エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2010年1月
1月3日 【神のしもべとしての訓練@】 出エジプト記2:11-14
 モーセが大人になった時(40才頃)、彼は重労働に服している同胞のイスラエル人を、顧みる心を起こした。彼は、同胞の一人がエジプト人に打たれているのを見て、ヘブル人としての民族感情に燃え、辺りに誰もいないのを見届けると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に隠した。モーセの正義感と愛国心は良かったが、このことは、神の御心にかなった時と方法ではなかった。神の時が来る前に始められた働きだったのである。

 翌日、二人のヘブルが争っているので、悪い方に注意すると、「誰があなたを、私たちの支配者や裁判官にしたのか。昨日エジプト人を殺したように、私も殺す気か」と言われた。モーセが示した愛国的な勇気が、自分の民から受け入れられていなかった。性急な方法、短気な処置は、神からも人からも受け入れられない。

 モーセは、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていたが、彼らは理解しなかった。そこでモーセは恐れて、きっとエジプト人を殺したことが知れたのだと思い、ミデヤンの地に逃げた。

 神のしもべは、人間の怒りを恐れず、人間の好意を求めない。神の御前に仕え、神からの召命に生きるのである。人を恐れると罠にかかる。しかし主に信頼する者は守られる。愛には恐れがない。全き愛は恐れを締め出す。

 イエスは、神の御心を喜ばせた。イエスは、彼を遣わされた方の御心を行ない、その御業を成し遂げることを食物とし、喜びとした。イエスが天から下って来られたのは、父の御心を行なうためであった。主人の喜びとなり、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言われる、唯一の神からの栄誉を求めよう。また、人々の前で光(良い行ない)を輝かせ、天におられる父が崇められるようにしよう。
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1月10日 【神のしもべとしての訓練A】 出エジプト記2:15-22
 パロはモーセがエジプト人を殺したことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのもとから逃れ、ミデヤンの地に住んだ。ミデヤンは、アブラハムの後妻ケトラが産んだ子であり、ミデヤン人はミデヤンの子孫である。モーセの遠縁の親族にあたる。モーセは、その部族の中心地である井戸の傍らに座っていた。

 ミデヤンの祭司レウエル(神の友、神の羊飼いの意、またの名をイテロ)に、七人の娘がいた。祭司は、宗教的な地位であると同時に、部族の中での指導的な立場を意味したと思われる。その娘たちが、父の羊の群れに水を飲ませるのを、羊飼いたちが邪魔した。すると、モーセは立ち上がり、彼女たちを羊飼いたちの手から救い出し、水を汲み、その羊の群れに飲ませてやった。

 小さな親切が、大きな報いをもたらす。モーセは、レウエルの所に食事に招かれ、彼らの好意を受け、思い切って(始める、願う、あえての意)、この人のもとにとどまる決意をした。そこでレウエルは、娘のチッポラをモーセと結婚させた。チッポラは男の子を産み、モーセはその子をゲルショム(ゲル:寄留者/シャーム:そこに、あそこでは)と名づけた。「私は外国にいる寄留者だ」と言ったからである。この言葉には、「私はエジプトでは寄留者だった」という意味もある。

 こうして、神の御手の中で、モーセの救い手としての職務への準備がなされていった。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」ルカ16:10
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1月17日 【モーセの召命@】 出エジプト記2:23-3:1
 それから何年も経って、エジプトの王は死んだ。王が代わっても、イスラエル人への圧迫は続き、彼らの苦しみはいよいよ増し加わった。彼らは苦役のために、うめき苦しみ、助けを叫び求めていた。その叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚えておられた。神はイスラエル人をご覧になり、御心に留められた。神は常にご自分の民の祈りを聞かれ、契約を覚えておられる方である。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」詩篇50:15

 エジプトの王が死んだことは、亡命者モーセが帰国するのに良いチャンスであった。イスラエルの指導者モーセは、
神の霊的訓練期間を終えて、いよいよ歴史の舞台へと登場する。モーセは、ミデヤンの荒野での羊飼いとしての40年において、謙遜、自己の無力、忍耐、円熟味、神の御旨に従う意志力、霊的な指導力を養われた。イエス・キリストの人から隠れて過ごされた年数は、公に過ごされた年月の十倍に等しい。神とだけと時を過ごすことなしに、誰も神に仕えることはできない。秘かな訓練と矯正が必要である。神のしもべの性格には、安定さ、堅実さ、深さがある。陶器師なる神が、器を備えられる。

