で奉仕する音楽家の一族)は11篇、ソロモンは2篇、モーセは1篇である。

 詩篇中のセラは間奏、あるいは、休止符。また、ミクタムは贖罪の詩、または黄金の詩という意味だと言われる。

 年代は、古いものはモーセ時代(BC1440年頃)、新しいものはバビロン捕囚以降(BC587‐520年頃)、約1000年間をかけて執筆された。

 5巻にまとめられており、モーセ5書に倣って編集されたのであろう。第1巻:1-41篇、第2巻:42-72篇、第3巻:73-89篇、第4巻:90-106篇、第5巻:107-150篇

 神を礼拝するために使用する目的で集められており、内容は、神への賛美の歌、祈り、嘆きの歌、悔い改め、信仰告白、証し、知恵、預言、王の詩、歴史の表現としての詩などである。

 新約聖書では、旧約聖書が1200回以上直接引用され、詩篇からは104回直接引用されている。間接引用も合わせると、詩篇から400回以上なされている。

 中心聖句:「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」詩篇150:6

 詩篇1篇は、詩篇全体の序、導入、要約、結論的賛美、永遠を決定する知恵の詩篇である。人生の2つの道(従順による神の道と反逆と破壊の道、神の啓示としての律法に従う正しい者の祝福とそれを問題にしなし悪い者の末路)が書かれてある。
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1月25日 【正しい者と悪者の道@】 詩篇1:1
 「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」

 詩篇1:1-3には、正しい者の道が記されている。「幸いなことよ(なんて幸せなんだろう!)」(複数形)は、種々の祝福であり、神の教えに従うことで、絶えず祝福されている状態を指す。動的、人格的、行為的であり、繁栄と霊的祝福の両方を含む幸福を表す。神の国の律法の目的は、人を幸いにすることである。本当の幸福は、神を喜ばせることにある。「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」Vヨハネ1:2

 「悪者」は、義の反対語であり、自己中心に生きる者の性格としての不安を表す。不敬虔で、意図的に神の命令に背く者である。「はかりごと」は、思いである。「歩」むは、そのような見方、生き方から、それらが実践されていく過程である。悪に加担しない者は幸いである。

 「罪人」は、的外れという意味であり、目的をもって悪を行なう者、習慣的に悪を行なう者である。「道」は行動を意味する。「立」つは、習慣的にその道にある者である。

 「あざける者」は、宗教的責任感へのあざけりであり、行為的にも最悪の罪人、悔い改めからは最も遠い存在である。「座」は帰属、集い、住まいを意味する。「座に着」くは、その中にはまり込んでしまう、不信心の権威者、指導者、宣伝者という地位を描く。

 真の友は、あなたがもっと近く神に引き寄せられるのを助ける。神の祝福を望むのであれば、神と神の言葉を愛する人たちを友としよう。  
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