エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2008年5月
5月4日 【栄光の神の召しへの出発A】 創世記12:1-5
 人類全体から、アブラハムを始めとしたイスラエル民族の族長たちに、12章より主題が転換する。
 他の神々に仕えていたアブラムの父テラがカランで死んで後、主はアブラムに語られた。既にウルで、栄光の神がアブラムに現われて言われた御言葉を、テラの死に際し、もう一度はっきりと語られたと考えられる(使徒7:2-5)。血のつながりが、神への従順を妨げていたのである。カランにとどまっていた間、アブラムに新しい啓示は与えられなかった。私たちをこの世に結び付けている鎖を、キリストの十字架の死によって断ち切り、新しい神の召命に脱出することが肝要である。主に従うことを回避する目的で、挿入されるものがあってはならない。だから、神の国とその義とをまず第一に求めよう。
 主はアブラムに仰せられた。「生まれ故郷から出て、親族と別れ、父の家を離れ、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを偉大な国民(ヘブル語ゴーイ:領土と民を含む言葉)とし、あなたを有名にしてあげよう。あなたは祝福の基となる。あなたを祝福する者を、わたしは祝福し、あなたを呪う(卑しめる、貶める〜相手への悪を願う)者をわたしは呪う。地上のすべての人は、あなたによって祝福される。」更に、創世記22章18節では、「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」と仰せられた。「子孫」は単数形だが、集合名詞にもなり、集団をも表現する。「子孫」は、焦点となるキリストを指し、焦点を広げると、キリストに対する信仰による人々になる(ガラテヤ3章)。
 アブラムは、主がお告げになったとおりに、カナンの地に向かって出かけた。紀元前2000年頃のことである。相当な全財産と従者たちの集団を伴っての出発は、アブラムの族長としての権威と役割と、再び帰る意志のない故郷との決別を示している。アブラムは高齢(75才)であったが、この世と分離し、未知の世界に入って行く信仰による出発をしたのである。こうして彼らは、カナンの地に入った。
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5月11日 【カナンの地で主を礼拝する】 創世記12:6-9
 アブラムは、カナンの地の中心に位置するシェケムにある、モレ(占う者の意)の樫の木(カナン宗教の神木)の所まで来た。カナン人は、モレの木は神々の幻や託宣が与えられる場所であり、その木の根元で宗教指導者が生まれると信じていた。当時、その地にはカナン人がいて支配していた。

 すると、そのカナン祭儀の中心地で、主がアブラムに現われ、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築き、主を礼拝した。聖書には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と書いてある。神の御子キリストが現われたのは、悪魔の仕業を打ち壊すためである。神によって生まれた者は皆、世に勝つ。私たちの信仰こそ、世に打ち勝った勝利である。

 アブラムはそこから移動して、べテルとアイの間に天幕を張り、主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。祭壇と天幕は、アブラハムの二つの大きな特徴−神の礼拝者と天を故郷とする世の旅人−を表わしている。

 それから、アブラムは尚も進んで、ネゲブ(約束の地の南限)の方へと旅を続けた。神は後にアブラムに、「立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」と仰せられた。アブラムが信仰によって歩き回り、祭壇を築き、天幕を張った場所を、神は彼と子孫に与えられたのである。
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5月18日 【約束の地における試練】 創世記12:10-13:1
 ネゲブの地に激しい飢饉があり、アブラムは一時的にエジプトに下り、難を逃れた。信仰の実生活において、生活問題という試練に会ったのである。

 しばしば神に服従する正しい道に、大きな試練が横たわっていることがある。実際問題として、約束された地にはカナン人がおり、激しい飢饉があった。

 「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」試練の時こそ、信仰の心を強め、神との交わりを深めよう。祭壇(献身)と祈りのない生活をして、神によらない決断をしてはならない。

 アブラムは試練があっても、神が導かれないなら、カナンの地にとどまっているべきだった。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」キリストは多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、その足跡に従うようにと、私たちに模範を残された。今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のために十字架についてくださったキリストに信頼して従おう。

 更に、祭壇(献身)と祈りのない生活をしていたアブラムは、自分がサライの夫であることを隠し、妻を犠牲にしてまで、自分の命を救おうとした。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」

 アブラムとサライが神の約束を果たすべき人々であったため、主は、サライを妻として宮廷に召し入れたパロ(エジプトの王)とその家をひどい災害で痛めつけた。アブラムの神への不従順が原因で、人々が災害に巻き込まれたのである。神にとって、これらのことは神の約束の成就にかかる問題であった。

 偉大な聖なる主の御名のために、主は裁きをなして、アブラムに憐みを施された。こうしてアブラムは、主の恵みのご干渉のゆえに、エジプトを出て、ネゲブに上リ、約束の地に戻された。
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5月25日 【信仰の目を上げて@】 創世記13:2-9
 アブラムはネゲブから旅を続けて、以前天幕を張って、祭壇を築いたべテルとアイの間まで来て、主を礼拝した。献身と祈りによる神との交わりの生活が回復したのである。アブラムは感謝と賛美、守りと導きを神に祈ったことであろう。神への初めの愛から離れてしまったら、悔い改めて初めの愛の行ないをしよう。 

 アブラムは神の祝福によって、非常に富んでいた。一緒にいた甥のロトもまた、アブラムの祝福のゆえに富んでいた。その地は、彼らが一緒に住むのに十分広くなかった。彼らの持ち物が多過ぎ、また、家畜のための牧草が余り豊かではなかったからである。アブラムは初めに神から召命を受けた時、「親族と別れ、父の家を出て」と命じられていた。

 その上、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちの間に争いが起こった。表面的な問題の原因は、心の中にある。争いは、貪欲と不信仰の結果であり、祝福の喪失への道である。争いと怒り、苦い妬みと敵対心は、悪霊に属し、背後には悪魔が働いている。争いは、神との関係と人間関係〜家庭、教会、地域、国家などの内部と間を破壊する。しかし、キリストが現われたのは、悪魔の仕業を打ち壊し、十字架の贖いによって、人々に平和と豊かないのちを与えるためである。

 またその頃、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこでアブラムはロトに、どうか親類(兄弟)同士である自分たちと、自分たちの牧者たちの間に、争いのないようにしてくれと言った。「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。」と聖書には書かれている。

 アブラムは信仰によって、年長者として当然彼にある選択の優先権を譲って、ロトに目の前にある土地を選ばせ、別れてくれるように頼んだ。アブラムにとっては、「神の近くにいることが、しあわせ」であった。彼は、「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」詩篇16:5-6という信仰に堅く立っていたのである。
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