エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2010年5月
5月2日 【出エジプトの大業E】 出エジプト記9:13-28
 主はモーセを再びパロのところに遣わされ、「わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ」と言わせた。主が全ての災害をエジプトに送ったのは、主のような神が他にいないことを分らせるためであった。主がパロの頑迷さに対して、なぜ決定的な早い処置をとられないのか。それは、絶対的主権をもった、創造主であるヘブルの神の独一性と偉大さを知らせ、イスラエルの神の勝利の記録が全世界に伝えられるためであった。しかし、パロは高ぶりのゆえに、イスラエルの民を礼拝に行かせなかった。

 第七の災害は、極めて激しい雹の災害であり、直接天から下った。主は災害の起こる時を警告され、災害が主の御業であることを明確にし、エジプトの民の中でも、主を恐れる者を守ろうとされた。主は御怒りの中にも、主を恐れる者をあわれむことをお忘れにならない。
 モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいる全てのものを打ち、また野の草を皆打ち、野の木もことごとく打ち砕いた。しかし、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。

 パロは今回は譲歩を余儀なくされ、「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを行かせよう。おまえたちはもう、とどまってはならない」と言った。しばらくの間にせよ、パロが自分の悪を認め、主の義を認めたことは、意義あることであった。パロは苦しい時の神頼みをした。しかし、それは悔い改めの言葉ではなかった。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」Uコリント7:10
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5月9日 【出エジプトの大業F】 出エジプト記9:29-10:11
 モーセが主に向かって両手を広げて祈ると、雷と雹と雨はやんだ。しかし、パロとその家臣たちは主を恐れていない(尊敬していない、名誉をたたえていない)ので、またも罪を犯し、強情になり、イスラエル人を行かせなかった。神に逆らう者のしぶとさと悪魔の奴隷の姿を見る。パロは心を底から変えず、主に従おうとしなかった。“この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。”ローマ12:2

 主はパロとその家臣たちを強情にされた。それは、主がエジプトの中でしるしを行なうためであり、また、主がなされた不思議なわざを、イスラエルの子孫に語り伝えていくためであった。パロは主の前に身を低くすることができなかったので、イスラエルの民を行かせ、主に仕えさせることができなかった。

 第八の災害は、いなごの災害であった。いなごは神の裁きの象徴であり、貪欲な食欲と大集団のもつ破壊力を表す。エジプトでは、いなごの災害から守られるように、農夫たちはいなごの神を拝し、いなごの形をしたお守りを身に着けていた。家臣たちはパロに、イスラエル人たちを行かせ、主に仕えさせないと、エジプトが滅んでしまうと忠告した。

 パロはモーセとアロンに、誰が行くのかと尋ねたので、モーセはイスラエルが総出で、家畜も連れて行き、主の祭りをするのだと答えた。モーセの答えは、神礼拝は、その持っているもの全てをあげてしなければならないのだという真理を語っている。しかし、パロは民族的逃亡だとあざけった。全イスラエルが行ってしまうことは、パロには不安に思えた。そこでパロは、イスラエルの壮年の男だけを行かせ、家族を人質にとり、一部をエジプトにとどめておこうとした。
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5月16日 【出エジプトの大業G】 出エジプト記10:12-29
 モーセが手を差し伸ばして祈ると、いなごの大群がエジプト全土を襲い、草木を食い尽くした。パロは急いでモーセとアロンを呼び出して言った。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して罪を犯した。どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ。おまえたちの神、主に願って、主が私から、ただこの死を取り除くようにしてくれ。」このことは、単に結果を変更して欲しいという、浅はかな悔いであった。パロはモーセを自分の都合のために使い、神をも利用してきた。パロは再び自分の非を認めるが、災いが過ぎ去ると態度を変えた。しかし、イエスは病がいやされた人が、大声で神を誉めたたえ、イエスの足もとにひれ伏して感謝し、神を崇めるために戻って来たことを喜ばれた。

 パロの心がかたくなになり、イスラエル人を行かせなかったゆえに、エジプトにもたらされた第九の災害は、暗闇の災害であった。神から来た超自然的な闇によって、エジプト全土は三日間真っ暗闇となった。光が通らない程までに、暗闇が迫って来た。それは、エジプトの太陽神ラーの敗北と裁きを意味していた。しかし、イスラエル人の住む所には光があった。イエス・キリストが十字架につけられた時にも、全地が暗くなり、太陽は光を失った。

