エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2008年1月
1月6日 【神への信仰と新しい希望】 創世記3:16-20
 人の罪への宣告の前に、蛇が断罪されたことは、神の恵みと憐みによる。人が、神に目を向けて救いを求めるなら、神の愛と義と聖の現われであるキリストの十字架のもとに、安息と隠れ家を見出すことができる。キリストの十字架の贖いは、永遠の救いと全き平安、安全と安住をもたらす。主の家に住まう人生は、慈しみと恵みとが追って来る人生である。

 神である主は、女に出産の苦しみと夫の支配と隷属の関係を宣告された。

 アダムへの宣告は、土地の呪い、労働の苦しみ、死であった。土地は、万物の管理者である人の不従順の罪のゆえに、呪われてしまった。

 創造の秩序を深刻に破壊する裂け目が生じた。アダムがそこから造られた土と、アダムとの親しい関係は破られた。人は一生涯、労働の苦しみを味わうようになり、あくせく働いて、土に帰る(死ぬ)存在となった。

 野の草を食べようとする人に、雑草が生えるようになった。いばらとあざみは、荒れた土地のしるしである。苦しみ、悲しみ、叫び、死は、罪のしるしと結果であり、神とともに住む天国の姿にはない。アダムによって、罪が世界に入り、罪によって死が入り、全人類に広がった。

 なおさらのこと、キリストの一つの義の行為(十字架の死による全人類の罪の贖い)によって、全ての人が義と認められて、永遠のいのちを与えられる。今日、神の御心を行ない、神の栄光を現わすという人生の目的が人々に与えられ、地を治め、神と人に仕えるという、本来の仕事の祝福、意義と使命、喜びと楽しみが、回復されるように祈ろう。

 アダムは、妻をエバ(いのち、生きること)と名付けた。それは、彼女が全ていのちある者の母となったからである。アダムが、妻の名を死ぬ者の母と呼ばなかったのは、原福音を聞いたアダムの、神への信仰と新しい希望による預言的告白であった。

 アダムは、罪の裁きの中での神の恵みを理解し、神に対する悔い改めに導かれたのである。神の恵みは、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させる。
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1月13日 【いのちの木から取って食べる】 創世記3:21-24
 神であられる主は、不従順の罪を犯したアダムとエバをあわれまれ、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。ここに、神に近づく道として、血を流すいけにえが暗示されている。

 キリストは、十字架の死によって、罪のために一つの永遠のいけにえをささげ、聖なる者とされる人々を、永遠に全うされた。神によって与えられた衣は、完全で有効なキリストの義の衣であり、永遠の救いに至る。

 バプテスマを受けてキリストにつく者とされた私たちは皆、キリストをその身に来たのである。一方、アダムと妻が、いちじくの葉をつづり合わせて作った腰のおおいは、彼ら自身の手による、罪に汚れた一時的な働きである。それは、不完全で無効な人の義の衣であり、死に至る。

 人は、神に依存して神の御心を行なう存在ではなくなり、不十分ながらも善悪を知るようになった。神であられる主は、人をエデンの園から追放し、神との交わりから断絶させ、人がいのちの木から取って食べ、永遠に生きることのないように、いのちの木の道をケルビム(天使)に守らせた。

 神との交わりの断絶と死という、神の裁きの明確さと刑の執行の厳格さを、キリストは十字架の刑罰によって負ってくださった。イエスの血によって、神との交わりの新しい生ける道が開かれた。永遠のいのちとは、神を知り続ける絶えず増大する経験である。

 いのちの木の実を食べることは、永遠に生きることを意味する。イエスは、ご自分を遣わされた父の御心を行ない、その御業を成し遂げることを食物とされた。またイエスは、天の御国に入るのは、天におられる父の御心を行なう者であると言われた。

 神の御心は、罪を悔い改めて、勝利と栄光に満ちたキリストの花嫁なる教会を建て上げることである。「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。」黙示録22:14
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1月20日 【キリストの血によるささげ物@】 創世記4:1-15
 アダムとエバは、主によってカインを得た。また、弟アベルが産まれた。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 ある時期になって、カインは地の作物から、主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、最良のものを自分自身で持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められたが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。カインとアベルのささげ物の違いは、ささげる態度もあるが、罪を赦す血の犠牲であるかどうかである。

 ささげる者とささげ物が、全く同一視されている。カインは、宗教的な人の型である。宗教的な人は、信仰の人を妬み、迫害し、殺す。それが、キリストが十字架で殺された理由である。宗教的な人は、キリストの血のない、悔い改めのない、偽りの礼拝者なのである。

 一方アベルは、信仰の人の型である。義人は殉教しても、信仰によって証しし続ける。信仰の人は、キリストの血のある、悔い改めた、真の礼拝者なのである。

 御子イエスの血は、全ての罪から私たちをきよめる。神は真実で正しい方なので、私たちが自分の罪を言い表わすなら、その罪を赦し、全ての悪から私たちをきよめてくださる。今日、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入り、神と交わることができる。

 聖めてくださる御子イエスも、聖められる教会も、ともに一人の父なる神をもっている。そして、ともに宣教し、神を賛美するのである。そのようなわけで、私たちは神のあわれみによって、自分のからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげる、霊的な礼拝をすることができるのである。
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1月27日 【キリストの血によるささげ物A】 創世記4:1-15
 キリストの血のある、罪を悔い改めた、正しい礼拝は、神に受け入れられる。そうでなければ、罪が滅ぼそうとして、戸口で待ち伏せして、恋い慕っている。罪を支配し、打ち勝たなければならない。しかし、

 カインは神の警告を無視し、悔い改めの機会を拒否し、弟アベルを妬んで殺した。そのことを神に問われると、知らないと嘘をついた。殺人の事実は、神の御前に消すことのできない、神への反逆である。カインは呪われる者となり、その土地でいくら労しても何も得られず、地上をさ迷い歩くさすらい人となった。

 カインの主への告白は、主に対する無知を表わしていた。彼は、罪の赦しを求めることも、悔い改めることもなく、主の御顔から隠れて逃げ続けた。そのような悔い改めなき罪人のカインにさえ、神は恵みと憐みをもって、一つのしるしを与え、保護と慈悲を表わされた。

 「あなたの重荷を主に委ねよ」と主は仰せられる。キリストの御許には、安息と平安がある。自らへりくだり、祈りをささげ、主の御顔を慕い求め、悪い道から立ち返るなら、主は親しく天から聞いて、罪を赦し、地をいやしてくださる。

 一人の罪人が悔い改めるなら、天に喜びが湧き起こる。神は私たちの全ての罪を赦し、罪の債務証書を十字架に釘付け、無効にされた。キリストが罪の呪いを負ってくださり、聖霊の祝福を与えてくださったのである。

 主は忍耐深く、一人でも滅びることを望まず、全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられる。
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