エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2010年2月
2月7日 【モーセの召命C】 出エジプト記3:21-4:9
 イスラエルの民がエジプトを出て行く時、主はエジプト人がこの民に好意をもつようにされ、物を与えるようにさせた。イスラエルは決してその働きの報酬を得ずに、手ぶらでエジプトを去ることのないよう配慮された。このことは、強制労働を強いられらた当然の報酬であり、彼らが長い間労役に服した代価として、当然与えられるべきものであった。それらは、後に荒野の生活の礼拝や儀式に必要な器具などの材料となった。

 しかし、モーセは困難と不安と不信仰のゆえに、神の召命に逆らった。主は、神からの使命と権威を信じるために、三つのしるしをお与えになった。しるしは、神の栄光が現わされ、神を信じるために与えられる。

 モーセは、自分の手にある羊飼いの杖を、地に投げるように言われた。主は、何の力もない者の手の中にあるものをお用いになろうとされる。神の御手に取り上げられる時、使命を果たすことができる。これは、モーセがイスラエルの民の羊飼いとして召されたことを表わしていた。杖を地に投げると蛇になったが、尾をつかむと杖になった。蛇はサタンの代名詞であり、エジプトの王を象徴し、礼拝の対象であった。このことは、イスラエルの神が、エジプトの王より強力であることを示していた。サタンは完全にキリストの支配化にあり、神の杖の下に永遠に打ち砕かれる。モーセの杖は、しるしを行なう神の杖となった。神のしもべとなることによって、神の権威が与えられた。神は強大な目的を達するために、最も弱い器をお用いになる。

 次に、モーセが手を懐に入れて出すとツァラアト(皮膚病、罪の型)に冒され、再び手を懐に入れて出すと病がいやされ回復した。このことは、イスラエルの民がエジプトの苦役と汚れから救い出され、健全な民とされることを象徴していた。キリストの贖いによる、罪の赦しときよめを表わす。 

 もう一つのしるしは、ナイルの水をかわいた土に注ぐと血になるというものだった。ナイル川は、エジプトにとってあらゆる良い物と繁栄の根源であり、神格化されていた。エジプト人の生活を保証し、人々にいのちをもたらすこの水を血に変えることは、エジプトの神々を打ち滅ぼす力を与えられていることの証拠になった。“神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。”Tヨハネ3:8
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2月14日 【モーセの召命D】 出エジプト記4:10-17
 モーセは神の召命に対して、「私はことばの人ではありません」と弱さを訴えた。しかし、神の救いは人に由来せず、ただ神のみから来る。それに対して主は、「誰が人に口をつけたのか。…さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう」と仰せられた。人の無能は、創造主なる神から与えられる任務を拒む理由にはならない。創造者であり、全能者である主に信頼することである。主が私たちとともにいてくださるならば、私たちの弱さ、欠点そのものが、主の充満した恵みと全き忍耐が現される機会となる。主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われた。私たちが弱い時にこそ、私たちは強いのである。

 するとモーセは不信仰と不従順から、「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください」と申し上げた。不信仰は謙遜ではない。本当の謙遜は、自我を退け、神が与えてくださるものを受け取る。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着るのである。主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、あなたの兄、レビ人アロンがあなたの口の代わりとなると仰せられた。アロンにモーセの補助者としての役割が与えられた。モーセは神の代わりとなり、アロンはモーセの預言者となった。神はアロンと直接語ることなく、常にモーセを通して語られた。

