エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2010年10月
10月3日 【祭司の王国】 出エジプト記18:13-19:6
 モーセは民を裁くために裁きの座に着き、民は朝から夕方までモーセの所に立っていた。律法はまだ書かれた形で与えられていなかった。モーセの舅イテロはモーセに、「あなたのしていることは良くありません」と言い、民全体の中から、神を恐れる、力のある(有能な)人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立て、責任を分担させ、重荷を取り除くように助言した。モーセは舅の言うことが神の御心であったので聞き入れ、全て言われたとおりにした。初代教会においても、七人の奉仕者の選出によって、十二使徒はもっぱら祈りと御言葉の奉仕に励むことができ、エルサレムの宣教が大きく前進した。

 エジプトの地を出たイスラエル人は、レフィディムを旅立って、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野に入り、山のすぐ前に宿営した。シナイはホレブ連山の一つであった。モーセは神の御許に上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来た(不思議な方法で救い出した)ことを見た。」親鷲は子鷲を一人前の親鷲にするために、飛べるように訓練する。

 「鷲の翼」は、主の特別な保護を表す。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝(大切な民)となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国(神に仕える祭司の国)、聖なる国民となる。」この言葉は、神の御業と神への信仰に、神の民の行ないが伴う、シナイ契約に通じる条件付契約であった。「宝」とは、世界一の宝石のコレクション、この世で最も高価なもの、金銀を意味する。「王国」の王は、主である。イスラエルの全ての人が祭司として神に仕えるために、聖なる国民として選ばれた。主に信頼する祭司として、奉仕する国である。「聖」とは、この世から区別されている、主のものである、主に身をささげるという意味である。
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10月10日 【十戒:十の言葉@】 出エジプト記19:7-20:3
 イスラエルの民は、「私たちは主が仰せられたことを、みな行います」と高慢な誓約をし、決定的な誤りを犯した。それは、破られた誓いであり、律法の行ないという砂でできた土台であった。主の恵みと憐みが、雷と稲妻に変えられてしまった。

 主はシナイ山に降りて来られるのに、民を聖別させ、着物を洗わせ、境界を設けて、教訓的な距離を置かれた。雄羊の角笛が非常に高く鳴り響き、主が火の中に降りて来られ、煙が立ち上った。角笛は重要な人物の到来、重大な宣言の前に吹かれる。主はモーセに、祭司と民が境を押し破って来ないように命じられた。主の怒りに触れ、撃たれることがないためである。 

 シナイ山で十戒(十の言葉)が授与された。十戒の授与は、出エジプト記とモーセ五書の中心であり、頂点である。十戒は、神の契約の基本的な律法である。第一戒から第四戒は、神に関する戒めである。

 第一戒は契約の基礎であり、他の三つはそれを展開したものである。「あなたには、わたしのほかに(わたしに加えて、わたしの顔の前に、わたしを差し置いて、わたしを越えて)、ほかの神々があってはならない。」という第一戒は、主とイスラエルの基本的関係であり、多神教に対する戒めである。主なる神に対する恐れと愛と礼拝と二心のない献身を要求する。イスラエルは主の臨在の前にあり続けなければならない。
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10月17日 【十戒:十の言葉A】 出エジプト記20:4-11
 第二戒は、偶像を造り、礼拝することに対する戒めである。創造主のみが、礼拝されるべきお方である。主を礼拝することにおいても、像の使用が禁止されている。主を何らかの被造物で表すことはできない。主である神は、ねたむ(熱情の、熱愛する)神であり、主以外のものを神とすることを許さない絶対者である。神がその民に対して要求される忠節を示し、唯一の神に対する忠誠と、神の正義の厳格さを表す。主を憎む(否む、侮る)者の罰は、三、四代に及ぶ。三、四代は、親の偶像礼拝の悪影響の及ぶ範囲を表している。恵み深い神は、それを、三、四代でとどめられる。主を愛し、主の命令を守る者には、恵みが千代(千の複数形)にまで(末永く、限りなく)施される(幾千代にも及ぶ慈しみが与えられる)。

