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| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
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| 2011年10月 |
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| 10月2日 |
【割礼と過越の祭り@】 ヨシュア記4:19-5:7 |
イスラエルの民は第一の月の十日に、ヨルダン川から上がって、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。第一の月の十日は、四十年前、イスラエルの民が出エジプトの際に、過越の羊を準備した日である。イスラエル人は神の民としての新しい生活と献身を始める備えにあった。
ギルガルに立てた十二の石は、全世界の人々が主の驚くべき力を知り、神の民がいつも主を恐れるためであった。神を恐れるとは、一心に神のみを礼拝し、忠実に従うことである。イエス・キリストを信じて、新しいいのちの完成へと導かれるためである。
カナン人たちは、主がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、心がしなえ、もはや勇気がなくなってしまった。
その時、主はヨシュアに、イスラエルの男子全員に、主の民であるしるしの割礼を施すように命じられた。ヨルダン川を渡って、カナンの地に入ったヨシュアがまずしたことは、割礼と過越のいけにえをささげることであった。具体的な戦闘準備を始める前に、霊的な準備が先行する。エリコ攻撃に先立ってなされたのは、割礼と過越という宗教的儀式であった。
荒野で生まれた民が、割礼を行なわなかった理由は、せっかく脱出して来た民が、「エジプトに帰ろう」と荒野で言い出して、アブラハム契約を無視したからである。四十年間、荒野を放浪したイスラエル人は、主の御声に聞き従わなかったため、約束の地に入ることができず、皆荒野で死んでしまった。不信仰のゆえに、出エジプトの世代に臨んだ神の裁きである。
主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、無割礼の彼らに割礼を施した。今や新しい世代が、ヨシュアに導かれて契約の実現の機会を得た。 |
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| 10月9日 |
【割礼と過越の祭りA】 ヨシュア記5:8-12 |
敵前で割礼の儀式を行なうことは、人間的に見れば、危険極まりないことであった。しかし、まず神との関係を正す(神の側に属する)ことが大切であった。
主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガル(転がすという動詞に由来する名詞)と呼ばれた。エジプトのそしり(エジプトでの恥辱)が、転げ落ちたのである。エジプトのそしりとは、荒野での放浪と死をもたらした、先(エジプト)の世代の不従順への神の裁きであり、また、異邦の民のあざけりである。
ギルガルでの割礼執行は、新たな契約関係の締結を意味し、荒野で生まれた民が、カナンの地で生活するに当たって、この地の住民の生き方をとらないという信仰的態度の表明であり、出エジプトの完了であった。主との契約への服従である。今日で言えば、洗礼を受けて、教会に参与することである。
イスラエル人がギルガルに宿営している時、第一の月の十四日の夕方、エリコの草原で、彼らは過越のいけにえをささげた。割礼と同様、エジプトを去って以来、四十年ぶりの祭りであった。割礼は、過越の祝いへの必要な準備儀式となっている。過越の祭りは、主から乳と蜜の流れる地で守るように命じられた儀式である。
過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物を食べた。彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることは止んだ。それ以来、彼らはカナンの地の産物を食べた。初心の信仰者にはマナが必要であるが、円熟したキリスト者は自分で日々の糧を得なければならない。肉に属する人、キリストにある幼子の食物は乳であるが、御霊に属する人、大人の食物は堅い食物、義の教えである。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」。イエスの食物は、イエスを遣わされた父の御心を行ない、その御業を成し遂げることであった。 |
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| 10月16日 |
【主の軍の将】 ヨシュア記5:12-15 |
イスラエルの民は、割礼を受け、過越の祭りを祝うことにより、四十年の試練の旅が終わり、再び神との契約が確立されたことを表明した。割礼と過越の祭りは、洗礼と聖餐に当たる儀式である。出エジプト後の放浪の旅という期間が、正式にこの時点で終わったことを意味する。荒野の旅やエジプトのそしりとの関係の、完全な終わりである。一つの時代が終わり、新しい時代が始まったことを示している。荒野は終わり、約束の地が訪れた。
