エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2010年9月
9月5日 【天から降るパンによってA】 出エジプト記16:13-36
 それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。露が蒸発すると、マナ(語源:これは何だろう)があった。天からのパン(マナ)は、イエス・キリストの型である。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」ヨハネ6:51 

 モーセはイスラエルの民に、マナを朝まで残しておいてはいけないと言ったが、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者はそれを朝まで残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。自分のために溜めこむと腐った。神のおきてに従って歩む備えができていなかったのである。マナの与え主でいます神に、日ごとに従順に従うことを学ぶ学課であった。日々実際的に活用し、御心を行なうのである。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」マタイ4:4 神の言葉に従うことによって、人は生きる。神の国とその義をまず第一に求めるなら、日々の生活の必要は全て満たされる。

 イスラエルの民は、朝ごとに、各自が食べる分だけ、マナを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。六日目には、彼らは二倍のパンを集めた。モーセは彼らに説明した。「主はこう仰せられました。『明日は主のきよい聖い安息日である。だから、食事は今日のうちにすべて用意しておき、明日の分も作っておきなさい。』」安息日に関する初めての記録である。

 それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。その時、主はモーセに仰せられた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令と教えを守ろうとしないのか。主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ(見よ、よくわきまえなさい)。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」それで、民は七日目に休んだ。七日目には、外に出てパンを集めてはいけない。安息日には、何の労働もしてはならないのである。

 モーセとアロンは主に命じられ、マナを壺に入れ、主の御前(あかしの箱の前)に置いた。イスラエル人はカナンの地の境に来るまで、四十年間、マナを食べた。
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9月12日 【天から降るパンによってA】 出エジプト記16:13-36
 イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。それで、民はモーセと争い、主を試みた。聖書には、「あなたの神である主を試みてはならない」と書いてある。「試してみよ」と命じられているのは、十分の一献金だけである。民は神の恵みの御業を無用なものとするつぶやきをモーセに言って、彼を石で打ち殺そうとした。石打ちは、死刑の方法であり、指導者を最終的に拒否する行為である。

 主は、モーセに民の前を進むように命じ、ホレブの岩の上でモーセの前に立たれ、モーセが岩を打つと岩から水が出て、民がそれを飲むようにされた。打たれた岩は、キリストの十字架を表し、水は聖霊を表す。

 モーセはその所をマサ(試み、試し)、またメリバ(争い)と名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。主を怒らせたり、心をかたくなにしてはならない。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」へブル11:6
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9月19日 【主の御座の上の手】 出エジプト記17:8-16
 アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。イスラエルが主から与えられた新しい水を奪う目的であったのだろう。アマレクは、イスラエルが荒野を神とともに歩むことを妨害した異邦人であり、肉(の思い)の型である。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。」ガラテヤ5:16-17 肉に属する人、キリストにある幼子ではなく、御霊に属する人として歩もう。

 モーセはヨシュア(主は救う、主は救いであるの意)に、幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさいと命じた。ヨシュアはモーセの若い従者であり、戦士である。そして、モーセは神の杖を持って丘の頂に立ち、手を上げて神に祈った。モーセが手を上げている時は、イスラエルが優勢になり、手を降ろしている時は、アマレクが優勢になった。キリストはいつも生きていて、祭司の務めをされ、私たちのためにとしなしをしておられる。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」と、聖書に書いてある。手が重くなったモーセは石の上に腰掛け、アロンとフルに手を支えられ、日が沈むまで、しっかりそのままであった。こうして、ヨシュアはモーセの祈りに支えられ、神の助けを得て、アマレクとその民を剣の歯で打ち破った。義人の祈りは働くと、大きな力がある。

 主はこのこと(信仰と祈りによって、勝利を得た経験)を記録し、ヨシュアに読んで聞かせよ(耳に置け)と、モーセに仰せられた。主はアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。アマレクは特別に主の敵となり、呪いの対象となった。御霊に逆らう冒涜は赦されない。主の御霊を試みたり、欺いてはならない。恵みの御霊は、罪を支配する力を与える。私たちのうちにおられるキリストは、悪魔より力がある。

 モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシ(主はわが旗)と呼び、「主の御座の上にある御手は力強く、これからもずっとアマレク人と戦ってくださる」と言った。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放したのである。
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9月26日 【神の祝宴】 出エジプト記18:1-12
 モーセの舅、ミデヤンの祭司イテロは、神がモーセと御民イスラエルのためになさった全てのこと、すなわち、どのようにして主がイスラエルをエジプトから連れ出されたかを聞いた。それでイテロは、先に送り返されていたモーセの妻チッポラとその二人の息子を連れて行った。モーセは、妻と息子をイテロのもとへ送り返していたのである。二人の息子の名は、ゲルショム(私は外国にいる寄留者だという意味)と、エリエゼル(私の神は助けという意味、モーセの信仰と希望を表している)であり、ミデヤンにおけるモーセの霊的心境を反映している。

 イテロはモーセの息子と妻と一緒に、荒野の神の山(ホレブ)に宿営していたモーセの所へ行った。モーセは出迎え、彼らを歓迎し、天幕の中に連れて入り、心ゆくまで話し合った。天幕は、教会の型である。イテロは、主がイスラエルのためにしてくださった全ての良いこと、エジプトの手から救い出してくださった時の数々の恵みを聞いて、とても喜んだ。イテロは言った。「主は誉ほむべきかな。主はあなたがたをエジプトの手と、パロの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。 今こそ私は、主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました(このことがよく分かった)。」

 イテロは全焼のいけにえと神へのいけにえを持って来たので、アロンはモーセの舅とともに神の前で食事をするために、イスラエルの全ての長老たちと一緒にやって来た。神を中心とした素晴らしい交わりをもったのである。いけにえのためにささげられた肉の一部は、民の食事に用いられた。食事には、人々を一致団結させる働きもあった。いけにえをささげたことと、いけにえの食事をしたことは、イテロも含めて、神の御前で契約が結ばれたことを示す。イテロは、神の民に加えられた異邦人の型である。キリストの血によって、隔ての壁が打ち壊され、ユダヤ人と異邦人が一つにされ、新しい一人の人に造り上げられ、平和が実現する。両者は、キリストの十字架によって神と和解し、御霊によって神の御住まいとなるのである。新しい一人の人なる教会は、神が臨在しておられる聖なる所において、お祝いをする。
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