エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2009年3月
3月1日 【神の見えざる御手の中でE】 創世記31:22-42
 ヤコブが逃げたことを知ったラバンは、七日の道程を追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現われて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。(ヤコブ一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい。)」神の直接の干渉によって、破局は避けられ、神の計画が成就することになった。ラバンは、ヤコブが彼を欺き、彼の娘たちを連れて逃げ隠れてこっそり抜け出したことを、一方的に被害者の立場を強調して責めた。しかし、ラバンの本当の関心事は、彼の神々であるテラフィムが盗まれたことにあった。ヤコブは、愛妻ラケルがそれを盗んだとは知らずに、「その者を生かしておきません。」と死の宣告をしてしまう。ところが、ラケルはテラフィムをらくだの鞍の下に入れ、その上に座って、生理中なので立ち上がることができないとラバンに言ったので、それは見つからずにすんだ。古代、生理中の女性が座ったものは、全て汚れたものとされた。ラケルにテラフィムへの信仰はなかったと思われる。
 ヤコブは怒って、ラバンに反論した。ヤコブはこの二十年間、ラバンと一緒にいて仕えたが、ラバンはヤコブにとって、常識も法律も守ろうとしない過酷な主人であったと非難した。そして、ヤコブはラバンに言った。「もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜裁きをなさった(夢であなたに現われ、諭された)のです。」
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3月8日 【神の見えざる御手の中でF】 創世記31:43-32:8
 ヤコブに反論されたラバンは、良心の痛みもあったらしく、もはやヤコブに手出ししようとは思わなかった。そして、ヤコブと対等者同士の契約を結んだ。契約の証拠として、ヤコブは石を取り、それを記念碑として立て、自分の一族に石を集めさせ、石塚を作らせた。こうして彼らは、石塚のそばで契約の証印として食事をした。石塚はガルエデ(証しの塚)、またミツパ(見張りの塔)と呼ばれた。この記念碑は、ヤコブが妻たちを大切に扱うという証拠、また敵意をもって互いに侵入してはならない境界線となった。

 ラバンは、ヤコブが立てた石の柱を自分が立てたと言ったり、「どうかアブラハムの神、ナホルの神──彼らの父祖の神──が、われわれの間をさばかれますように。」と言ったりする言葉から、自己中心で、多神教的な考え方をもっていたことがわかる。アブラハムの父テラは、他の神々に仕えていたからである。しかし、ヤコブは父イサクの恐れる方にかけて誓い、山でいけにえをささげ、神を礼拝した。

 ヤコブが旅を続けていると(直訳:彼の道に進んだ時)、神の使いたちが彼に現われた(出会った、到達した)。この御使いの現われに、神の導きが示されている。ヤコブは彼らを見た時、「ここは神の陣営だ。」と言って、その所の名をマハナイム(二つの陣営)と呼んだ。それは、ヤコブを攻める者と戦う二組の軍隊だった。

 ヤコブはセイルの地、エドムの野にいる兄エサウの好意を得ようとして、前もって使者を送った。彼は使者に伝えさせる内容の中で、「私の主人エサウ、あなたのしもべヤコブ」という、普通の兄弟では使わない言葉を用い、低姿勢をとった。ヤコブが父の家に帰るためには、二十年前に彼を殺そうとしていたエサウとの和解が必要であった。

 しかし、彼はまず神に祈り、全てを神に委ねる前に、自分の計略を立てた。そして、帰って来た使者から、ヤコブを迎えにエサウが四百人を引き連れてやって来ると聞き、迎え撃ちにやって来るのだと早合点して、非常に恐れ、心配した。そこで、ヤコブはまた自分の計略を立て、宿営を二つに分け、一つだけでも難を逃れようとした。
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3月15日 【ペヌエル(神の御顔)の体験@】 創世記32:9-24
 ヤコブは神に祈った。ヤコブとともにおられ、彼を必ず幸せにし、彼の子孫を多くて数え切れない海の砂のようにすると仰せられた主に、ヤコブは「私はあたたがしもべに賜わった全ての恵みとまことを受けるに足りない者だ」と、へりくだって言った。

 ヤコブは自分の杖一本だけを持って、ヨルダン川を渡ったが、今は、二つの宿営を持つ程、神からの祝福によって、豊かな富を持つようになった。そしてヤコブは、どうかエサウの手から救い出され、命や財産を失わなくて済むようにと、神に助けを求めた。

 祈りの後、エサウとの和解を欲するヤコブは、エサウを怒りをなだめるために、五つの家畜の群れ(五百五十頭以上)の贈り物を選んだ。そして、家畜の贈り物が幾重にも続くという豊かさを印象づける心理的、劇的効果をねらった。策略家ヤコブの考えがよく表われている。