 今度は、パロは家畜は連れて行くなという妥協案をモーセに提示した。パロの許可は、条件付きの自分勝手な主張であった。神へのいけにえなしに、イスラエルの民を国から出そうとしたのである。彼は、彼らを神に仕える力なしに出て行かせようと思った。

 モーセはパロに言った。「あなた自身が私たちの手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私たちの神、主にささげさせなければなりません。私たちは家畜も一緒に連れて行きます。一頭たりとも残して行くことはできません。私たちが主である神を礼拝するには、それが必要なのです。」全焼のいけにえは、神への全き献身を意味する。

 イスラエルの民は、エジプトを出て、三日の道程の旅をし、主を礼拝しなければ、神のご要求も、彼らの責任も知り得なかった。これらのことは、エジプトの暗闇と汚染された空気の中では、知り得なかったのである。
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5月23日 【出エジプトの大業H】 出エジプト記11:1-10
 第十の災害は、エジプトの初子の死の災いであった。その後で、パロはエジプトからイスラエル人を一人残らず追い出してしまう。その時、今までの過酷な労働に対する報酬として、金銀の装飾品を餞別としてもらうように、主は民に仰せられた。イスラエルの民が長い間、エジプトに仕えた代償としては、安いものであった。神は幕屋建設のための材料をも準備されたのである。主のエジプトに対する勝利の一形態である。主はご自身の奇跡的な介入により、エジプト人がイスラエル人に好意を持つようにされた。

 今度の災害は、主ご自身によって行なわれる、パロの不服従に対する裁きであった。初子は全民族を表し、力と勢いを象徴する。パロの初子から最下層の奴隷の初子まで、皆死に、エジプト全土にわたって、神の裁きの中で、苦しみのために大きな叫びが起こる。しかし、イスラエルは少しも災害を受けない。

 悲惨な災いの中にあって、イスラエル人は守られ、彼らを害するものは何一つなく、彼らは平安である。救いはいつも、裁きの最暗黒の中において行なわれる。エジプトの初子の死の災いは、神の救いであるキリストの十字架の予表としての出来事であった。

 モーセはパロの権威が地に落ちることを言い表し、怒りに燃えてパロのところから出て行った。今や恵みの時が終わった。パロがモーセたちの言うことを聞かないので、エジプトの地に、主の大きな奇跡(多くの不思議)が行なわれることになった。

 パロはあくまで主に逆らい、神のご計画を妨害しようとした。人はキリストの支配化にあるか、サタンの支配下にあるかのどちらかである。もし人が神の証の光を拒むなら、彼は神によって、霊的盲目と心のかたくなさに引き渡されてしまうのである。
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5月30日 【過越の祭りの始まり@】 出エジプト記12:1-7
 主はエジプトの国でモーセとアロンに、過越と出エジプトの重要さのゆえに、この月を最初の月とするように命じられた。過越の祭りによって、恵みの新しい生活に入り、神の民の誕生の基礎が据えられた。イスラエルの民が、主の民として出発したのは、過越の祭りの時であった。イスラエルは主との新しい関係に入り、神とともに歩み始めた。それは、新しい時代の到来であり、神への服従と献身の歩みであった。

 過越の祭りは、家族ごとに行なわれた。イスラエルの第一の、また基本的な祝福は、家庭の祝福であり、家庭の祝福こそ、民族的な繁栄の基礎であった。神の民は、家族ごとにまとまった秩序ある集団である。一つの集会に一つのいけにえがほふられた。一つのいけにえは、平和の土台であり、一致の中心である。

 いけにえの傷のない雄羊は、体に欠陥のない、健康で無傷のものであり、神に全く従われる、救い主の無罪性を表す。過越の小羊は、キリストを表している。また、その一才の雄羊は、イスラエルの初子をも表し、その子羊がイスラエルの初子に取って代わられたのである。過越の祭りは、小羊の血を土台とする民の贖いと、主を交わりの中心とすることを表している。

 過越の夕暮れに子羊がほふられたことは、キリストの十字架上の死の予型であった。その血が、羊を食べる家々の二本の門柱とかもいにつけられた。家の入口あり、家の住人の名が記されている所に、神への犠牲と信仰のしるしがつけられたのである。このことは、イエス・キリストの血のもとにあることを意味し、その血が神の裁きに対する安全の保証であった。彼らはその血によって救われたのである。  
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