 |
| |
| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
| |
| 2010年6月 |
|
| 6月6日 |
【過越の祭りの始まりA】 出エジプト記12:8-14 |
過越の夜、子羊の肉を丸ごと火に焼いて食べる。火で焼くことは、神の裁きの怒りの火を表す。火は主を試みたが、少しの不純物も見出すことができなかった。子羊の肉を食することは、主を喜び、主に養われ、主の愛を楽しむことである。キリストは完全にご自身をささげ尽くされた。キリストは完全に受け入れられなければならない。
子羊の肉に、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。イスラエルの民は急いでパンを作ったので、パン種を入れて膨らませる時間さえなかった。イスラエルの民がエジプトを脱出するために、非常に急いでいたことを思い起こさせる。パン種を入れたパンは、腐敗しやすかった。パン種は、道徳的腐敗、堕落、罪と悪を象徴する。種を入れないパンは、罪のない義なるキリストを表す。私たち神の民は、罪を告白することで、その罪を赦され、御子イエスの血によって、全ての罪と悪からきよめられることができる。苦菜は、エジプトにおけるイスラエルの民の苦難を象徴する。キリストの御苦しみを真実に覚え、神の御心に添って悲しみ、救いに至る悔い改めをしよう。
主への過越のいけにえの食事は、足にくつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなければならなかった。いつでも出発できる用意をして食事をとれということである。過越の夜、子羊の血によって、神の裁きが通り越し、イスラエルの家々には滅びの災いが起こらなかった。
しかし、エジプトの地の全ての初子は、人をはじめ、家畜に至るまで主に打たれ、滅びの災いが起こった。また、エジプトの全ての神々に裁きが下された。エジプト人の礼拝していた神々が、いかに無力であり、むなしいものであるかが示された。それは、エジプト人の生活と心の全てを支配していた霊的な力への裁きであった。
過越の日は記念すべき日となった。主は、過越の祭りを主への祭りとして祝う、代々守るべき永遠のおきてとするように命じられた。過越の日こそ、イスラエルの解放の日、神の恵みによる救いを記念する救いの日であった。 |
| メッセージのトップへ戻る |
| 6月13日 |
【過越の祭りの始まりB】 出エジプト記12:15-28 |
子羊の血によって結ばれた神との契約は、神との和解によって神との交わりに入ることを意味した。神とのいのちの関係に入れられた以上、罪の古きパン種を取り除かなければならなかった。イスラエルは純潔が求められた。罪のない新しいいのちを食べ、聖会に集まり、新しい生活を示すのである。種入りパンを食べる者は、神の御業を否定することを意味した。神への不服従は、いつも問題を生じさせ、祝福を妨げる。種入りパンを食べる者は、神の民から除外された。
家族のために、子羊を過越のいけにえとして屠り、鉢の中の子羊の血に、ヒソプの一束を浸し、かもいと二本の門柱につけるように、モーセはイスラエルの長老たちに命じた。ヒソプは霊的きよめを象徴する。主はその血をご覧になり、滅ぼす者(天使)が家に入って打つことがないようにされる。ここでの血は、区別と保護を意味する。同じように、イエス・キリストの十字架の血を心のうちに塗った者は裁かれない。
過去を現在化する、過越の祭りの儀式(労働)が制定された。過越の祭りは、過越における神の救いの御業を子孫に伝える効果的な方法である。子供の真の教育は、家庭においてなされる。一回限りの歴史的出来事は、祭儀により、いつまでも記憶され、神の恵み深い御業を思い起こすことができる。過越により、イスラエルがエジプトから区別される時、イスラエルは本来あるべき姿、主に仕える者となる。
「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の主は仰せられる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。」マラキ3:17-18 「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」黙示録22:10-11 |
| メッセージのトップへ戻る |
| 6月20日 |
【エジプトからの旅立ち@】 出エジプト記12:29-38 |
真夜中になって、主はエジプトの地の全て(あらゆる身分の人と家畜)の初子(後継者)を打たれた。その夜、全エジプトが起き上がり、激しい泣き叫びが起こった。死人のない家がなかったからである。
ついにパロの傲慢な心は打ち砕かれ、モーセの前に屈服し、全く無条件でイスラエルに退去の命令を下した。イスラエルの神、主の全面的な勝利である。パロは「私のためにも祝福を祈れ」と言ったが、それは災害を取り除くためであって、本心からの悔い改めではなかった。
エジプトの人々は、自分たちは皆死んでしまうと思い、イスラエルの民をせきたてて、強制的にエジプトから追い出した。真夜中に、エジプト人も初めて目が覚めた。イスラエル人は突然の出立となった。イスラエル人はモーセの言葉どおりに、エジプトから銀の飾り、金の飾り、それに着物を求め、多くのものをもらった。それは多くの家財道具を置いたまま突然出て行く代償であり、また長い間の苦役の代償としては、安い代価であった。エジプト人の好意は、神のご配慮、主からイスラエルへの贈り物であった。これらの物は、やがて荒野において、神の幕屋を建設するための素材の一部となった。
エジプトから旅立ったイスラエル人の壮年の男子は、約六十万人であった。老人、女性、子供を入れると、二百万人以上になる。更に、エジプトでイスラエル人と同じような環境にあった、多くの入り混じって来た外国人と、非常に多くの家畜も、彼らとともに上った。それらの外国人は、後に問題を起こす原因となった。 |
| メッセージのトップへ戻る |
| 6月27日 |
【エジプトからの旅立ちA】 出エジプト記12:39-51 |
イスラエルの民は、パン種を入れてパンを焼く暇がなかった。パン種を入れなかったので、パンは腐敗しなかった。
イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は、430年であった。主の全集団(整然と部隊に分かれた軍隊を示す)は、エジプトを出た。主が定めた時に、救いは成し遂げられる。その夜、主は彼らを救い出すため、大きな恵みの御業をなしてくださった。だから、イスラエル人はこの夜を覚えて、毎年主のためにお祭りをするのである。神のなされた御業の上に、私たちの生活が築き上げられなければならない。神の恵みの御業への応答としての、信仰生活である。神の恵みを受け取ることによって、主のために生きることができる。
過越のいけにえの羊は、一つの家で食べなければならなかった。また、羊の骨を折ってはならなかった。それは、分割されない一つの単位であった。キリストの骨も折られなかった。丸ごと一つのものを犠牲としてささげ、全員で会食することで、神との結合と神の民の信仰による結合を象徴した。過越と主の契約が、家庭を単位として行なわれることを示す。後の時代にも、イスラエルの唯一の神殿とともに、家族ごとに過越が守られた。今日、地域教会と家々においても、家庭と教会が一体になって、礼拝が守られている。“すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。”エペソ4:6
イスラエルの全会衆は、これを行わなければならず、例外は認められなかった。在留異国人も割礼を受ければ、イスラエルの契約に入れた。旧約聖書は、決してイスラエル人だけの救いを主張していない。
過越の日に、主はイスラエル人を、集団(軍団)ごとに、エジプトの国から連れ出された。 |
| メッセージのトップへ戻る |
 |