 |
| |
| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
| |
| 2010年4月 |
|
| 4月4日 |
【出エジプトの大業B】 出エジプト記8:1-19 |
主はモーセに、パロのもとに行って、「わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えさせるようにせよ(礼拝させなさい)。もし、あなたが行かせることを拒むなら、見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ」と言えと仰せられた。第二の災害は、かえるの災害であった。エジプト人は凄まじい繁殖力をもつかえるを神聖な動物と考え、礼拝の対象としていた。かえるの災害は、エジプト人の間違った信仰と神に対する裁きであった。アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地を覆った。呪法師たちも同じことをしたが、主の力に対抗できる業は、何一つ行なうことができなった。
パロの心は一時的に変化し、モーセとアロンを呼び寄せ、「主に祈れ。そうすれば、私はこの民を行かせる。彼らは主にいけにえをささげることができる」と言った。モーセは、主のような神は他にはいないことをパロが知るために、主に叫び求めたので、かえるは死に絶えた。ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。彼は苦しみが去り、少し楽になると、すぐかたくなになり、自分の約束を守らなかった。
第三の災害は、ぶよの災害であり、何の警告もなしに行なわれた。パロは自分の約束を守らなかったのだから、このような仕打ちを受けてもやむを得なかった。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった。呪法師たちは同じことができず、パロに「これは神の指です(これは正しく神様の御業です。私どもにはできません)」と言った。「しかし、わたしが、神の指(神の御霊)によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」ルカ11:20
呪法師たちは神の力を認めざるをえず、神の力を証言した。彼らは、主の方が真の神であり、力ある神であることを認め、その神がエジプトの中で働いていることを承認したのである。エジプトの文明と宗教は、イスラエルの神に対抗できない。しかしパロの心はかたくなになり、モーセとアロンの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。 |
| メッセージのトップへ戻る |
| 4月11日 |
【主は生きておられる神、恵み溢れる神】 ヘブル人への手紙11:6 |
エクレシア桜八周年おめでとうございます。ここまで守られ、成長されたことを、神に感謝いたします。八という数字は、「末広がり」ということで、良い字と言われています。マタイ5章の山上の垂訓では、八つの幸い(祝福)の約束を、イエス様が語られています。御教会と皆様の上に、これらの祝福の約束が益々豊かになっていくよう、主に祈ります。
確実にそのような人生を歩むためには、どう生きたら良いのでしょうか。今日の御言葉から教えて頂きましょう。御言葉は、次のように言っています。
@ 神は今、生きておられる。(真の神は、生きておられる神)
A この神を求める者には、報いてくださる。
この二つをしっかり信じていること、それが祝福された人生を送るために、不可欠であると語っています。
ルカ16:19〜25を開きましょう。ここには三人の人物が登場します。一人は金持ち、二人目は物乞いのラザロ、三人目はアブラハムです。
三人の人生を見てみましょう。金持ちは、この世で贅沢三昧に暮らしました。しかし死んだ後は、ハデスに落ちて苦しみ続けます。物乞いラザロは、信仰を持ち続けましたが、やっと生きているという苦しみの生活でした。しかし死んだ後は、天国で安らぎの生活に入りました。アブラハムは、天国で豊かな人生を送っており、ラザロを懐に抱いているゆとりを感じるおおらかな生活をしています。アブラハムは地上の人生において、神を信じ続けた信仰の人でした。彼はいつも主に願い求め、豊かな人生を送りました。何百人というしもべを養い、多くの家畜を持つ富豪でした。
これら三人の中で、神の御心の人生を送っているのは、アブラハムです。ラザロも悪くはないけれども、アブラハムのように、神に大胆に進み出て願い求めたら、地上の時代から天国の前味を味わうことができたでしょう。アブラハムは、@とA両方を信じ切った人でした。あなたがたの願いが聞かれないのは、わたしに願わないからだと主は言われます。
清く正しく美しくだけで満足するのではなく、地上においても実り豊かな歩みができるよう、大胆に神に祈り、アブラハムのような、良き証し者としての兄弟姉妹として、これからも歩み続けられるよう、お勧めいたします。 |
| メッセージのトップへ戻る |
| 4月18日 |
【出エジプトの大業C】 出エジプト記8:20-32 |
主はモーセに、朝、水のところに出て来るパロに、第四の災害について警告するように命じられた。その警告は、「わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。もしもわたしの民を行かせないなら、わたしは、あぶの群れを放つ。しかし、わたしの民のいるゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。その地の真ん中に主であるわたしがいることを、あなたが知るためである。わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、贖いを置く。明日、このしるしが起こる」という内容だった。
第四のあぶの群れの災害の特色は、エジプトとゴシェンの地のイスラエルとが、はっきりと区別されたことであった。ここに神の実在と摂理がある。
パロはモーセとアロンを呼び寄せ、「さあ、この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ」という妥協案を提示し、譲歩させようとした。しかし、神の民は、エジプトの国から全く解放され、分離していることが、根本的に、絶対に必要であった。贖いとエジプトからの分離は、同一なのである。
神の御心は、今の悪の世界から私たちを救出することである。そして、悪魔と不信者からの分離は、主イエスの御名の栄光が現される前提条件である。「あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。」マラキ3:18
モーセは、「そうすることは、とてもできません。…それで私たちは荒野に三日の道のりの旅をして、私たちの神、主にいけにえをささげなければなりません。これは、主が私たちにお命じになることです」と答えた。エジプト人は、牛や羊を神聖な動物と考えており、礼拝の対象としていた。彼らの目の前で、動物をいけにえとしてささげることは、彼らに殺されかねないことであった。
パロは、「私は、おまえたちを行かせよう。…ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ」と言った。モーセは、パロに重ねて欺かないように念を押し、主に祈るとあぶは一匹も残らなかった。しかし、パロは災いが過ぎ去ると態度を変え、この時も強情になり、民を行かせなかった。 |
| メッセージのトップへ戻る |
| 4月25日 |
【出エジプトの大業D】 出エジプト記9:1-12 |
主はモーセにパロのところに行って、第五の災害について警告し、「わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。もしあなたが、行かせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。しかし主は、イスラエルの家畜を区別し、イスラエル人の家畜は一頭も死なない。明日、主はこの国でこのことを行なう」と言うように命じられた。
第五の家畜の疫病の災害は、エジプトの動物神よりも、イスラエルの神が勝ることを象徴する、エジプトの神々に対する直接的な裁きであった。また、エジプトの大切な財産に対して、大きな打撃を与えるものであった。しかし主は、イスラエルの家畜を特別に扱われ、イスラエルの民を災害から守られた。それでも、パロの心は強情で、民を行かせなかった。
第六の災害は、パロへの警告なしに行なわれた。主はモーセとアロンに仰せられた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」
「かまど」はイスラエルの苦役の象徴であり、「すす」は奴隷であるイスラエル人の血と汗と苦しみを表す。呪法師たちも腫物の被害を受け、裁きの犠牲者となった。彼らはこれ以後、モーセと張り合うことをやめる。しかし、主はパロの心をかたくなにされ、彼は二人の言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりである。
この時から、パロに対する裁きとして、主がパロの心をかたくなにされたと言われている。パロがかたくなになったのは、パロ自身の行為と責任であると同時に、主の主権的行為による。パロは全能の神の御心に従おうとはせず、神への恐れを一時的にしか感じなかった。 |
| メッセージのトップへ戻る |
 |