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| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
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| 2007年8月 |
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| 8月5日 |
【王の王の律法を守る】 ヤコブ2:1-13 |
栄光の主イエス・キリストを信じる者は、人をえこひいき(分け隔て、差別)してはいけない。弱い者をも、強い者をも、公平に正しく、隣人を裁かなければならない。会堂に入って来た富んだ人に好意を寄せ、貧しい人を軽蔑して、差別を設けるなら、悪い動機に振り回され、誤った考えに基づいて判断したことになる。
当時の富んだ人たちは、貧しい人をしいたげ、負債者に同情のない行為をした。また、彼らはキリストの御名を汚した。神は、この世の貧しい人たちを選び、神を愛する信仰に富む者とし、御国を相続する者とされた。「心の貧しい者」とは、「心砕かれて、へりくだった人」のことである。
旧約聖書では、神を恐れる者が迫害の中で、ひたすら神の助けを待ち望む時、自分を「貧しい者」と呼ぶ。後にユダヤ教において、これは「敬虔な者」の同義語となった。
聖書の「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という「最高の律法」は、王の王である主イエスが、神を愛する者に約束された、神の王国の律法である。律法は全体として、神の御心を表わており、この「最高の律法」の中に要約されている。人をえこひいきすることは、律法違反の罪である。
自由をもたらす律法によって、いずれは裁かれる者として、愛によって語り、行動するように命じられている。憐み深い人は、裁きの日に、神の憐みを受けることができる。主の恵みと憐みに生かされ、贖い主の御心を喜ばせることに心を留めよう。 |
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| 8月12日 |
【行ないを伴う信仰の祝福@】 ヤコブ2:14-26 |
人を愛すという良い行ないを伴わない信仰は、死んだ信仰である。それは、真の信仰ではなく、最後の審判の時に、その人を救うことができない。私たちは、悔い改めにふさわしい実を結ぶように、命じられている。
人は優れた行為によって、悔い改めを実証すべきなのである。
天の父の御心を行なう者が、天の御国に入る。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠のいのちが与えられる。学びと実践、祈りと行動が大切であり、知識、言葉、儀式だけであってはいけない。信仰が本物なら、必ず受肉して表わされる。
ヤコブは、良い働きや親切な行ないに表われている本物の信仰と、行ないには決して表われない見せかけの信仰とを対照させている。信仰をもっていると言う人は、それを愛の業によって示さなければならない。信仰を証明し、現実に表わすのは行為である。
知的賛同だけであって、神への人格的信頼や服従のない、行ないを伴わない信仰は、悪霊ども(悪魔のために働く邪悪の霊)の信仰と同じものになってしまう。イエスを信じるとは、信仰を生活の全ての部分と場所に適用し、祝福されて生きることなのである。 |
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| 8月19日 |
【行ないを伴う信仰の祝福A】 ヤコブ2:14-26 |
行ないのない信仰がむなしい(効力がない、無用なもの)ことを知らない人は、愚かな(内容のない)人である。信仰の父アブラハムは、ひとり子イサクを祭壇にささげた時、神を愛するその愛の業によって、義と認められた。
彼の信仰は愛の業とともに働いて、はっきりと示され、信仰は行ないによって、完成された。神を信じて義とみなされたアブラハムの信仰が、それから約30年後、行ないによって完全に表わされ、聖書の信仰義認の御言葉が実現し、アブラハムは神の友と呼ばれた。
遊女ラハブも、イスラエルの使者たちを助けたため、その愛の業によって、義と認められた。信仰が動因となって、その人を行動へ動かす。今日、キリストが私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合い、友のためにいのちを捨てるという、大きな愛を行なうなら、私たちはキリストの友である。
人は愛の業を伴う信仰によって、義と認められるのであって、信仰だけによるのではない。生きた信仰は、必ず行ないを伴う。
信仰という正門を入った者は、行ないというキリストへの全き服従によって、永遠のいのちに入るのである。御言葉への信仰と行ないによって、神(の奇跡と祝福)を体験する人生を歩むことができる。魂の信仰とからだの行ないは、完全な調和を保ち、統一されて具現される(実際に現わされる)のである。 |
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| 8月26日 |
【賛美と祝福を語る炎の舌@】 ヤコブ3:1-12 |
キリストご自身がお立てになった、教会の教師という賜物を受けた人は、格別厳しい裁きを受けることになるので、多くの者がなってはいけないと書かれている。真理の御言葉をまっすぐに説き明かす熟練した働き人が、自分自身にも教えることにも、よく気をつけ続けるなら、自分自身をも教えを聞く人たちをも救うことになる。教会の教師には、正しい教えと生活が求められるのである。
言葉で失敗をしない人がいたら、その人は、からだを通しての活動(生活)全体を制御できる完全な人である。舌を統御できれば、全身を統御できるが、舌を統御できなければ、人生全体を間違った方向に進めてしまう。
船の後ろについている、ごく小さな舵によって、強い風に押されている時でも、一人の人間の力で
(力をそれ程入れなくても)、 巨大な船全体を思い通りの所へ持って行くことができる。人生の暴風雨の中でも、舵を握っている人の意志で船は動く。神の意志と支配に舌と人生を委ね、言葉を賢く用いよう。神に舌を制御して頂くなら、人生全体は正しく方向付けされる。
舌は小さな器官だが、使い方を間違えると、大きな損害、害毒、苦痛、悲しみ、傷心を与えることがある。火事のように、破壊的な火として、広大に分布するのである。舌は矢と呼ばれ、口から出た言葉は、取り戻すことができない。
霊の戦いにおいて、信仰の大盾を取るなら、悪い者が放つ矢を皆消すことができる。「わたしの油注がれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」と、主は王たちを責められた。
「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。――主の御告げ。――」イザヤ54:17 |
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