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| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
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| 2007年12月 |
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| 12月2日 |
【エデンの園の祝福A】 創世記2:15-17 |
神である主は、人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、そこを耕させ、守らせた。神の権威の代表として、「地を支配せよ。支配せよ。」という管理の仕事が、人に与えられたのである。労働は人間本来のことであり、そこには喜びと安らぎと調和がある。
神である主は、人に命じて、「園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると善悪について正しい判断が下せないようにようになるから、必ず死ぬ。」と仰せられた。人は与えられた自由の中で、何をしてもいいのではない。イエスは父の御心以外には、自分からは何事も行なわれなかった。神を離れては、正しく善悪を決定することはできない。神との交わりの中でこそ、正しい識別がある。
「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」というのが、人が神の創造の目的に従って生きるための基本的な条件である。神の御声に聞き従わず、善悪の知識の木の実を食べるということは、人が神に代わって自分で勝手に善悪の判断をし、自分の意のままに生きることを意味する。神に従うという条件において、人は自由である。神への従順こそ、真の自由であり、神の御言葉を行なうのが、本当のキリストの弟子である。
善悪の知識の木から食べると、必ず死んでしまう。善悪の知識の木から取って食べなければ、人は死ななかった。いのちは、神への全き信頼と完全な服従にかかっている。神を信じる者は、裁きに会うことがなく、死から永遠のいのちに移っている。今日、キリストを敬い、その御声に聞き従う者は生きるのである。 |
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| 12月9日 |
【エデンの園の祝福B】 創世記2:18-25 |
神がお造りになった全てのものは、非常に良かったが、人(アダム)が、一人でいるのは良くなかった。神は人のために、彼にふさわしい(彼に合う、彼の前に対応する者として)助け手(人格的なパートナー)を造られた。人は最初から人格者として、神と他の人格者と交わって生きるように造られたのである。
神である主は、野の獣と空の鳥を人の所に連れて来られ、人はそれぞれの生き物にふさわしい名をつけた。名をつけることは、本質、実質の表示であり、名づけるものへの権威を示す。
動物の中には、人の全人格における必要を満たす助け手は見あたらなかった。そこで神である主は、深い眠りを人に下され、彼のあばら骨(わき)から一人の女を造り上げ(建て上げ)、人の所に連れて来られた。すると人は、愛と歓喜の劇的な表現を語った。「これこそ、ついに(求めの切実さ)、私の骨からの骨、私の肉からの肉。…」
骨は、自己の意で用いられる表現であり、骨からの骨は、アダムの分身、第二の自分、自分自身、個の人格の分立、単一の人格、一体の意である。人は、相手の存在なくして生きられない存在なのである。こうして、人が一人でいるのは良くない状態が、良くなった。
「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となるのである。」これが、創造において神が意図された結婚の起源である。親子の関係より、夫婦の関係が優先するのは、神の創造の御業に基づく秩序である。人は、父母への依存関係から、夫婦の相互依存関係へと移り、全人格的に結合する。
人とその妻は、二人とも裸であったが、罪をもっていなかったので、互いに恥ずかしいと思わなかった。神との交わりにおける満足の中で、恥の経験そのものが存在しなかったのである。
結婚の偉大な奥義は、キリストと教会の関係を表わしている。キリストが十字架の辱めを忍ばれたのは、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の御前に立たせるという喜びのゆえだった。イエスのわき腹から出て来た血と水(十字架の死)によって、教会は贖われ生み出されたのである。
御霊と水と血が一つになって、キリストを証しする。人がキリストに向くなら、御霊なる主の働きによって、キリストの栄光の姿に変えられていく。キリストご自身がお立てになった五役者(使徒・預言者・伝道者・牧師・教師)によって、聖徒が整えられ奉仕の働きをし、教会を建て上げるなら、キリストの満ち満ちた身丈に達することができる。
溢れるばかりの喜びの油を注がれた花婿イエスは、愛の歌をもって、花嫁なる教会を楽しみ、安らぎを与える。そして、花嫁がキリストのふさわしい助け手として用意ができ、小羊の婚姻の時を迎えられるように、いつもとりなしていてくださるのである。 |
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| 12月16日 |
【エデンの園における誘惑@】 創世記7:1-7 |
野の獣のうちで、一番狡猾であった蛇 −黙示録では、「全世界を惑わす、あの古い蛇、悪魔(反抗者)、サタン(敵対者)」と呼ばれている−は女に、神が禁じた善悪の知識の木から取って食べさせるために、神の言葉に対する疑惑を高度に強調する言葉を語り、神への不信仰と不従順に誘惑した。悪魔の巧みな問いかけを、心に受け入れてはならない。蛇と対話をして、蛇の言いなり、奴隷になってはならないのである。神の愛と真実に信頼し、御言葉を正確に守ろう。
蛇の問いかけに対する女の返答は、神の言葉を不正確に引用したり、勝手に言い換えたり、自分の言葉を付け加えたりしたもので、神への無知を表わしていた。聖書には、「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。」と書かれている。
