エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2012年8月
8月5日 【私と私の家とは、主に仕えるA】 ヨシュア記24:16-24
 主を選んで、主に仕えるという民の答えが本心からのもでないことを見抜いたヨシュアは、違った面から神の本性を明らかにし、真の神に従う能力の欠如を民に指摘した。主は聖なる神であり、ねたむ(熱情の)神である(主は聖いお方であり、主以外の者を神とすることを許さない絶対者である)。聖の本質は分離である。神は契約のパートナーに対するひたむきさをもっておられる。民のそむき(人格的な破れ、背信、忘恩)も、罪(的外れ、考え、行動、言葉に一貫性が欠けていること)も赦されない。

 民は3度も主に仕えると言ったが、神に従うと言うだけでなく、言ったとおりに生きることが重要である。信仰が実証されるためには、言葉に加えて、事実が不可欠である。民は何もしなかった。キリスト者にとっても、仕えることが信仰の表明に伴うべきである。

 ヨシュアは民に言った。「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」信仰は口先だけの誓いでなく、心の問題である。

 ヨシュアとその同世代の者が死んだあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らない他の世代が起こった。彼らは主を捨てて、他の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。
メッセージのトップへ戻る
8月12日 【私と私の家とは、主に仕えるB】 ヨシュア記24:25-33
 その日、ヨシュアはシェケムで民と契約を結び、おきてと定めを定めた。その目的は、イスラエルが聖なる国となり、神のために世界の国々に影響を与えることだった。ヨシュアは大きな石を取って、主の聖所にある樫の木の下に立てた。それは、歴史的に大事なことを記念するために立てる、あかしの石であった。

 こうしてヨシュアは、民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。

 これらのことの後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは110才で死んだ。「主のしもべ」というのは、栄誉ある称号である。人々はヨシュアを、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・セラフに葬った。

 イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に葬った。その時、そこはヨセフ族の相続地となっていた。ヨセフは死のうとしていた時、イスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、その時、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください」と言っていたのである。

 アロンの子エルアザル(神は助けなりの意)は死んだ。人々は彼を、彼の子ピネハスに与えられていたエフライムの山地にあるギブアに葬った。エルアザルはヨシュアとともに、カナンの地の占領とその割り当てに尽くした同労者である。彼はヨシュアを忠実に助けてきた。

 彼らの証しは、神の言葉として永遠に生きる。イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアの後まで生き残って、主がイスラエルに行われた全てのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。こうして、神に従順な世代は終わりを告げた。
メッセージのトップへ戻る
8月19日 【あなたの神は私の神】 ルツ記
 ルツ記の出来事は、ダビデがイスラエルの王となる以前の200年間の士師時代の初期のこととされる。さばきつかさの時代、すなわち不従順と偶像崇拝と暴力の時代に生まれた。最後に系図がダビデで終わっていることは、少なくともダビデの時代以後に書き上げられたことを書物自体が示している。「さばきつかさが治めていたころ」という表現も、編纂された時が王制時代であったことを示唆する。

 ルツ記は、友情と神について書かれた書である。一人の異邦の女性の献身の生涯が書かれている。

 異邦の女ルツは、最初の夫やナオミを通して、真の神を知った。ルツは誠実の限りを尽くして姑に仕え、神と人に徹底的に従った。ナオミに対して忠実であること、以前の土地や慣習をきっぱり捨てること、畑で懸命に働くことによって、ルツは高い道徳的な性質を示した。

 ボアズもまた、誠実な信仰の人であり、常に神と人との前に公明正大であろうとした。ボアズがルツを買い戻すのは、キリストが私たちを贖うことの表れである。ルツは彼女の安全と幸福のために、進んで代価を払おうとする一人の人に引き取られた。近い親戚であったボアズは、結婚の権利のために進んで代価を支払い、ルツの安全を守った。イエスはボアズのように、私たちに永遠のいのちを買い取るために、惜しみなくご自分のいのちという代価を払ってくださった。

 神がナオミを慰め、ルツを祝福し、ボアズを大きく用いられた。ルツとナオミとボアズの神と親族に対する愛と忠誠、神のご自分の民に対する忠実を見る。神はご自分の民を見守り、良いものを与えてくださる。神は全てを支配しておられ、神を信頼する者を祝福してくださる。最も優れた祝福は、金銭でも結婚でもなく、ルツとボアズとナオミとの間に生まれた素晴らしい愛と尊敬であった。愛は最も優れた祝福である。最も強い絆は、神に対する信仰にある人間関係である。
メッセージのトップへ戻る
8月26日 【モアブの女ルツ】 ルツ記1:1-5
 さばきつかさ(士師、国家が危機に瀕した時の解放者)が治めていた頃(BC1150年頃)、イスラエルの地にききんがあった。士師の時代は、人々が自分の目に正しいと映ることを何でも行なっていた霊的暗黒の時代であった。そのような時代に、神に従うルツは、神と人に対する忠誠心、友情、献身、真に霊的な人格の美しい模範であった。

 それで、ユダのベツレヘム(パンの家の意)のエリメレク(神は王の意)は、妻のナオミ(快い、喜び、楽しみの意)と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。彼らはエフラテ(穀物の地の意、ベツレヘムの古代の呼び名)人であった。モアブはロトとその娘との間の息子であり、モアブ人はロトの子孫とされる。モアブはイスラエルを圧迫していた国々の一つであり、偶像を礼拝し、イスラエルの敵であった。

 彼らがモアブの野に留まっている時、エリメレクは死に、ナオミと二人の息子が後に残された(生き残った)。二人の息子はモアブの女を妻に迎えた(神の律法に背く行為であった)。一人の名はオルパ(首の後ろ、背を向けるの意)で、もう一人の名はルツ(友情、友人、ともに歩む、同伴者、仲間)であった。こうして、彼らは約10年の間、そこに住んでいた。

 しかし、マフロン(病める者の意)とキルヨン(消え失せる者の意)の二人の息子もまた死んだ。こうしてナオミは二人の子供と夫から取り残された。彼らがユダを去ったことに対する罰であった。旧約時代のイスラエルの女性にとって、子もなく、孫もないことは、社会的な死を意味した。

 このような情況の中で、神を愛する人々に、神の栄光が現されたのである。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」ローマ8:28-29 「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」Tコリント13:13
メッセージのトップへ戻る