 |
| |
| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
| |
| 2011年5月 |
|
| 5月1日 |
【永遠の契約の安息日】 出エジプト記31:12-32:6 |
幕屋(聖所)の礼拝と安息日の厳守が語られている。幕屋と安息日は、密接な関係がある。安息(ヘブル語シャバット)は、休息する、仕事をやめるという意味である。イスラエルは、必ず主の安息日を守らなければならない。これは、主とイスラエルとが、いつまでも特別な関係をもっていることのしるしであって、主がイスラエルを聖別されることを証するためである。安息日は、割礼に加えた神の民イスラエルの特別なしるしである。神の民が最も厳かな安息日を守ることによって、主の臨在を確かなものとし続け、まことの神の知識を異郷の民に証することができる。主の特別な臨在が、イスラエルを特別な民とする。神の民には特別な立場と責任がある。安息日を汚す者は、必ず殺されなければならない。安息中に仕事をする者は、誰でも神の民から断ち切られる。安息日を守るかどうかということは、神の民が神に従順であるかどうかを見る決定的な試金石である。
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられた時、契約の中心である神の指で書かれたあかしの石の板二枚をモーセに授けられた。
イスラエルの民は、モーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て(四十日四十夜)、アロンのもとに集まり、耳にある金の耳輪を外し、子牛を造って神とした。アロンは主の命令なしに、民に主への祭りの偶像礼拝を布告した。民は全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民は座っては飲み食いし、立っては戯れ、みだらな乱痴気騒ぎとなった。この祭りは、全く異郷の宗教行事との混合である。民は十戒に反し、神のみを礼拝するという約束を破り、神を忘れ、神を棄てた。アロンは民の圧力に屈し、誘惑に負けてしまった。しかし、真の指導者はいつも正しいことのみを行なう。私たちの一番安全な場所は、神の御前だけである。しかし、もし私たちが神の御前から出て行くなら、どのように恐ろしい誤りや罪に誘い込まれるか予測できない。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」ヘブル11:24-27 |
| メッセージのトップへ戻る |
|
| 5月8日 |
【災いを思い直される主@】 出エジプト記32:7-29 |
主は堕落して偶像崇拝をしたイスラエルの民のことを「実にうなじのこわい民だ」と仰せられた。これは、御者が馬の手綱を右に左にとっても、馬が命令通りに動かないことになぞらいた表現であり、「かたくなな民」という意味である。この表現はこれ以来、神に逆らうイスラエルの民を表すのにしばしば用いられた。主は、主の怒りが燃え上って、イスラエルを絶ち滅ぼすが、モーセと彼とともに真実な者たちは、偉大な国民とすると仰せられた。
しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して、主が偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出された主の民への災いを思い直し、アブラハム契約の子孫と相続地を与える約束を履行してくださるように祈った。すると、主はその民に下すと仰せられた災いを思い直された。神が民を顧みられたのは、先祖であるアブラハム、イサク、イスラエルと神が結んだ契約の効力の永続性のためである。主はモーセの真心のこもったとりなしによって、イスラエルの民をあわれまれた。
モーセは両面から神が刻まれた神の作である十戒の二枚の石の板を手にして、山から降りた。宿営に近づいて、子牛とみだらな異教的な踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上り、十戒の板を投げ捨て、山の麓で砕いてしまった。このことは、契約が破られたことを示す。それから、彼らが造った子牛を火で焼き、粉々に砕き、水の上に撒き散らし、イスラエル人に飲ませた。このことによって、彼らが拝んでいたものが何の価値もないものであることを教え、彼らの罪とその結果の恐ろしさを身にしみて感じさせた。罪とは、神に背き、神の教えに従わないことである。アロンは責任を果たさず、民に勝手なふるまいをさせたので、イスラエルは敵対する者の嘲りの種(物笑い)となった。
そこでモーセは宿営の入口に立って、主に従う者を集うと、レビ族(モーセの属する部族)が皆集まった。そして彼らは、モーセの言葉通りに、民のうち三千人を殺した。聖絶と同じ行為である。そこで、モーセは主に従ったレビ族に、「各々その子、その兄弟に逆らっても、今日、主に身をささげよ。主が、今日、祝福をお与えになるために。」と言った。主への忠誠は、肉親との結びつきを越えたものである。主に従ったレビ族は、主の祭司職に任命され、祝福を受けた。 |
| メッセージのトップへ戻る |
|
| 5月15日 |
【災いを思い直される主A】 出エジプト記32:30-33:6 |