 主は、モーセに神の杖を手に取り、しるしを行なわなければならないと命じられた。神が人を神の働きに召される時には、神ご自身が万端の準備を整えてくださる。だから、私たちは神からの召命に従えばいいのである。
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2月21日 【モーセの召命E】 出エジプト記4:18-31
 モーセが舅イテロに、エジプトにいる親類(イスラエルの民)の所へ行き、元気でいるかどうか見て来たいと言うと、イテロはモーセに「安心して行きなさい」と答えた。そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、手に神の杖(神がともにいてくださることのしるし)を持って、エジプトの地に帰った。主はモーセに、エジプトに帰ったら、パロの前で不思議をことごとく行なえと仰せられた。しかし、パロの心は、主権者である神の栄光が現されるためにかなくなにされる。かたくなになることは、人間の責任である。その時、主はモーセに、主の初子であるイスラエルと行かせ、主に仕えさせよ(主を礼拝させなさい)と、パロに言うように命じられた。

 旅の途中、一夜明かす場所で、主はモーセを殺そうとされた。肉の働きに対する死の宣告であった。その時、チッポラは自分の息子が割礼を受けていなかったために、神がモーセを殺そうとされたことを知って、すぐ息子に割礼を施し、夫モーセのいのちを守った。そこで、主はやっとモーセを赦された。

 割礼は神とイスラエルの間の契約のしるしであり、無割礼の男は断ち切られなければならなかった。モーセが神の働きをしようとしているのに、彼が大切な割礼をおろそかにしていたため、神の怒りを受けた。チッポラの反対があったからかもしれない。

 彼女の行為が神のご命令に従ったという意味で、神の怒りをしずめた。この切迫した局面において、モーセもチッポラも、主に従う決心をした。子供に割礼が施されると、神はモーセがエジプトへ行くことを許された。全て神の御旨にかなった行為をするように警告されたのである。「肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」Tペテロ4:1-2

 チッポラは息子の血によって、夫のいのちを贖った。教会とキリストの関係の土台は、血である。私たちはバプテスマと信仰によって、キリストの死と復活に与る者とされた。

 モーセとアロンはエジプトへ行って、イスラエルの長老たちを皆集め、神の言葉を告げ、しるしを行なった。御言葉に伴うしるしは、御言葉を確かなものとする。民は信じた(アーメンした)。御心に従う決意をしたのである。信仰は従順を生み出す。神が働かれる時、全ての障害は除かれる。神の働きがなされる時には、無計画ではなく、順序を踏み、指導者たちに話してから実行される。主は出エジプトの大業を計画し、実行される方である。
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2月28日 【わたしの民を行かせよ@】 出エジプト記4:1-9
 その後、モーセとアロンはパロのところに行き、「わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ(荒野でわたしを礼拝させなさい)」というイスラエルの神、主の言葉を語った。礼拝は、奴隷のくびきからの解放、パロと縁を切ることは、神と出発することであった。

 パロは、「私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない」と答えた。古代エジプトにおいて、パロは神そのものであった。パロは生けるまことの神を恐れていなかったので、傲慢で無関心な態度をとった。パロの命令は絶対であり、彼が他のものに従うことなどありえないことだった。パロには、神の命令に従う意志など毛頭なかった。それは、無知の結果としての不従順であった。神を知らなければ、神に対する服従はありえない。従順とは、常に知識に基づいている。パロの関心は、イスラエルの民を奴隷として使い、自分の威厳を表す事業を行なうことだった。彼は、見えるものの建設にしか関心がなかった。礼拝は無益だというのは、悪魔の考えである。

 するとモーセとアロンは言った。「荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」

 結果は逆になった。パロはヘブル人にもっと厳しい重労働と長時間労働を課して、彼らの数を減らそうとした。パロは民の酷使者と人夫がしらに、ヘブル人が他のことを考えたりする暇がないように、もっとこき使うように命じた。仕事をきつくすれば、彼らが偽りの言葉に心を寄せることはなくなると考えたからである。パロはヘブル人が仕事に心をとめ、偽りの言葉に耳を貸さないように、労働量を減らさないで、しかも仕事を一つ増やし、ますます過酷な労働を強いた。神の啓示が、パロの考えでは偽りの言葉だったのである。神のことは、きよめられていない人の心にとっては、常に偽り、無益、無意味である。
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