 モーセは、舅イテロの羊を飼っていた。彼は、その群れを荒野の西側(神の臨在と静けさと光だけがある場所)に追って行き、神の山ホレブ(シナイ山)にやって来た。彼はそこで、神の顕現と召命に与る。モーセは重大な使命を与えらて、出エジプトの大業を果たすことになる。
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1月24日 【モーセの召命A】 出エジプト記3:2-10
 神の顕現は、燃え上がっている柴の火の炎と、その中の主の使いと神の声によって現わされ、聖い神の臨在が示された。柴は火で燃えていたのに、焼け尽きなかった。この神による現象は、エジプトの炉の中にいるイスラエルが、主なる神がともにおられるので、焼け尽きなかったことを表わす。そこには、力と安全、勝利と平安があった。「私たちの神は焼き尽くす火です。」へブル12:29 神は柴の中からモーセを呼ばれた。彼は「はい。ここにおります」と、「神様、何なりとお命じください。私は従う用意がございます」という信仰的な態度で答えた。神は仰せられた。「あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」古代東方では、聖所に入る時、畏敬の念を表わし、靴を脱いだ。また、靴を脱ぐことは、自分がしもべであることを受け入れることを表わす。しもべは普通、靴を履いていなかったからである。

 主は、エジプトにいるイスラエルの民の悩みを確かに見、酷使する者たちにこき使わわれ助けを求める彼らの叫びを聞き、彼らの痛みを知っておられた。主が下って来られたのは、彼らをエジプトの手から救い出し、広い良い地、乳と蜜の流れる地(家畜を養う牧草と蜜蜂が好む草花や樹木が豊富にある地、農産物?果物?が豊かにとれる地)に上らせるためであった。

 主はモーセに仰せられた。「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」「今」とは、彼が荒野で十分に訓練を受けた後のことだった。この命令は、神の真の権威と力による、神の使徒としての派遣、預言者としての任命であった。こうして、イスラエルの救い手としてのモーセの権威は確立したのである。
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1月31日 【モーセの召命B】 出エジプト記3:11-20
 モーセは神に、「私はいったい何者なのでしょう」と申し上げた。「とても、そんなことはできません」という、自分の無力を知る者の言葉であった。それに対して神は、「わたしは必ずあなたとともにいる」と仰せられた。このことが、モーセのためのしるしであった。モーセは、イスラエルの民をエジプトから導き出し、この山で神に仕えるようにするという大任を委ねられた。

 モーセはイスラエル人に伝えるために神に御名を尋ねた。名は本性を表わす。神は、「わたしは『わたしはある』という者である」と仰せられた。「わたしはある」という御名は、あらゆる存在の根源、永遠の実在者、神の唯一性を表わす。また、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名(記憶)である」と仰せられた。「アブラハムの神」というのは、アブラハムに約束したことを、今も覚えておられる生ける神を意味する。「主(ヘブル語ヤーウェ」には、彼はある、契約を結ばれ守られる恵み深い救い主の神、創造的な御業を行なわれる主権者といった意味がある。

 モーセは、イスラエル人の長老(指導者)たちを集めて、神のご計画を語った後、彼らと一緒にエジプトの王のところに行き、私たちに荒野へ三日の道程の旅をさせ、私たちの神、主にいけにえ(犠牲、礼拝)をささげさせるように言えと、神から命じられた。「三日の道程」は、エジプト人は牛などを神聖視していたので、動物犠牲をささげることが、彼らのつまずきにならないようにするためだった。古代世界では、神に犠牲をささげることは、一般的な慣習であり、犠牲は、ささげる人と神との関係の回復、維持、祝うための方法であった。

 しかし、エジプトの王は強いられなければ、イスラエルの民を行かせないのを、主はよく知っておられた。主は、御手によるあらゆる不思議(驚くべき業)で、エジプトを打とうと仰せられた。こうした後で、エジプトの王は、イスラエルの民を去らせるからである。「不思議」は、ヤーウェの臨在のしるしであり、自然法を創造された神が、それを驚くべき方法をもってお用いになることである。 
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