エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2010年7月
7月4日 【出エジプトを覚える@】 出エジプト記13:1-12
 主は、イスラエル人の初子は全て、人も家畜も主のものであり、主のために聖別せよと仰せられた。家畜の初子もまた、エジプトの災いから逃れ得たことを覚えさせられる。聖別とは、聖なるものとして区別することであり、聖別せよとは、主のために特別に分離しささげよという意味である。イスラエルの初子が救い出されたのは、聖別されるためだった。初子は、その家族を代表する。イスラエルが初子を聖別することは、全イスラエルが聖別されることに他ならない。

 イスラエルはその初子をささげることによって、祭司の民として自分自身を主にささげた。それは、彼らが神の恵みによって召された応答だった。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ12:1-2

 主が力強い御手で、奴隷の家であるエジプトから連れ出された過越の日を覚えて、七日間種を入れないパンを食べて、主への祭りが祝われた。普段食べているパンが変わるということは、強烈な印象を与える。主が力強い御手で、イスラエルをエジプトから導き出されたことを、手の上のしるしと額の上の記念とし、主の教えを口ずさまなければならなかった。イスラエルが肌身離さず覚えるべきことであることを強調している。

 主がカナンの地を賜る時、全て最初に生まれる者は、主のものとしてささげられる。家畜の初子も皆、雄は主のものである。律法では、雄だけが初子のいけにえとして認められている。一般に祭壇にささげることができるのは、雄である。イスラエルの数は、男子によって数えられた。
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7月11日 【出エジプトを覚えるA】 出エジプト記13:13-19
 ろばの初子は皆、子羊で贖わなければならない。ろばは、家畜として非常によく用いられた大切な動物だが、律法ではきよくない動物、汚れた獣だからである。子羊は聖くないものの犠牲とされる。イスラエルの長男も、その代わりに子羊が殺されてささげられ、こうして神の御手から返して頂くのである。身代わりの死によって、死を免れ、子羊の血によって救われた。キリストこそ、聖い傷のない神の小羊である。主が力強い御手によって、イスラエルを奴隷の家、エジプトから連れ出されたことは、イスラエルの全生活の中に根を下ろし、記憶されなければならなかった。

 パロがイスラエルの民をせき立てて、無理に行かせた時、神は、彼らを近道(最短距離ルート)であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。民が戦わなければならないことを知って恐れ、心が変わり、エジプトに引き返してしまわないとも限らないからである。近道はエジプトの要害があったからだけではなく、近道を通ってカナンに到達した場合、イスラエル人の心の準備ができないうちに、他民族と本格的な交戦状態に入ることになるので、それを避けられたのかもしれない。

 それで神は、民を葦の海に沿う荒野の道に迂回させられた。荒野の道は遠回りであった。しかし、荒野の道の全工程、苦しみ、試みは、イスラエルが神の命令を守るかどうか、心のうちにあるものを知るためであり、飢えは、イスラエルにマナを食べさせ、人は主の口から出る全てのもので生きるということを、わからせるためであった。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた。

 モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神様がここから救い出してくださる時は、私の遺体も約束の地に持って行ってくれと」と遺言していたからである。モーセがこのことを実行するためには、周到な準備が必要であったであろう。イスラエルの民は、自分たちが約束の地に向かっているのだという明確な自覚をもっていた。
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7月18日 【主の栄光の御業@】 出エジプト記13:20-14:4
 主は、昼は雲の柱におられて、イスラエルの民を導かれ、夜は火の柱の中におられて、彼らを照らされ、彼らの前を進まれ、離れなかった。雲の柱と火の柱は、主の栄光であり、主の臨在を表す。昼間の雲は、イスラエルを強烈な太陽の光線と暑さから守り、夜の火は、行くべき道を照らして彼らを導いた。火は、全てのものを暖め、光を与え、焼き尽くす力をもっている。神の力と荘厳さを象徴する。雲は、神の神秘性を象徴する。神によって始められた救いの御業は、神が責任をもって完遂されるのである。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」へブル12:2 「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」ローマ11:36

 主は、イスラエル人に、引き返して、エジプト軍の手中に陥りやすい場所に宿営するように仰せられた。神がこのような不思議な命令をお与えになったのは、エジプト軍をおびき出して、イスラエルの後を追わせるためであった。イスラエルが袋のねずみになることに、神の御旨があった。主は、パロと全軍勢を破り、全滅させて、ご自身の栄光と偉大さを現され、エジプトは主を本当に知るようになるのである。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」Uコリント12:9-10  
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7月25日 【主の栄光の御業A】 出エジプト記14:5-14
 イスラエル人の逃げたことがエジプトの王に報告されると、パロとその家臣たちは考えを一変して、イスラエルを労役から解放して去らせてしまったことを後悔した。そこでパロは、エジプトの全戦車と軍勢を率いてイスラエル人を追跡した。しかし、イスラエル人は臆することなく(手を高く挙げて、力強い神の御手に支えられて)出て行った。

 エジプト人は海辺に宿営しているイスラエル人に追いつき、背後に襲いかかろうととしていた。イスラエルが窮地に立った、恐ろしい瞬間である。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。そして、モーセを責め立て、つぶやいた。信仰によってではなく、目に見える現在の状況によって、感情に容易に動かされ、霊的状態が左右される信徒の型である。

 モーセは民に、「恐れてはいけない」と言った。それは、最大の試練の時に語られる言葉であり、主が戦われる条件である。「落ち着いて、信仰にしっかり立って、今日あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見るエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにして、黙っていなければならない。何一つする必要はない。」と、続けてモーセは民に語った。

 神は贖罪の御業において、お一人で働かれた。神の御心に従っている限り、たとえ窮地に陥ったとしても、主は大いなる力をもって窮地から救い出してくださるのである。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。」詩篇37:3、7 「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。」ヨハネ12:35
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