四十年前、過越は出エジプトの記念として用いられたが、ここでは、約束の地への入植の記念としても用いられている。カナンの地に定着して、新しい展望を開く祝いであった。新しいいのちの祝いである。
ヨシュアがエリコの近くにいた時、一人の人が抜き身の剣を手に持って、前方に立っていた。抜き身の剣は、神の裁きの脅威を示す。抜き身の剣を持つ人は、主の軍の将(将軍、主の軍勢の最高司令官)として来たと言った。御使いの軍勢の指揮官である。
ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか」と言った。旧約聖書においては、御使いと主なる神とは、明確に区別されないことが多い。ヨシュアは神の啓示を聞こうとする姿勢をとってひれ伏した。これからの戦いは、主の戦いであり、ヨシュア自身がまず身を屈して従うべき総大将は、この主の軍の将なのである。
主の軍の将はヨシュアに、「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」と言った。そこで、ヨシュアはそのようにした。足のはきものは、地上の全ての汚れと罪の象徴である。また靴は、力と尊厳と所有権を象徴する。聖なる所に立っている者とは、神の領域に属する者、すなわち神の命じられる全てのことをそのまま聞き、受け入れ、実行するのみの者のことである。 |
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| 10月23日 |
【エリコの征服@】 ヨシュア記6:1-14 |
イスラエルのエリコ征服を前に、城門を堅く閉ざしたエリコの城壁という障害が立ちはだかっていた。
その時、エリコの防備を打ち砕くための神の指示があった。主はエリコの町をヨシュアの手に渡したと、完了形で仰せられた。神の側では、すでにエリコをヨシュアの手に渡してしまっている。勝利はすでに勝ち取られた。目の前の城壁がどれ程難攻不落に見えても、御言葉に従って前進するのみである。
主はヨシュアに、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を吹き鳴らし、契約の箱の前を行き、エリコの町の周囲を六日間一度回り、七日目には七度町を回り、角笛を長く吹き鳴らすように、また、その角笛の音を聞いたなら、民は皆、大声でときの声をあげ、城壁が崩れ落ちたなら、まっすぐ上って行くように命じられた。
エリコ攻略は軍事的行為ではなく、宗教的行為であり、約束の地への聖なる行進であった。契約の箱(主なる神)が、エリコを包囲した。神が信仰による民を、ご自身に導かれる型を述べている。七(霊的、質的完全数、完成、完結、成就、終了、聖霊を表す)という聖数が繰り返されている。エリコ攻略の七日間には安息日が含まれ、安息日の人間の働きについて、重要な示唆を与えている。
主の御声にヨシュアが聞き従い、ヨシュアの声に民が従った。七日目にときの声をあげて叫ぶまで、民は口から言葉を出してはならなかった。武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従った。全ての行動は角笛の響きで始まり、また終わった。それは戦闘ラッパではなく、主の臨在を示し、主の解放を知らせるラッパであった。 |
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| 10月30日 |
【エリコの征服A】 ヨシュア記6:15-21 |
七日目の朝早く夜が明けかかる頃、イスラエルの民は七度町を回った。神の指示によって、祭司たちが角笛を吹き鳴らし、民が大声でときの声をあげた時に、エリコの城壁が一挙に崩壊した。礼拝儀式がエリコの城壁を崩した。ときの声は勝利の宣言である。戦争自体が礼拝行為になっている。
ヨシュアは民に、エリコの町と町の中の全てを、主のために聖絶する(滅ぼし尽くす、皆殺しにする)ように命じた。
ただし、遊女ラハブとその家にともにいる者たちは、全て生かしておかなければならなかった。ラハブがイスラエルの使者たちをかくまったからである。
聖絶することは、最初の占領地を初穂として、一切を主に帰することであった。また、エリコの住民が彼らの神々の礼拝とする関係する忌み嫌うことを、イスラエルに教えることがないようにするためであった。
聖絶のものに手を出してはならなかった。聖絶のものを取って、イスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないためである。聖絶のものに手を出すことは、その者がイスラエルに災いをもたらす者となって、聖絶の対象となる。聖絶の命令に背くなら、イスラエル自体が聖絶の運命を受けなければならない。
ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器は全て、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならなかった。
民は一人残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。彼らは町中の者たちも家畜も、全て剣の刃で聖絶し、エリコを完全に破壊した。
七倍歩き、その後の戦闘も含めると、大変な労働になる。神は時満ちて、勝利をお与えになる。 |
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