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| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
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| 2009年4月 |
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| 4月5日 |
【シェケムでの出来事@】 創世記33:12-34:12 |
ヤコブは兄エサウに「セイルへ行く」と言って別れたが、その後、ヤコブがエサウのいたセイルへ行ったという記録はない。特にエサウをだますつもりはなく、断りを和らげる発言をしたと思われる。
ヤコブはスコテへ移って行き、自分のために家を建て、少なくとも数年を過ごした。それから、カナンの中心に位置するシェケムの町に無事に着いた。シェケムは、アブラハムがカナンの地に入って最初に祭壇を築いた場所である。ヤコブは天幕を張った野の一部を買い取り、そこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエル(神はイスラエルの神)と名づけた。ヨシュアの時代、そこにエジプトから携え上ったヨセフの骨が葬られ、そこはヨセフ族の相続地となった。
レアがヤコブに産んだ娘ディナが、シェケムの娘たちを尋ねようとして出かけた。土地の娘たちとの交わりが、そもそもの事の起こりであった。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としている(ヤコブ4:4)。そして、道徳的に低い異教徒たちの感化を受けることになる。
シェケムの族長のヒビ人ハモルの子シェケムが、ディナを見て捕え、これと寝て辱めた。そして、この娘を愛し、妻にしたいと父に願った。カナン人としてのシェケムは、自らの行動に別に問題を感じていなかったのかもしれない。
ヤコブの息子たちは、これを聞いて心を痛め、ひどく怒った。この事は、イスラエルの中で恥ずべき(道ならぬ)こと、許せない(してはならない)ことであった。イスラエルでは土地の民とは違って、性道徳が厳格だった。
ハモルとシェケムは、ヤコブと話し合うために出て来た。彼らはシェケムの暴行を少しも悪いと思っておらず、謝罪の言葉や釈明を求められるとは思わなかったらしい。むしろ、暴行したことを既成の事実として、結婚の前提にした。ハモルは実質的な結婚による同盟関係による安定策を提案し、ヤコブと息子たちに定住して不動産を持ち、共同体をつくるように勧めた。 |
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| 4月12日 |
【シェケムでの出来事A】 創世記34:13-31 |
異邦人との結婚は、アブラハム以来の選民としての特異な立場を一挙に崩壊させることだった。ヤコブの息子たちは、悪巧みをたくらみ、シェケムとその父ハモルに偽って答えた。それは、「あなたがたの男子が皆割礼を受けるなら、互いの結婚を許し、私たちは一つの民となる」という、世との妥協案だった。欺きは罪である。
彼らは、割礼(アブラハムの子孫が神に選ばれた民であることを示す身体的なしるし)を欺きの材料にした。神との神聖な契約のしるしが、軽く扱われ、肉欲のために汚され、意味のない割礼となった。割礼を受ける受けないは大事なことではなく、大事なのは新しい創造、愛によって働く信仰、神の命令を守ることである。
シェケムは、ヤコブの娘ディナを愛し、土地の中心的人物だったので、ためらわずに(遅れず)このことを実行した。そして、町の門(生活の中心)に行き、人々に告げて言った。「あの人たちは私たちと友だちである。割礼を受ければ、互いに結婚し、一つの民となり、彼らの財産も得られる。」全ての男の市民は、それを聞き入れ、割礼を受けた。そして、彼らの貪欲は滅びにつながった。世と世の欲は滅び去る。しかし、神の御心を行なう者はいつまでもながらえる。
三日目になって、ちょうど彼らの傷が痛んでいる時、ディナの兄シメオンとレビが、剣を取って、難なくその町を襲い、全ての男子を殺し、シェケムの家からディナを連れ出して行った。ヤコブの子は、盗賊のように町中を略奪した。これらは、卑劣で残忍な報復行為であり、神を証しする民のなすべきことではない。復讐は報いは、主のものである。神の怒りに任せ、人にはあわれみの心をもとう。
ヤコブは、シメオンとレビの暴挙を戒めるのに、道徳的な観点からではなく、「根絶やしにされる」という功利的な観点から述べた。子供を戒めないことは罪である。
絶滅してしまうことはまた、神の約束の相続者としての責任の根本に触れる重大な事実でもあった。ヤコブは、自分自身を裁き、悔い改めなかった。神の原則を常日頃から働かせていなかったのである。
