エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2008年8月
8月3日 【御使いによる主の現われ@】 創世記18:1-8
 主は、アブラハムが天幕に住んでいたマムレの樫の木の側で、3人の人のかたちをした御使いとして現われた。そのうちの1人は、主であった。主は、アブラハムとサラの信仰を強めるために来られたのである。

 アブラハムは日の暑い頃、天幕の入口に座っていたが、目を上げて見ると、突然、3人の人が彼に向かって立っていた(招き入れられるのを待つ姿勢)。彼は見るなり、走って行き、地にひれ伏して礼をした(礼儀正しさのゆえ)。

 そして、「ご主人(お客様に当たる、人への敬意をもっての呼び方)」と呼びかけ、自分を彼らのしもべとして、もてなしをさせてくださるように、お願いした。アブラハムは、彼らが主と御使いだとは知らなかったが、旅人をもてなすことは、昔も今も、神に喜ばれる美徳である。旅人をもてなすことを忘れてはならない。人との出会いには、大きな祝福がある。

 アブラハムは、彼らに「少しの食べ物で、元気を取り戻して(心を支えて、強くして)ください」と言ったが、できる限り、最高のもてなしをした。アブラハムはサラの所に急いで戻って、早く、3セア(約36リットル)の上等の小麦粉で、パン菓子を作るように言った。そして、牛の所に走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を取り、若い者が手早くそれを料理した。共同体全体で、旅人に仕えていたのである。

 アブラハムは、3人の人に食事を供え、給仕した。アブラハムは、旅人との出会いにおける神の摂理と、自らの責任を自覚していた。彼の速やかな従順は、神の恵みの結果であった。イエスは、彼の弟子を受け入れる者は、彼を受け入れ、また、天の父なる神を受け入れるのだと言われた。使者を受け入れることは、その主人を受け入れることだからである。

 また、彼の弟子だというので、小さい者の一人に、水一杯でも飲ませるなら、決して報いに漏れることはないと言われた。主は、イエスの兄弟(神の家族)へのわずかなもてなしや親切を覚えていてくださり、祝福し、御国を継がせてくださるのである。
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8月10日 【御使いによる主の現われA】 創世記18:9-15
 三人の人は、アブラハムの妻サラの名前を知っていた。その中の一人であった主が、アブラハムに仰せられた。「来年の今頃、必ずあなたのところに戻って来る。その時、サラには、男の子ができている。」。それは、約束が現実にされることによって知る、神の臨在の確認である。

 アブラハムとサラは、老人になっており、サラは既に更年期を過ぎて受胎能力が全くなくなっていた。それでサラは、心の中であり得ないことゆえに苦笑して(不信仰と疑いが口を満たす笑い)つぶやいた。「自分は年をとり、もはや子供を授かる楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに。」

 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。」主は、心の中だけでの笑いと思いを知っておられる全知の方である。主は、全能の神の言葉を人間の可能性の範囲内で考える、サラの信仰の弱さを厳しく叱責された。

 それは、感覚的なものの考え方に頼るサラが、神の民の母となるための厳しい訓練であった。イエスもまた、信仰の薄い弟子たちを叱責された。イエスは言われた。「からし種ほどの信仰があったら、この山にここからあそこに移れと言えば移る。どんなことでも、あなたがたにできないことはない。」

 続けて主は、「主に不可能なことがあろうか。」と仰せられ、再度、来年のサラの出産を約束された。神にとって不可能なことは一つもない。神にとっては、全てが可能なのである。処女マリアが、聖霊によって、神の御子イエスを身ごもると、御使いに告げられた時、「本当に、私は主のはしためです。どうぞ御言葉どおりこの身になりますように。」と言ったように、主によって語られたことは、必ず実現すると信じきった人は幸いである。

 サラは、恐ろしかったので、「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。全く自明の嘘をついて、虚偽の中に逃げ込む不信の行動様式である。しかし主は、「いや、確かにあなたは笑った。」と仰せられ、再度サラに全てを知っておられるご自身を示された。そして、真実な主は、約束を実現し、サラの笑いを夢を見ている者のような、喜びの笑いに変えてくださったのである。
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8月17日 【全ての民の祈りの家】 創世記18:16-33
 アブラハムは礼を尽くして、ソドムを見下ろす方へ、三人の人を見送りに行き、彼らと一緒に歩いていた。主とともに歩む道は、祝福である。主はアブラハムに聞こえるような声で言われた。「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地の全ての国々は、彼によって祝福される。」

 アブラハムが神に選び出され、親しい交わりをもつようになったのは、彼が子孫に命じて主の道を守らせ、正義と公義を行なわせるため、主がアブラハムに約束されたことを、彼の上に成就するためであった。

 諸国民の祝福となるべき選ばれたアブラハムが、神の目的に用いられるために知らなければならないことがあった。今日救われた者も、神と人に仕えるために知るべきことがある。「まことに、神である主は、そのはかりごとをご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」

 ソドムとゴモラの罪は極めて重く、悪を訴える叫びは非常に大きかった。主は下って行かれ、その叫びどおりか確かめようとされた。二人の御使いはソドムの方へ進んで行き、アブラハムは主の御前に立っていた。高い視野の場所に立つと、とりなしの祈りをすることができる。