 第三戒は、神である主の御名をみだりに唱えてはならないことである。神の御名は、神のご人格であり、神ご自身である。本当の意味ある使い方をしない、正しくない用い方(乱用)が禁じられている。主の御名は、祈りや願い、賛美と祝福と感謝などの礼拝とともに用いるべきである。

 第四戒は、安息日を覚えて(契約の義務としてしっかり守り、特別な日として)、聖なる日とすることである。七日目は、主の安息であり、主に属している。安息は主にのみあり、主の御手の中に憩うのである。キリストこそ真の安息であり、天の御国においてこそ真の完全な安息が与えられる。家族も奴隷も家畜も在留異国人も、主の模範に倣って、七日目に労働を中止し、休む。そのことは、まず礼拝を意味し、神に対する献身を表す。安息日は、創造と贖いという神の二つの大きな御業を覚える日である。天地の創造主であり、救い主である主を賛美し、契約の中にあることを喜ぶためである。
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10月24日 【十戒:十の言葉B】 出エジプト記20:12-13
 第五戒〜第十戒は、人(家族と隣人)に関する戒めである。神に対する義務が先行し、人に対する義務がそれに続く。

 第五戒は、あなたの父と母を敬え(重んじる、栄光を現す)という戒めである。たといどのような人物であったとしても、両親を命の源泉、命の与え手である主を代表するゆえに重んじるのである。秩序の神は、神が定められた秩序を重んじるように望まれる。この戒めは、広く神の権威を代表している人々(秩序におけるかしら)に関して言われている。両親は、子供に対して神の権威を代表する。両親は、信仰養育の責任をもつ。父は、教え、養い、導く者であり、息子、娘は教え、導かれる者である。両親への服従は、神への服従に結びつく、正しい、主に喜ばれることである。主にあって両親に従うなら、約束の地で幸せに生活し、長生きすることができる。神に対する尊敬と恐れをもって仕えるのである。また、神の権威者が御心にかなわない時には、とりなすのが、神の権威者を愛し敬うことである。

 第六戒は、殺してはならないという戒めである。神から与えられているいのちの尊さ〜生命の保全と人間の人権の尊厳性を教える。殺す:ヘブル語ラーツァフの意味は、血の報復を求めるような殺人、憎しみや悪意といった個人の感情に基づいて加えられる暴力的行為である。この戒めを思いと言葉と行ないにおいて、守らなければならない。主の契約共同体の命が損なわれることが、この戒めの禁止の対象となる。全ての人は、神のかたちに造られた。殺人は、神への反逆である。
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10月30日 【十戒:十の言葉B】 出エジプト記20:12-13
 第七戒は、姦淫してはならないという戒めである。神は貞潔と純潔を求め、性の乱用を戒めておられる。性関係は、一夫一妻の夫婦に限られる。姦淫は、配偶者への裏切りである。夫婦の関係は、主との契約関係を反映している。不正な性関係は、主との契約の道を歪める貪りの罪である。偶像礼拝は、姦淫と言われることが多い。イエスは、誰でも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したと言われた。聖書には、不品行な者は、神の国を相続することはなく、その受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある(第二の死)と書いてある。

 第八戒は、盗んではならないという戒めである。隣人のあらゆる権利に対する侵害を戒めている。神のものを管理する所有権の確立である。盗みの罪のあるところには、神の臨在が失われる。

 第九戒は、隣人に偽りの証言をしてはならないという戒めである。「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」ヨハネ8:44 偽りは、真理そのものであられる神に相容れない。主の契約共同体に対する正しい関係、正義の確立と誓約の厳正を教えている。愛をもって真理を語ろう。

 第十戒は、隣人の家を欲しがってはならないという戒めである。内心の貪りの罪の禁止であり、心の思いについての戒めである。「欲しがる」ヘブル語ハマードは、欲望とともに、欲望の結果の行為も表す。罪は心の欲望に宿り、そこから行為となって現れてくる。悪い行為の源としての欲望、意志、動機の罪を取り扱っている。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」ヤコブ1:15 しかし、神の国の国民のあり方は正反対である。神の民は、隣人の幸福のために奉仕し、生活において神のかたちを示す。
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