エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2011年12月
12月4日 【災をもたらす不信の罪C】 ヨシュア記7:19-26
  ヨシュアはアカンに、「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい」と言った。告白:ヘブル語トーダーには、感謝、賛美、投げ出す、表すという意味がある。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」Tヨハネ1:9 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」黙示録3:19

 アカンが隠し持っていたのは、シヌアル(バビロンの古い名称)の美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、五十シェケルの金の延べ棒一本であった。彼はそれらを見て、欲しくなり、取った。それは、所有する権利のない物への願望であり、貪りであった。

 罪の処理は敏速に行われた。聖絶のものは主の前に置かれ、ヨシュアは全イスラエルとともに、アカンと聖絶のもの、及び彼の息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、所有物全部を取って、アコルの谷へ連れて行った。そこでヨシュアはアカン(災をもたらすの意)に、「なぜあなたは私たちに災をもたらしたのか。主は、今日、あなたに災をもたらされる(アカル)」と言った。アカル(ヘブル語)は、災をもたらす、悩ます、惨事、不幸という意味である。アコルはその派生語である。

 全イスラエルはアカンと家族を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけ、アカンの上に、大きな、石くれの山を積み上げた。そこで、主は燃える怒りをやめられた。罪の責任が、家族や家畜、財産にも及んだ。裁きが家族に及ぶのは、罪の連帯性が意識されているからである。アコル(悩み)の谷は、罪の恐ろしさと徹底的な聖さの保持を教えた。石くれの山は、罪とそのきよめのしるしである。

 異邦の女ラハブの信仰によって、一家が救われ、その名が保護されたことと、れっきとしたユダヤ人正統のアカンの不従順によって、一家が滅ぼされたことは、対照的である。対照的なのは、神の恵みの豊かさと、裁きの厳しさである。

 「わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう。」ホセア2:15 罪を悔い改めて、キリストの血による新しい契約のうちに歩もう。
メッセージのトップへ戻る
12月11日 【アイの征服@】 ヨシュア記8:1-8
 主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手(支配力、指導性)に与えた。あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。」

 アカンの裁きが済んで、民がきよめられて後、神は再びヨシュアにアイを攻め上れと命じられた。アカンの罪と聖別のものの罪責は取り除かれた。これでイスラエルはもう一度、その地の占領へと進むことができる。アカンの問題が完全に処理されて、神の御手が再び働かれる。罪が赦され、神がともにおられても、信仰に伴う行動がなければ、無益である。

 勝利に至る新たな計画の指示が、前回の失敗が生かされる形でなされた。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28 今回は全軍はをもって当る。全ての神の民が、神の戦いに参加するのである。戦略と戦利品は、神の御言葉によって判断される。戦いの指示は、アイの民をおびき出すことであった。犠牲となるものが、滅びの位置に置かれる手段が述べられている。

 ヨシュアは戦う民に命じて言った。「あなたがたは伏している所から立ち上がり、町を占領しなければならない。あなたがたの神、主が、これらのことを全て成功させてくださる。町に侵入したならば、すぐに火を付けること。これらの手順を一つも間違えてはならない。」
メッセージのトップへ戻る
12月18日 【アイの征服A】 ヨシュア記8:9-29
  ヨシュアは全軍を率いて、民の先頭に立って戦った。アイの民は、ヨシュアの後を追って、おびき出された。イスラエルの後を追って出なかった者は、アイとベテルに一人もないまでになった。彼らは町を明け放しのまま捨てておいて、イスラエルの後を追った。

 その時、主の命令によって、ヨシュアは手に持っている投げ槍を、アイの方に差し伸ばした。投げ槍は、神の主権性を表す。ヨシュアは祈りの手を差し伸ばしたのである。

 伏兵は、ヨシュアの手が伸びるや否や、すぐにその場所から立ち上がり、走って町に入って攻め取り、急いで町に火をつけた。アイの人々が後ろを振り返った時、町の煙が天に立ち上っていた。全焼のいけにえのささげ物を思い起こさせる。

 ヨシュアと全イスラエルは、アイの軍を打ち破った。ヨシュアは、アイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。ことごとく聖絶する(滅ぼし尽くす)のは、聖戦の原理である。町とその中にある全てが神にささげられたことを示す。異文化からの決別を意味した。

 こうして、ヨシュアはアイ(廃墟の意)を焼き払い、とこしえの廃墟の丘として打ち捨てた。イスラエルの民は、カナンの異郷の影響を一切排除し、聖であることが求められた。アイはエリコと同じように、破壊によって罰せられた。アイはイスラエルの神を崇めることに失敗した。アイによるイスラエルの信仰の拒否ゆえである。

 ヨシュアはアイの王を、夕方まで木にかけてさらし、日の入るころ、命じて、その死体を木から降ろし、町の門の入口に投げ、その上に大きな、石くれの山を積み上げさせた。石くれの山は、主の勝利の記念であり、イスラエルが悔い改めて罪を除き、神に赦されて、神のあわれみと服従によって、徹底的に勝利を得たしるしであった。
メッセージのトップへ戻る
12月25日 【エバル山の一つの祭壇】 ヨシュア記8:30-35
 それからヨシュアは、エバル(はだかの意)山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築いた。エバル山は、呪いを宣告した呪いの山である。シェケムの北側の山(標高940m)で、シェケムの谷を隔ててゲリジム山と向かい合っている。破れた契約関係を保持するために、罪の贖いの儀式を行なう場所として、エバル山に祭壇が築かれたと考えることができる。

 祭壇は、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。鉄の道具を使って石を加工することは、人間の手の技によって、神聖な場所を汚すと考えられた。

 彼らはその上で、主に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた。全焼のいけにえは、人々の神に対する全き服従、献身を表す。和解のいけにえは、神との霊的交わり、友好関係を願い、感謝してささげる。奉献者は、焼いた一部をともに感謝して食べる。

 全イスラエルは、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。ゲリジム山は、祝福を宣告した祝福の山である。シェケムを隔てて、エバル山の南に対面する山(標高881m)である。

 ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。律法に従うことが、土地を得、そこに留まるための条件であった。内的な出来事は、外的な出来事に霊的な核を与える。この契約締結の儀式は、イスラエルと神との関係を再び確立している。イスラエルが約束の地に入った時に、契約の更新が行なわれた。この契約の更新は、定期的にともに集まり、神への献身と神の御旨への服従を更新する必要性を思い起こさせる。

 モーセの律法(申命記27:14〜28章を主体にしたものであったろう)が再確認され、全ての者の権利と責任が読み上げられた。民は皆、アーメンと応答し、御言葉への聴従に同意した。
メッセージのトップへ戻る