シメオンとレビにとって、性犯罪は厳格な意味をもっていた。しかし、彼らは、欺き、殺人、盗みなどの罪については盲目であった。そして、彼らの行ないは、彼らの部族の将来に呪いを招くことになった。 |
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| 4月19日 |
【ぶどうをたわわに実らせよう】 ヨハネ15:5-8 |
ヘブル11:1には、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。これは、望んでいる事がらがあることが必要です。エクレシア桜には、「世田谷にダビデの幕屋を!」という明確な望みがあります。信仰によるこの望みは、必ず実現します。
イエス様は、しばしば身近なたとえで真理を語られました。今日の聖書箇所では、神様を農夫、イエス様をぶどうの木、私たちをぶどうの枝として語られました。農夫がぶどうを育てる目的は、高く売れる良いぶどうの実を収穫するためです。そのために農夫は何をするかというと、良い手入れをします。刈り込み(剪定)、そして消毒や袋かぶせをします。
さて、ぶどうの枝が枝であるためには、@木にとどまっていること(つながっていること)、A多くの実を結ぶこと(豊かな実を結ぶこと)がなければなりません。木にとどまっていなければ、もはや実を実らせることはできません。木にとどまっていると、農夫である神様が更に手入れをして、豊かな実を実らせてくださいます。刈り込み(時に試練困難と感じる)は、私たちにとって良いことなのです。
木にとどまっているとは、私たちにとってどういうことでしょうか? それは、イエス様につながり、イエス様の中に入り込んでいることです。傍観者ではなく共生者です。その人には、イエス様も入り込んでいてくださるのです。ですから、何でもイエス様の名によって祈る時、全能なるイエス様がともにおられて働いてくださるので、祈りが成就するのです。私たちは祈りによる奇跡を、確かに体験することができるのです。
ぶどうの実は御霊の実と関係づけられます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。イエス様によって、多くの実を結ぶようになります。それを見た人々は、何と豊かな実だと感嘆し、何と素晴らしい『木と農夫』だと、すなわち、何と素晴らしい『イエス様と神様』だと、真の神様に栄光をお返しするのです。私たちを見て、人々は神様を見るのです。イエス様にとどまることによって、奇跡の人になりましょう。 |
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| 4月26日 |
【べテル(神の家)の神@】 創世記35:1-8 |
神はヤコブに、べテルに上り、かつて兄エサウから逃れていた時、現われた神のために祭壇を築くように仰せられた。ヤコブは、苦難の日に答え、いつもともにおられた神を思い起こされた。祭壇を築くことは、礼拝と献身を表わす。べテルこそ、ヤコブの父母を離れての長い旅の出発点であり、終点(生まれ故郷への帰還)であった。
ヤコブは自分の家族と一緒にいる全ての者とに、異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えるように言った。神を礼拝し、神の臨在に近づこうとする人々は、二心のない忠誠をもち、まずきよくなる必要があった。彼らは、全ての異国の神々を手放し、罪の影響力から解放された。これらの罪が障害となり、スコテとシェケムで、ぐすぐず年月を過ごしたのである。
彼らは罪を悔い改め、主によってきよめられた。着物を着替えることは、主によって新しくされたことを示す。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、真実で正しい神は、その罪を赦し、御子イエスの血によって、全ての罪と悪からきよめてくださる。
ヤコブたちが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、人々はヤコブの子らのあとを追わなかった。それは、神の特別な加護による、聖なる恐れであった。ヤコブたちが神に従っている間、神は彼らを摂理の御手によって守っておられた。ヤコブの子らの失敗にも関わらず、全てを御旨によって導かれる神の恩寵の業である。
ヤコブはカナンの地にあるべテルに来て、祭壇を築き、その場所をエル・べテル(神の家の神)と呼んだ。神をただの個人的な(イスラエルの)神と言い表わすよりも、神の家(生ける神の教会)の神と言い表わす方が、神についてのより崇高な思想を与える。教会は、キリストの十字架によって隔ての壁を取り除かれた、ユダヤ人と異邦人からなる新しい一人の人である。 |
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