 アブラハムは、「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。」と謙遜に、また大胆に、何度も主にとりなした。アブラハムは全ての国々の祝福の基として、甥のロトが住むソドムの町のために、執拗に祈った。主は、ソドムの町に十人の正しい者を見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう、滅ぼすまいと仰せられた。

 主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれ、アブラハムは自分の家(天幕)へ帰って行った。アブラハムの家は、神への信仰の立場、祈りの家であった。

 キリストは十字架上で、とりなしの祈りをされた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」キリストは永遠に存在され、祭司の務めをもたれ、人々のためにとりなしをしておられる。「彼は多くの人の罪を負い、背いた人たちのためにとりなしをする。」キリストは神の裁きの前に立たされるている人間社会と、自らが深く関わられるのである。

 私たちは城壁の上の見張り人として、昼も夜も決して黙っていてはならない、全ての人のために、願い、祈り、とりなし、感謝をささげられるようにしなさいと命じられている。キリストの十字架の贖いのゆえに、私たちは大胆に神の恵みの御座に近づき、憐み、恵み、折にかなった助けを受けることができる。

 主の家は、全ての民の祈りの家と呼ばれる。主は私たちを、聖なる山に連れて行かれ、祈りの家で楽しませてくださるのである。
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8月24日 【世の滅びを免れる@】 創世記19:1-15
 アブラハムを訪れた三人のうちの二人の御使いは、夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門の所に座っていた。門の所は、当時の生活の中心であり、人々が集まって裁判や商取引などが行なわれていた。門の所に座るのは権力の場であり、ロトが高い有力な地位をもち、町の人々と調子を合わせた生活をしていたことがわかる。マムレの樫の木の側にある天幕の入口に座り、この世の外に住み、主のために祭壇を築いていたアブラハムとは対照的である。

 ロトはその二人の男性を丁重に迎え、彼の家に宿泊を勧めたが、彼らは広場(門のすぐ内側)で夜を過ごした方がいいと言った。もてなしに与ることは、その人との全面的交際を意味した。しかし、ロトはしきりに勧めて彼らを招き、食事をもてなした。

 彼らが床につかないうちに、全ての人々が町の隅々から来て、男色の罪の目的のために、ロトの家を取り囲んだ。ロトは神聖なもてなしの責任を果たすという自分の面子を立てるために、客を保護しようとして、自分の娘たちの貞操を犠牲にしようとした。娘を自分の利益を守るための単なる手段としか考えない道徳の低さゆえである。

 しかし、神の憐みと助けによって、事なきを得た。子供は、神から託されている尊いいのちである。また、悔い改めて子供のようにならない限り、決して天の御国には入れず、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人である。小さい者たちの一人でも見下げてはならない。彼らの天の御使いたちは、いつも天の父の御顔を見ているからである。

 二人の御使いがソドムを訪れたのは、神の裁きを行なうことと、アブラハムの祈りゆえにロトを救い出すためであった。主の救いは、ロトとのつながりのゆえに、ロトの身内の者にも提供された。そこでロトは出て行き、婿たちに告げたが、彼らには冗談のように思われ、真に受けなかった。

 彼らは真の神を知らなかったので、神の警告を聞けなかった。世と妥協したロトに、証しの力はなかった。ソドムの町の滅びから免れるためには、そこから退く以外に方法がなかった。さもないと、その町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。与えられている決断の機会を逸することは、神の民につながる特権の喪失につながるのである。
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8月31日 【世の滅びを免れるA】 創世記19:16-22
 二人の御使いは、ためらうロトと彼の妻と二人の娘の手をつかんで、滅び行くソドムの町の外に連れ出した。それは、主の彼に対する憐みによる。御使いは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」過去を断ち切り、急がなければならなかった。

 イエスは言われた。「やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。」「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

 世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質に与る者となるために、尊い、素晴らしい約束が私たちに与えられた。だから、あらゆる努力をして、ますます熱心に、私たちの召しと選びを確かなものとしなさいと命じられている。そうすれば、役に立ち、実を結び、つまずくことなど決してなく、永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられる。

 イエス・キリストの土台の上に、金、銀、宝石のような価値のあるもので建物を建てるなら、火が各人の働きの真価を試し、建物が残り、それにふさわしい報いを受ける。しかし、木、草、わらのようなつまらないもので建てるなら、建物が焼かれ、その人自身は火の中をくぐるようにして、主イエスを信じていたので救われる。

 ロトは言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。…私は、山に逃げることができません。」そして、近くて、小さい、低地の町に逃れることを求めた。ロトは、全力を傾けて積極的に逃れようとせず、消極的な態度だった。努力する前から、できないと小さく考えた。そして、神の力を信じて任せるのではなく、自分のできる範囲での救いを求めた。

 主は、ロトのその願いを聞き入れられた。そして、その町(ツォアル:小さいの意)を滅ぼさず、ロトがそこに入るまでは、ソドムとゴモラに裁きを下さないと言われた。世の終わりのキリストの再臨の日も、全くそのとおりである。教会の救いの完成によって、裁きが来る。主イエスは、それぞれのしわざに応じて報いるために来られる。キリストの花嫁として、正しい行ないに励み、小羊の婚姻の時に向かって用意をしよう。
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