エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2013年7月
7月7日 【聖絶に対する不従順@】 Tサムエル記15:1-9
 サムエルはサウルに、万軍の主は、イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する、今、行って、アマレクを打ち、アマレクの全てのものを聖絶せよ、容赦してはならないと言った。アマレクはエサウの孫アマレクのすえの遊牧民族で、イスラエルが出エジプトをして荒野を通過する時、その道をさえぎり敵意を示した。その事件から、200年程経過していた。聖絶とは、神の独占物とすることであり、神が聖絶と定められたものは全て、完全に滅ぼし尽くすことによって、神にささげなければならなかった。神はアマレク人が存在する限り、イスラエル人は約束の地で平和に暮らすことができないと知っておられた。アマレクは肉の型である。サウルはサムエルを通して主からのメッセージを聞いた。

 サウルはイスラエルがエジプトから上って来る時、親切にしてくれたケニ人たちに、アマレク人の中から離れるように言った。ケニ人は、遊牧のミデヤン人の部族であり、モーセの義理の父レウエルの子孫である。彼らはアマレク人の中に住んでいた。後にユダ族の一員となる。自分たちの行ないが、自分たちの子孫に影響を与えることを教訓として学ぶ。

 サウルと彼の民は、アマレク人を打ち、アマレク人の王アガクを生けどりにし、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただつまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。サウルの心は神にではなく、自分の利害に向かっていた。サウルは主に従うことについて、いい加減な考え方をしていた。部分的な従順は不従順に等しい。
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7月14日 【聖絶に対する不従順A】 Tサムエル記15:10-22
 主は、主の言葉を守らなかったサウルを王に任じたことに心を痛められた。それでサムエルは深く嘆き、夜通し主に祈り続けた。

 サウルはカルメルに自分のために記念碑を立てて、自分自身をたたえた。それから、ギルガルに下った。サムエルがサウルの所に行くと、サウルは主の言葉を守ったと言った。サムエルはでは耳に入る羊と牛の声はいったい何かと問い、サウルは責任転嫁と口実を語ったが、サムエルは弁解をやめるように命じ、イスラエルの王は、自分の義務を果たすべきではなかったかと言った。主はサウルに使命を授けて、罪人アマレク人を聖絶し、絶滅させるまで戦うように言われた。聖絶には宗教的道徳的根拠が十分あった。しかし、サウルは主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと分捕り物に飛びかかった。サウルは聖絶すべき物の最上の物(初穂)を主にささげるためだと言ったが、それは矛盾であった。神が独占される聖絶のものは、人がささげるささげものにはならない。聖絶には、初穂もいけにえもあり得ない。

 サムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」その他のいけにえは必ず一部を奉献した後、自分の分として下げられる。信仰と従順、愛と献身が伴わないいけにえや礼拝行為は、主に喜ばれない。従順はいけにえにまさる。
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7月21日 【聖絶に対する不従順B】 Tサムエル記15:23-35
 サムエルは言った。「まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」占いは、表された御心である主の御言葉に従う信仰の生き方とは異なる原理である。偶像崇拝は、真の神にのみささげるべき礼拝と献身とを、神ではないものにささげることである。サウル王の決定的遺棄は、聖絶という神への全面的奉献をめぐって起こった。サウルは民の声に耳を傾けるため、主に背を向けた。神より自分の思いを優先させるうぬぼれである。王は神の命令に従わなければならなかったが、サウルはもはや王の資格を満たしてはいなかった。

 サムエルが引き返して行こうとした時、サウルはサムエルの上着の裾をつかんだので、それが裂けた。サムエルはサウルに言った。「主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。」あたなよりすぐれたあなたの友とは、ダビデのことである。サウルの関心事は面目であり、サウルの悔いが真実でないことを示していた。

 その後、サムエルはサウルが生けどりにしたアマレク人の王アガグを、ギルガルの主の前でずたずたに切った。アガグは自分の蒔いた種を刈り取らされた。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」黙示録22:18-19 聖書の御言葉を文字通りに信じて行なうことが肝要である。
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7月28日 【油注がれたダビデ@】 Tサムエル記16:1-13
 主はサムエルに、角に油を満たして、ベツレヘム人エッサイの所へ行き、エッサイの息子たちの中に主が見つけられた、主のための王に油を注ぐように命じられた。

 サムエルは主が告げられたとおりに、いけにえを携えてベツレヘムへ行き、エッサイとその子たちを聖別し、いえにえの会食に招いた。いけにえをささげた後、その一部を聖なる食事として食べるが、それにふさわしく清くされた人だけが、その食事に与れた。

 サムエルはエッサイの長男エリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」神は外見ではなく、信仰と性格によって判断される。

 エッサイの7人の息子が、サムエルの前に進ませられたが、主が選ばれた者はいなかった。サムエルはエッサイに、子供たちはこれで全部か尋ねた。エッサイはまだ末の子が残っており、羊の番をしていると言った。ダビデはエッサイに重んじられていなかったようである。羊の番は、神が選んだイスラエルの民を守り導く王や指導者の務めを表す言葉である。主はしばしば、この世の職業を霊的な働きのための訓練として用いられる。サムエルはエッサイに、その子を連れて来るまで、食卓には着かないと言った。

 エッサイが人をやって、ダビデ(愛すべき者の意)を連れて来ると、主は仰せられた。「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中でダビデに油を注いだ。油注ぎの真意は、誰にも告知されなかった。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。
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