そこで蛇は、神の言葉への疑いから、今度は神の言葉を否定し、神の愛と真実を疑わせた。蛇は、神の裁きを否定し、絶対権威などない、神を信じ、従わなくても大丈夫だ、生きられるという偽りの思いを人に入れた。そして、神より優越する立場を認めさせ、自分が神になろうとする高慢な心を促し、御利益があると誘惑した。
そこで女が注意深く見ると、善悪の知識の木は、実に魅力的で美しく、いかにもおいしそうで、目に慕わしく、賢くなるように唆していた。世を愛する肉の欲、目の欲(貪欲)、暮らし向きの自慢(心の誇り、虚栄)は滅び去る。しかし、神の御心を行なう者は、いつまでもながらえる。女は、かしらである神の権威も夫も無視して、自分の判断を優先させ、感覚の支配によって、自分の欲に従い、その実を食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。アダムとエバは、よく潤された至福のエデンの園で、神に背き、罪を犯したのである。
このようにして、二人の目が開かれて得たのは、自分たちが裸であるという羞恥心と罪責感だった。そして、神が仰せられたとおり、罪の代価として、必ず死ぬという現実だった。真の知識は失われ、自分の基準で善悪を定めるようになった。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、腰の覆いを作った。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」着物、美容、教養、富、社会的地位、宗教など、人の改善努力、自己義認は虚しく、神の御前に無意味であり、役に立たない。
人は、恵みのゆえに、キリストを信じる信仰によって、救われる。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物である。御子イエスの血は、全ての罪から私たちをきよめる。だから、熱心に悔い改めて、新しい人、主イエス・キリストを身に着よう。神は、神を愛する人々を、御子のかたちと同じ姿に予め定め、召し、義と認め、栄光をお与えになられたからである。 |
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| 12月23日 |
【エデンの園における誘惑A】 創世記7:8-13 |
日の風の頃、アダムとエバは、園を歩き回られる神である主の声(音)を聞いた。エデンの園において、神は人の近くに臨在された。それで二人は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。被造物を守る良き管理者であるはずの人が、園に守られようとしたのである。それとは反対に、ダビデは、主の家に住むという一つことを願い、主の御顔を慕い求めた。今日、花婿イエスの声を聞く教会は、大いに喜びに満たされる。
神である主は人に呼びかけ、「あなたはどこにいるのか。」と仰せられた。人は神との交わりから脱落したが、神は人が応答し断絶した交わりが回復することを願っておられる。神が人との愛の関係を求めておられるのだから、人は神に対する正しいあり方に帰る必要がある。
イエスはザアカイに、「人の子は、失われた人を探して救うために来たのです」と言われた。人は主の御霊と御前を離れて、どこへも逃れられない。イエスの十字架の血によって、大胆にまことの聖所に入れる新しい生ける道が開かれた。だから、私たちは神に応答し、罪を悔い改め、全き信仰をもって、真心から神に近づこう。
アダムとエバは、悔い改めを拒絶し、神に言い訳をした。自己弁護と罪の責任回避と責任転嫁をしたのである。罪人は、自分の責任を取ることができない。自己義認と罪の正当化の努力は虚しい。アダムは、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、…」と言ったが、そこには、神への対抗意識と反逆が見られる。
罪は、神との関係だけではなく、神が結び合わされ一心同体とされた夫婦関係をも引き離した。二人には罪と恥の意識があり、裁きを恐れて逃げる心情はあったが、罪を悔い改め、神との交わりを回復しようとする思いがなかった。私たちは古い人をその行ないと一緒に脱ぎ捨て、新しい人キリストを着て、真の知識に至ろう。私たちの愛は、真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かにされる。 |
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| 12月30日 |
【キリストの足台】 創世記3:14-15 |
神である主は、蛇とは会話をしないで、一方的に裁きを宣告された。「おまえが、こんな事をした」という言葉から、神に敵対し、人を神に敵対させるサタンの存在がいることと、サタンは破滅の原因であることがわかる。蛇は、あらゆる家畜と野の獣の中で、最も呪われた特異な存在となり、自分を高い所に置こうとした罪のゆえに、地を這う最も卑しめられた状態に落とされた。
女の子孫から出る一人の人イエス・キリストは、サタンと敵対関係にある。私たちは、本当の敵である悪魔と悪霊どもにこそ敵意をもち、人と争ってはならない。全ての人と平和を保ち、善をもって悪に打ち勝とう。
キリストは、蛇のかしらを踏み砕き(決定的な致命傷)、蛇は、キリストのかかとにかみつく(激しい苦痛を与えても、致命的なものとはならない)と預言された。ここに、罪を犯した人への、キリストによる救いの福音が予表されている【原(始)福音】。キリストは、十字架の死によって、サタンに完全に勝利された。そして、十字架の死の後に復活された。
悪魔は、最後には決定的に打ち滅ぼされてしまう。キリストは、贖いの源となられた。子孫という表現に、人類の救済の継続性と歴史的展開を見ることができる。神は恵み深くも、この問題の全てをご自分の手に引き受けられ、ご自身と蛇との間の問題とされたのである。
女の子孫(単数)は、また、新しい一人の人なる教会でもある。平和の神は速やかに、キリストの御からだなる教会の足の下で、サタンを踏み砕いてくださる。教会は、教会を愛してくださったキリストによって、圧倒的な勝利者とされ、平和を実現する。
父なる神は、キリストの敵をキリストの足台とされる(完全に征服される)。キリストの戦いの日に、教会は聖さを身にまとい、夜明け前(朝の胎内)から喜んで身をささげる。神の軍勢は、キリストにとって、若々しい朝露のようである。 |
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