 しかし、真に人と人を和解させるのは、神の愛より出た謙遜と誠意である。それらは、神の御前に砕かれた魂より出てくる。

 ヤコブは、贈り物やしもべたちを先に行かせ、ヤボク(ヨルダン中流に注いでいるギルアデの川)の渡しを家族に渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。ヤコブは一人だけ後に残った。自分だけの安全を図ろうとしたのではない。絶対絶命の立場に立たされて、解消できない不安のために、切実な祈りの必要を感じたゆえ、ただ神とともに一人になりたかったのであろう。

 すると、御使いが夜明けまで彼と格闘した。それは、ヤコブの強烈な自我と、兄を欺いた罪の意識による良心の呵責からの解放を必要とする、神との祈りの格闘だった。ヤコブは神に敵対して争ったのである。この体験は、ヤコブの生涯の最大の転機となる出来事となった。
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3月22日 【ペヌエル(神の御顔)の体験A】 創世記32:25-32
 御使いは、ヤコブが余りにもしぶとく、肉の努力をやめようとしないのを見て、ついにヤコブのももの関節を打ったので、格闘しているうちに、ヤコブのももの関節が外れた。打たれたのは、霊的には彼の自我であった。

 ヤコブは神に打たれたことによって、十字架の死の宣告と力を受けた。ヤコブが神の御業に与るためには、生来の肉の力ではなく、神に与えられる力を味わう必要があり、神に打たれる必要があった。

 神の目的は、彼が何と哀れな、弱い、無価値な者であるかを彼に見させることであった。

 ヤコブは戦うこともどうすることもできない危機に直面し、この夜、生まれてはじめて自力によらない、神の約束による救いを学んだ。

 御使いは言った。「あなたの名は何というのか。」聖書では、またヘブル人にとって、名は実質を表わす。ヤコブは「押しのける者」という意味があり、今までの彼の人生を表わしていた。御使いは言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」

 イスラエルは「神は争われる」「神と戦う」「神が支配する」「神が守ってくださる人」「神の王子」「神から権威と地位を与えられた人」などの意味がある。ヤコブは、神との祈りの格闘において勝利を得て、全く神に頼る者となった。御使いはまたヤコブに「これからは、人にも勝つようになる。」と言った。

 神と真に出会うことによって、ヤコブは本質的に変えられた。そして、イスラエルは契約の民族の名となった。

 御使いはその場でヤコブを祝福した。そこでヤコブは、神の祝福の素晴らしさゆえに賛美を込めて、その所の名をペヌエル(神の御顔)と呼んだ。彼がペヌエルを通り過ぎた頃、太陽は彼の上に上った。主の名を恐れる人には、義の太陽が上り、主の栄光がその人の上に輝く。

 ヤコブは足を引きずって歩いていた。そのことは、神に取り扱われて砕かれたことを表わし、神のみに頼る心を起こさせる。

 主の臨在を知った人は、勝利者である。キリストの力は、その人の弱さのうちに完全に現われる。イエスの死を身に帯びる時、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるのである。
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3月29日 【ペヌエル(神の御顔)の体験B】 創世記33:1-11
 ヤコブが目を上げて見ると、エサウが四百人を引き連れてやって来ていた。信仰によって変えられたヤコブには、もう恐れはなかった。ヤコブは家族の先頭に立ち、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをして、和解を求める者の誠実と敬意と謙遜と完全な服従を示し、へりくだりの姿勢をとった。しかし尚、妻たちや子供たちを配置した順序は彼らしいやり方で、最愛の妻ラケルとその息子ヨセフをより安全な後方に置いた。

 エサウはヤコブを迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。そこに、悔い改める者への歓迎が表わされていた。エサウを「私の主」と言うヤコブに対し、エサウはヤコブに「弟よ」と普通の言葉で語った。エサウが欲していたのは、ヤコブの砕かれた魂だったのである。

 罪の赦しと温かく迎えられたゆえに、ヤコブはエサウに「あなたの顔を見ることは、神の御顔を見るようだ」と言った。ペヌエルにおける神の救いが、エサウの穏やかな態度において、現実のものとして体験された。神との平和が、エサウとの和解を生み出した。それは、神の直接の御業であった。

 ヤコブのエサウへの贈り物は、かつての怒りをなだめるための物ではなく、感謝の贈り物となった。エサウもまた繁栄していたが、ヤコブがしきりに勧めたので、エサウはヤコブから祝いの品(祝福)を受け取った。そのことは、兄の愛への返礼であり、弟との和解への合意であった。

 神の祝福は、隣人を祝福するためにある。神の御顔を慕い求め、天にある全ての霊的祝福を受けて、世界に流し出そう。 
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