エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2008年12月
12月7日 【約束の地にある祝福@】 創世記26:1-16
 この国にききんがあり、イサクはゲラルのペリシテ人の王アビメレクの所に行った。主はイサクに現われて仰せられた。「エジプトには下るな。あなたはこの地に、寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。」

 エジプトは、世を表わしている。この地は、約束の地である。イサクは、約束の地に対して、神からの所有権をもちつつも、地上の所有権がない、アブラハムと同じ状況だった。そして、この地にとどまることが、祝福の前提であった。重大な試練の時の祝福の約束は、信仰の挑戦である。イサクへの祝福の継承は、父であるアブラハムが神の言葉に素直に従ったゆえであった。 

 イサクは自己保身のために人を恐れて、妻のリベカを妹だと言って偽ったが、神の摂理的な干渉によって、アビメレクに夫婦であることがわかり難を逃れた。アビメレクが罪について敏感な、高潔な王だったからである。父と子が同じ場所で、同じ罪を繰り返した。しかし、夫婦であるという事実と、神の選びの真実と、神の恵みが彼らを救った。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)

 神の祝福の約束通り、イサクはその地に滞在して種を蒔き、百倍の収穫を見た。彼は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。ペリシテ人は妬んで、アブラハムのしもべたちが掘った全ての井戸に土を満たしてふさぎ、いやがらせをした。イサクの繁栄への妬みは、その生活を支える水の供給源へ目を向けさせた。いのちの泉が湧く聖霊の働きを、人間が妨害してはならないことを教えられる。

 当時、井戸を掘るのは大変なことで、井戸は生活の中心だった。そこには、定着民と遊牧民、神の約束による相続者であることとこの世では寄留者という、二重の立場の微妙な関係があった。そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」
メッセージのトップへ戻る
12月14日 【約束の地にある祝福A】 創世記26:17-35
 イサクは寄留者としての自覚を失わず、ゲラルの王アビメレクから出て行くように言われると、そこを去って、ゲラルの谷間に天幕を移した。イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を再び掘り、父がつけていた名と同じ名をつけた。井戸に名をつけることは、所有権の主張になった。

 イサクのしもべたちが谷間を掘っている時、湧き水の出る井戸を見つけた。ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸をエセク(争い)と呼んだ。イサクのしもべたちが掘ったもう一つの井戸についても彼らが争ったので、その名をシテナ(敵意)と呼んだ。

 イサクはそこから移って、他の井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテ(広々とした所)と呼んで、彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地で増えるようにしてくださった。」

  広い所に置かれ、囲みを解かれることは、旧約聖書における救いの概念の根本であった。救いは成長の条件であり、広い所は発展可能の場である。イサクは主に信頼することの確かな結果を認めた。イサクは争いを好まない人で、争いが起こる度に身を引き、新しい場所に移り、必要な井戸のために、何度でも同じ努力を繰り返した。一歩退いて人に譲り、信仰によって譲歩した。それは、従順で平和を愛するイサクの勇気であり、勝利に向かっての後退だった。悪に負けず、かえって、善をもって悪に打ち勝ったのである。

 イサクは、ペリシテ人の地からベエル・シェバに上った。ベエル・シェバは、かつてアブラハムがアビメレクと契約を結んだ後、主の御名によって祈った場所である。主はその夜、イサクに現われて、「恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。」と仰せられた。神の臨在の祝福に与ったイサクは、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈り、天幕を張った。

 その頃、アビメレクは参謀のアフザテと将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。彼らは、主がイサクとともにおられ、イサクが祝福されているのをはっきり見て、イサクと平和条約を結びたいと言った。イサクは、彼らのために契約の食事を催した。翌朝早く、彼らは互いに契約を結び、アビメレクたちは平和のうちに、イサクのところから去って行った。

