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| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
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| 2008年4月 |
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| 4月6日 |
【ノアの時代G】 創世記9:18-29 |
箱舟から出て来たノアの息子たち、セム、ハム、ヤペテの三人から、全世界の民は分かれ出た。洪水後の人類は、皆ノアの子孫である。
ノアは農夫であり、ぶどう畑を作り始めた。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。自然界の主人が、ぶどう酒に酔って、自分を治めることに失敗したのである。聖書には、酒に酔ってはならない、そこには放蕩がある、御霊に満たされなさいと書いてある。
カナンの父ハムは、父の裸を悪い意図をもって見て、外にいた二人の兄弟に、父親の失態を話した。父親を物笑いの種にしようとしたのである。それは、不敬虔な不敬の罪であった。聖書には、あなたの父と母を敬え、長老は二重の尊敬を受けるにふさわしいと書いてある。また、上に立つ権威に従い、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさいと命じられている。
それを聞いたセムとヤペテは、父親の弱さに同情し、父親の醜態を見ないように、後ろ向きの姿勢で服を持って、父親の裸を覆った。ノアは正しい人であって、その時代にあっても全き人であったと聖書に書いてある。神の恵みは、ノアの罪を全て包み隠し、彼の人格を一点のしみなき義の衣で覆ったのである。
嘲る者の座に着かなかった人は、幸いである。憐み深い者は、憐みを受ける。憐みは、裁きに向かって勝ち誇るのである。大祭司なるキリストは、私たちの弱さに同情できる方なので、私たちは大胆に神の恵みの御座に近づき、憐みと恵みと助けを受けることができる。愛は多くの罪を覆うので、互いに熱心に愛し合い、親切に仕え合おう。
ノアは酔いから醒め、末の子ハムが自分の失態を嘲笑したことと、セムとヤペテがしたことを知って、呪いと祝福の言葉を語った。「呪われよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」ノアは、神の霊によって、ハムの子カナンの霊的なことを軽んじ、神に反逆する倫理的品性を見抜き、裁きを預言したのである。後のカナン宗教は、性的に退廃した最も倫理性を欠く恐るべき宗教となり、カナン人は、そのカナン宗教の低劣さの奴隷となって、神の裁きの対象となった。
セムへの祝福は、神への賛美であった。セムの神に、契約の神、主(ヤーウェ)が用いられている。それは、神とセムの子孫との特別な関係を示している。神は、セムをキリストに至る選びの家系とされた。ヤペテへの祝福は、神がヤペテの土地を広げ、セムの天幕に住まわせ、セムと同じ祝福を与えてくださることであった。 |
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| 4月13日 |
【幸福の条件】 Uコリント6:15-7:1 |
今回の聖書箇所から、神の命令は良い命令であり、守り行ったら約束の祝福が来ることを教えられます。旧約聖書の出エジプトにおいて、モーセに率いられたイスラエルの民に対し、神は回り道するように命じられました。地中海沿岸沿いの直線距離を進めば、2週間でカナンに到着できるのに、敢えて回り道したのは、イスラエルの民が、神に従わなかった罰のためだと思いがちですが、出エジプト記13:17-22を見ると、実に神の愛による思いやりから来る命令であったことがわかります。それは弱く戦いの準備もないイスラエルが、戦闘に長けたペリシテの地を避けるためでした。聖書の中には、神の命令が数多く出てきますが、それらの命令は、私たちを幸せに導くためでした。守ったら祝福が来る命令です。正直言って、守った方が得なのです。聖書の中に出てくる信仰の人たちはどうかというと、結構罪を犯しました。アブラハム、モーセ、ダビデ、ペテロ…みんな信仰上の失敗をしました。それでも、素晴らしい信仰者として記されているのは、彼らが罪を犯した時、心から悔い改めたからです。
