エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2008年10月
10月5日 【神の約束の成就A】 創世記21:9-34
 イサクの乳離れの日、サラは、エジプトの女奴隷ハガルの子イシュマエルがイサクに悪意のある態度を示しているのを見た。それでアブラハムにハガルとイシュマエルを追い出すように頼んだ。イシュマエルがイサクと一緒に跡取りになるべきではないからである。

 このことは比喩であり、ハガルはシナイ山で与えられた律法の奴隷であり、イシュマエルは肉によって生まれた奴隷の女の子供である。サラは信仰によって救われる新しい契約の自由の女であり、上にあるエルサレムに属し、イサクは約束の御霊によって生まれた自由の女の子供である。

 人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨て、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された新しい人キリストを身に着るべきことが教えられている。

 アブラハムは、イシュマエルに関することで非常に悩み苦しんだ。すると、神はアブラハムに彼らのことで悩んではならない、サラの言うとおりにしなさい、イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれるからである、しかしイシュマエルもあなたの子だから一つの国民としようと仰せられた。

 アブラハムは、歴史における神の目的を受け入れた。私たちの思い煩いを一切神に委ねるように命じられている。神が私たちのことを心配してくださるからである。

 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、神に感謝をもって祈りと願いをささげるなら、人の全ての考えにまさる神の平安が、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守る。

 アブラハムに送り出されたハガルとイシュマエルは、ベエル・シェバ(誓いの井戸の意)の荒野をさ迷い歩き、皮袋の水が尽きた時、声をあげて泣いた。神は少年の声を聞かれ(イシュマエル:神は聞かれるの意)、御使いを通してハガルに「わたしはあの子を大いなる国民とする」と言われ、彼女の目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。

 水は少年にとって、再生の賜物となった。神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。彼の母は、異教世界のエジプトから彼の妻を迎え、イシュマエルは約束の系列から遠のくことになった。
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10月12日 【主の山の上には備えがある@】 創世記22:1-5
 神は、アブラハムの人生が全てあらゆる面でうまくいっている時、彼の信仰の真実さを試す試練に会わせられた。信仰は、試みられた時に働く。

 契約の神による試練によって、アブラハムは信仰の立証をさせられた。契約のゆえに、神の民は、神の無限の恩寵の受領者であるだけではなく、神の意志の執行者なのである。試練の時、神に信頼して従順に従うことによって、神は栄光を受けられ、私たちは祝福を受ける。

 神が、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。彼は、神の御前に正しいあり方をし、神の御声に従う心の備えができていた。その試練とは、アブラハムの愛するひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行き、山の上で、全焼のいけにえとしてイサクを神にささげよという内容だった。

 神の約束に不可欠な要となるイサクをささげることは、神への無条件の信仰の従順を意味した。何ものも自分の私物とせず、全てを神にささげる生活である。モリヤの語源は神の顕現であり、後に、このモリヤ山上で、エルサレム神殿が建設され、イエス・キリストが十字架による罪の贖いをされた。

 全焼のいけにえは、神になだめの香りをささげるために、牛または羊を殺して、全部を焼くささげ物である。神を礼拝し、ささげる人と神との関係を回復、維持、或いは祝うための方法であった。それは、献身を意味した。しかし、人身をいけにえとすることは、異邦宗教の習わしであって、律法で厳しく禁じられた。

 アブラハムは翌朝早く、早速準備に取り掛かり、二人の若い者とイサクを連れて、礼拝に出かけて行った。ベエル・シェバからエルサレムまで、歩いて三日程の道程である。三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と神の約束に基づく告白をした。
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10月19日 【主の山の上には備えがあるA】 創世記22:6-12
 アブラハムは全焼のいけにえのための薪を取り、イサクに負わせた。その姿は、自ら十字架を負われたキリストを想起させる。

 全焼のいけにえの羊はどこにあるのかと尋ねるイサクに、アブラハムは、「神ご自身が全焼のいけにえを備えてくださるのだ」と答えた。その答えは、雄羊の出現の予知ではなく、イサクを全焼のいけにえとする神の意志への承認であった。二人の間には、そのことについて、簡単に口に出すことを許さない厳粛なものがあった。

 アブラハムがイサクを縛り、祭壇のたきぎの上に置いたのは、明らかに父子の合意の上であった。神の声を聞いた父に対するイサクの信頼と従順を伺える。イサクの神に対する信仰もまた偉大であった。神の契約の中で生まれ、育てられた結果である。

 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろう(殺そう)とした。それは、アブラハムの信仰生活の頂点であり、彼の生涯のクライマックスであった。約束を果たされる神への全き信頼が表わされ、アブラハムの信仰の本領が、行ないによって、神と人の前に証明された。

 その時、主の使いが天からアブラハムを呼び、主の仰せを告げた。アブラハムは、「はい。ここにおります。」と答えた。そのような時にも、彼には神の御声に従う心の備えができていたのである。信仰の従順にあっては、いかなる瞬間にも、神の語りかけに耳が開かれている。

 主はアブラハムに、イサクに手を下してはならない。今、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは自分のひとり子さえ惜しまないで、わたしにささげたと仰せられた。アブラハムは、何一つ自分の所有として残すことなく、大事な最愛のひとり子のいのちさえも、神のためにささげるという、全く明瞭な証拠によって、神を恐れることを表明した。神を恐れることとは、従順そのものの心の態度であり、神を敬い、御旨を行なうことである。

 アブラハムは、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えたのである。彼はイサクを祭壇にささげた時、行ないによって義と認められ、神の友と呼ばれるようになった。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)という神の全人的な痛みと、キリストを復活させた神の全能の力に、アブラハムは参与させられたのである。
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10月26日 【主の山の上には備えがあるB】 創世記22:13-24
 アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶに引っ掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を取り、イサクの代わりに全焼のいけにえとしてささげた。それは、神が備える犠牲の代償の死であり、やがて来たるイエス・キリストの十字架の贖いを表わしていた。

 イサクは代償の死によって救われる存在であり、イサクが死んでも贖罪にはならず、人を救えない。アブラハムは、人の死にさえ妨げられない神の約束の確かさを知った。それでアブラハムは、そのモリヤ(語源:神の顕現)の山の上をヤーウェ・イルエ(主が備えてくださる)と名づけた。主は見ておられ、全ての必要を備えてくださる。

 主の使いが、再び天からアブラハムを呼んで仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 町の城門を勝ち取ることは、町全体を占領することに等しい。門は町を支配するための要点である。アブラハムの子孫は、町を占領し、支配する。アブラハムの従順によって、神の約束がますます確かなものとされた。

 アブラハムは神の信任を得た。神の御声に素直に聞き従い、神のために惜しまずささげる人は、大いに祝福され、繁栄し、勝利する。

 アブラハムに倣って、神の約束と誓いによって力強い励ましを受け、信仰と忍耐によって約束のものを相続し、安全で確かな錨の役を果たす望みによって幕の内側に入ろう。イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデク(義の王の意)の位に等しい大祭司となられた。
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