エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2010年11月
11月7日 【神への恐れ】 出エジプト記20:18-26
 イスラエルの民は皆、雷と稲妻、角笛の音と煙る山(神の尊厳を表す自然現象)を見て、たじろぎ、遠く離れて立った。神の言葉を聞くという経験は、人々を神に近づかせず、後退させた。しかし聖書には、「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」と書いてある(申命記30:14)。民は、神が彼らにお話しになって死ぬといけないと言って、恐れた。自己保身的な誤った恐れである。神が来られたのは、民に経験を与え、聖い神を深く知らせるためであった。また、神への恐れが生じて、民が罪を犯さないためであった。人は、神への畏敬の念によって、神を信頼し、神の命令に従って生きる(正しい道に歩む)ことができる。

 主は契約により、法に導かれる民をもとうとしておられた。主はモーセを通して、「あなたがたはわたしと並べて(わたしの他に)、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない」と仰せられた。

 また、主を礼拝するために、土の祭壇を造り、全焼のいけにえ(神への献身を意味する)と和解のいけにえをささげなければならないと仰せられた。主の名を覚えさせる全ての所に、主は臨まれ、民を祝福される。主を礼拝する場所を指定するのは、人ではなく主である。自分勝手な所に、祭壇を築くべきではなかった。

 石の祭壇を主のために造るなら、切り石で築いてはならず、自然の石がよいと、主は仰せられた。のみを当てる(人間の技巧)なら、それを汚すことになる。神礼拝においては、人間が何かをするのではなく、神がそこに臨まれる。また、階段で祭壇に上ってはならなかった。裸がその上にあらわれてはならないからである。階段のない祭壇は、自己正義の階段を上る必要がないことを意味する。祭壇を建てるのに、人間の働きを必要としない。神に近づくのに、人間の努力は必要ないのである。「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」へブル10:19、22
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11月14日 【ヘブル人の奴隷】 出エジプト記21:12-21
 ヘブル人の男奴隷は、六年間仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。イスラエル人が同胞の奴隷になるのは、盗人の償いか、貧しいためであり、その場合、住み込みの雇い人として扱われた。それは、弱い者の保護であった。イスラエルの奴隷制が、他国と決定的に異なる点は、それが永続的ではないということである。エジプトの奴隷状態から救われ、自由の身とされた神の民が、いつまでも奴隷状態であることを、主は喜ばれない。また、イスラエルの奴隷には、安息日があった。

 男奴隷の主人が彼に妻を与えて、妻子がいる場合、七年目に彼は独身で去らなければならない。奴隷は本来、自分のものを何一つ持っていないからである。

 しかし、もし、その奴隷が、「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません」と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神のもと(神のお名前によって行われる裁判の法廷)に連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。

 耳は心からの従順の象徴であり、服従を表す。キリストは父の御心を行うために来られ、妻子である教会を愛され、十字架の上で死んでくださった。「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」詩篇40:8 主人と妻子を愛したヘブル人の男奴隷は、キリストの御父への愛と献身の表現である。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」エペソ3:19
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11月21日 【聖書の倫理@】 出エジプト記21:12-21
 死刑の罪が四つ記されている。人を打って死なせた者、自分の父と母を打つ者、人をさらった(誘拐した)者、自分の父と母を呪う者は、必ず殺されなければならない。

 殺人において、殺意がなく、過失致死の場合、逃れる場所が指定され、保護が与えられる。際限のない復讐から人を守るためである。しかし、人が故意に隣人を殺した場合、その人を神の祭壇の所からでも連れ出して、殺さなければならない。神の祭壇は、キリストの贖いを指し示す。そこは、人間の罪を贖う場であり、人間にいのちと保護を与える。罪を悔い改めて、主イエス・キリストを信じなければ、人は救われない。

 人をさらう者は、奴隷とするために人を誘拐する。人権が尊重されなければならない。

 自分の父と母を「呪う(蔑む、卑しめる)」は、十戒にある自分の父と母を「敬う(重んじる、栄光を現す)」の反語である。

 これらは、神のかたちとして与えられた人格を傷つける、人のいのちの重要性に対する警告である。生命と肉体の大切さを教え、安全を保護し、両親の権威を守る。霊魂の真の所有者は、神である。これらの罪は、神の主権に対する挑戦である。

 人が争い、相手を打ち、相手が死なないで床についた場合、もし再び起き上がり、杖によって、外を歩くようになれば、打った者は罰せられない。ただ彼が休んだ分を弁償し、完全に治療させねばならない。

 自分の奴隷を杖で打ち死なせた場合、その者は必ず罰せられなけらばならない。ただし、その奴隷が一日か二日生き延びたなら、その者は罰せられなくてもよい。奴隷は彼の財産だからである。彼は奴隷を失うことによって、自ら損失を被り、すでに罰を受けている。
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11月28日 【聖書の倫理A】 出エジプト記21:22-22:3
 いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、傷には傷、打ち傷には打ち傷という、同態報復刑法(同害報復法)が記されている。人間の心の底にある無制限報復に対して制限を加え、同量の報復をもって満足すべきことを規定したものである。無用の報復の拡大を抑えるのが目的である。また、犯人に都合のいい自分勝手な弁償で事を済ますことがないように、被害に応じて裁判官が定める客観的な公平な判決である。しかし、イエスはこのように言われた。「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

 同態報復刑法は、奴隷には適用されなかった。奴隷の片目を打ってそこなったり、歯を一本打ち落としたなら、代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない。牛が奴隷を突いて殺したら、その奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。銀貨三十シェケルは、一般に奴隷の代金とされた額である。キリストは、銀貨三十枚で売られた。

 盗人が抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、夜間の場合、相手の意図がわからないから、殺しても正当防衛と見なされる。しかし、昼間の明るい時になされたならば、過剰防衛と見なされる。夜、家に侵入して来た盗人を殺すことは許されていた。しかし、日中は盗人を見つけたら、盗んだ物を返すように後から要求できる。盗人に返却のチャンスを与えずに殺した場合は、殺人の罪に問われる。―盗みをした者は必ず償いをしなければならない。もし彼が何も持っていないなら、盗んだ物のために、身を売って弁償しなければならない。
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