聖書は、近年はやりの『失敗学』の最高傑作です。失敗の悔い改めを糧として、恵みと祝福を受けました。聖書の女性たちの中にも見られます。レアとラケルは姉妹ですが、ヤコブと結婚しました。夫ヤコブが妹のラケルばかりに心を向けるので、レアは妬みと悲しみの人でした。何人子供を産んでも、夫は振り向いてくれませんでした。彼女はその時、主を見上げました。そして新しく産まれた子をユダ(主を誉めたたえよう)と名づけました。彼女の人生は変わりました。このユダの子孫から、救い主イエス様がお生まれになったのです。マリアとマルタも姉妹でした。「最も大切なのは、神の言葉を聞くことだ。」とイエス様に諭された時以来、マルタは悔い改め、変わりました。妹に優しい、心配りをする人になりました。
私たちもクリスチャンになった後も、失敗や罪を犯します。しかしその時、素直に神の御前に出て、ごめんなさいと悔い改めるなら、神は祝福の御手を伸ばして私たちに触れてくださいます。私たちは神の子供、神の家族です。皇室の家族が皇族らしく振舞うように、私たちも神の王子、王女として振舞うようにしましょう。私たちの長子イエス・キリストに倣って、神に仕え、人に仕え、愛を実践する者であり続けましょう。神の命令を守ったら祝福が来ます。 |
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| 4月20日 |
【バベルの塔への裁き】 創世記10:1-11:9 |
ノアの息子、セム、ハム、ヤペテから、70民族の全世界の民が分かれ出た。ハムの子孫のニムロデ(「我々は逆らおう」の意)は、地上で最初の権力者となり、神に敵対するバビロンの建設者となった。
全地は一つ言葉であり、人々は東の方から移動して来て、シヌアルの地(バビロニヤ)に定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」れんがは、石の少ないメソポタミヤの平原地帯における技術文明の進展を象徴した。
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」彼らは、神なしに自負心をもって生きようとした。彼らの動機は、神を除外し、自分を高めることと、神に対抗することであった。人の威信と過信によって、神の御心ではない自分たちの思い計ることを、人間の力によって実現しようとしたのである。
それは、天を故郷とし、神の御心を御霊によって実現する信仰による歩みとは、正反対である。小羊イエスの妻である花嫁キリストの教会の反対は、大バビロンである。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。」と黙示録18:2には預言されている。
バビロンの王について、「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」とイザヤ14:12-15に預言された。 |
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| 4月27日 |
【栄光の神の召しへの出発】 創世記11:10-32 |
主は、罪の方向に一致団結する人々に介入され、バベルの塔を建てる人々の言葉を混乱させ、互いに言葉が通じないようにされた。こうして、人々は地の全面に散らされ、バベルの町を建てるのをやめた。
バベル(神の門の意)は、裁きの場所となった。人間は縦関係にある神に対して不従順である時、人同士の横のつながりにも混乱が生じるのである。バビロン(バベル)は、聖書の中で、政治的傲慢、迫害、罪、快楽、迷信、富、滅び等を象徴する名前となった。
バベルの塔への裁きの反対は、聖霊のバプテスマによって一つにされることである。キリストの十字架によって、神と和解させられ、一つのからだ(教会)とされて、平和が実現するのである。教会は、キリストにあって一つに集められ、御国を受け継ぎ、永遠に神を礼拝する。「そのとき、わたしは、国々の民のくちびるを変えてきよくする。彼らはみな主の御名によって祈り、一つになって主に仕える。」ゼパニヤ3:9
11章には、セムの歴史とテラの歴史が記されている。人類全般の記述から、選民の歴史へと転換し、信仰の父アブラハムの経歴が書かれているのである。アブラムは、「尊い父」という意味であり、「父との関係を通して高められる」「父を愛した人」「主の友」「主の愛する者」という解釈ができる。
アブラムの父テラは、カナンの地に行くために、月神礼拝の中心地であったウルから、アブラムたちと一緒に出かけた。しかし、同じく月神礼拝の中心地であったカランまで来て、そこに住みついてしまい、そこで死んだ。テラは、異教的な心情が拭い切れず、他の神々に仕えていたからである。 |
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