 ちょうどその日、イサクのしもべたちは、井戸を掘り当て、「私どもは水を見つけました。」と言った。それは、必要を満たされる神の是認のしるしであった。世の人々に影響を与える真の方法は、神との正しい関係にあり、礼拝者としての立場を取って、人々と平和を保ちつつも、彼らと分離していることある。

 エサウは40才になって、ヘテ人の娘を2人妻にめとった。彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。このことは、エサウがイサクの世継ぎにふさわしくない人物であることを示している。彼は異教徒と平気で一夫多妻の結婚をした。それは、彼の霊的識別力の乏しさと、寄留者としての生き方の喪失を意味した。

 彼は、結婚を通して神の栄光を現わし、信仰深い両親を喜ばせようとしなかった。彼にとって結婚は、自分の欲と幸福のためにすぎない私事だったのである。神の民の独自性の維持は、使命である。
メッセージのトップへ戻る
12月21日 【神の祝福の継承@】 創世記27:1-13
 イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなった時、長男のエサウを呼び寄せ、祝福しようとした。健康が衰え、死を予期したゆえであろう。しかし、イサクはこの時(およそ137才)から、尚43年生きた。ヤコブはこの時、およそ77才である。

 イサクは、「一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」という神の定めの預言があり、エサウが一杯の食物と引き替えに長子の権利を売ったり、異教徒の妻を二人もめとったのに、エサウの猟の獲物を好んで、おいしい料理のために、神のご計画とは正反対に、エサウに長子の権利の祝福を与えようとした。神の御心に対する無知と不徹底さゆえである。イサクはまた、そのような重要なことについて、妻リベカと相談しなかった。そこには、夫婦の不一致とそれぞれの子供への偏愛があった。

 そのことを聞いていた妻のリベカは、ヤコブと一緒に視力の衰えているイサクを欺く計画を立てた。アブラハム契約の長子の権利のヤコブへの相続は、神の約束と選びであったが、手段が正しくなかった。リベカは、夫イサクを神の約束に堅く立たせ、神に委ねればよかった。リベカとヤコブには、神が約束を実行されるのを静かに待つという、アブラハムの忍耐の信仰がなかった。神の祝福は、純粋に信仰と従順によって与えられる。イエスは、ご自身の目的をご自分で達成しようとはされず、全く神の御心のままにご自身を委ねられた。

 ヤコブはその後の人生で、罪の報いとして多くの苦しみをなめた。リベカの母性愛は、盲目的な肉の愛であった。イエスは、「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と言われた。神を愛する者は、従うべきことをわきまえる知恵と勇気が必要である。
メッセージのトップへ戻る
12月28日 【神の祝福の継承A】 創世記27:14-33
 ヤコブは、父イサクの祝福を得るために、視力が衰えた父を欺き、兄エサウのふりをし、主の御名まで用いて、何度も嘘をついた。イサクは、ヤコブをエサウだと思って、祝福して言った。「神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。…」 それは、農業上の祝福と政治上の祝福であった。

 リベカとヤコブがイサクを欺き、イサクがヤコブをエサウと取り違えたにも関わらず、尚この祝福が有効であるのは、神がご自分の御言葉を成就されるからである。神の御前での祝福は、神の選民にとって特別重要な意味をもっていた。特に、遺言の性格をもつ祝福は、特別有効で、変更不可能とされていた。神は全てを摂理的に支配され、人々の様々な罪をも益として働かせ、ご自身の御心を実現される。この祝福は、神の恵みによるアブラハム契約の継承だった。「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」ローマ9:16 

 イサクは、自分が祝福したのがエサウではなく、ヤコブだったことを知り、激しく身震いした。それは、エサウを祝福しようとして、神に逆らっていたことの強烈な自覚ゆえの身震いであった。イサクは、個人的な好みによって、神からの権威を誤用してきたことを自覚し、この悲劇的な出来事の原因が、自分の罪にあることを知った。イサクはここで、神の意志だけがなることと、神を欺くことはできないことを知ったのである。
メッセージのトップへ戻る