モーセは民が自分たちのために金の神を造った大きな罪の贖いのために、主のところに上って行った。民の罪は赦されるべきものではないが、モーセは自分の永遠のいのちを代償に、あえて罪の赦しを神の御前に願い出た。モーセの祈りはイスラエルの民に対する深い愛に基礎づけられた、愛の極みであった。主は、「わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく(罰する、顧みる、訪れる)」と仰せられた。モーセのいのちがけの真剣な祈りによって、民は徹底的な破滅からは救われた。しかし同時に、罪のさばきをも受けなければならないことを告げられた。たとい赦しがあっても、当然の報いは逃れられなことも明らかになった。
主はモーセにエジプトから導いて来た民を連れて、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると約束した地に行くように命じられた。それから、「わたしは一緒には行かない」と仰せられた。イスラエルの民がうなじのこわい(かたくなな)民であるから、主が途中で民を絶ち滅ぼすようなことがあるといけないからである。民は主の臨在の否定の悪い知らせを聞いて悲しみ痛み、だれ一人、その飾り物を身に着ける者はいなかった。飾り物は、神礼拝のための幕屋建造の際、その調度品作製のために、全てささげられるはずであった。実際、彼らは飾り物をもって大罪を犯した。悲しみの時に装飾品を身に着けないのは、悲嘆にくれていることを示す心の痛みの表われである。
主は、「飾り物を身から取り外して、謹慎していれば、わたしはそれ相応の処分を考えよう(わたしはあなたがたになすべき事を知るようになろう」と仰せられた。肉に着ける飾りを全て取り外した裸の罪人は覆われうる。私たちは、神に属するもので着せられる前に、自我に属するもの全てを取り外さなければならない。こうして、イスラエルの民は、ホレブの山以来、一切飾り物を身から取り外して、謹慎した。 |
| メッセージのトップへ戻る |
|
| 5月22日 |
【ともにおられる主】 出エジプト記33:7-23 |
モーセが宿営の外の会見の天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセは神と直接話をすることができた。
主はモーセを名前によって親しく知り、主のものと思っておられた。モーセは神の信任を受けた、神がその御心を行なうために召された者であった。主はモーセに、「わたしはあなたに好意を示す」と仰せられた。
モーセは、「どうか、あなたの道(ゆくべき道、神が選ばれた者に対する神の摂理と導き)を教えてください」と主に申し上げ、主との絶え間ない交わりが必要なことを、執拗なまでの情熱をもって主張した。
すると主は仰せられた。「わたし自身(わたしの顔、主の臨在そのもの)がいっしょに行って、あなたを休ませよう(安心しなさい)。」約束の地に入って与えられる最終の安息のことである。
それでモーセは、主の同行なしには行けないと申し上げ、主がともにいてくださることこそ、主の選民としての特色であり、主の臨在があるかないかにより、彼と主の民が、地上の全ての民と区別されると言った。
主は、モーセのこの願いをかなえると仰せられた。
すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光(見えない神の輝かしい臨在と尊厳)を私に見せてください。」
主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善(神の栄光、美しさ、麗しさ)をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう(わたし自身を名前によって示そう)。」
モーセのとりなしの祈りに倣い、キリストとともに、民の救いのために祈ろう。 |
| メッセージのトップへ戻る |
| 5月29日 |
【あわれみ深い神@】 出エジプト記34:1-17 |
モーセは主の命令により、再び十戒の石の板を授かるために、翌朝早くシナイ山に登った。人も家畜も、山に近づいてはならなかった。
主は雲の中にあって降りて来られ、モーセとともにそこに立って、主の名によって宣言された。「主、主は、あわれみ(母の胎を表す言葉)深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」四代は、四世代がともに住み、家族を構成するからとも考えられる。主は正義の神であり、罪を裁かれるが、罪人が悔い改める時、あわれみを示し、赦しの恵みを与えられる。
モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、どうか主が私たちの中にあって進んでくださり、確かにこの民はかたくなですが、私たちの咎と罪を赦し、主の民として受け入れてくださいと、とりなしの祈りをした。
主はイスラエルとの契約を更新され、地のどこにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行ない、モーセとともにいる民は皆、恐るべき主のわざを見ると仰せられた。奇しいこととは、カナンの占領である。そして、神に対する絶対忠誠を要求された。カナン入国という新しい出来事に備えた戒めが、具体的に付け加えられた。それは、その地の住民と契約(しばしば宗教的なものを含む)を結ばないようにせよという、シンクレティズム(宗教混合主義)の禁止であった。神の民はその地の住民と妥協しないように気をつけ、異教を一切受け付けず、それを退けなければならない。金の子牛の背教の後だけに、特に偶像崇拝への警告は鋭い。偶像崇拝は姦淫の罪である。神の民は他の神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。 |
| メッセージのトップへ戻る |
|
 |