エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2007年7月
7月1日 【いつも主にあって喜ぶ信仰】 ピリピ4:1-9
 パウロにとって、ピリピ教会の愛し慕う兄弟たちは、喜び、冠、パウロの伝道の報いであった。彼らに、生ける主イエス・キリストとの人格的な結びつきにおいて、しっかりと立ち、一致する(同じことを思う)ように、パウロは頼んだ。不一致は、愛がない表われであり、教会全体に悪影響(害悪)を及ぼす。いのちの書(天国の住民名簿)に名が記されている者たちは、愛と一致をもって、福音のために協力して戦い、教会とくびきをともにするのである。

 環境や外側の条件などによってではなく、キリストにある内側の喜びによって、いつも喜ぶ信仰をもつことができる。主はすぐ近くにおられ、もうすぐ再臨されるのだから、私たちの寛容な心を全ての人に示そう。非生産的で精神衛生上良くない、思い煩うことをやめ、感謝をもって祈りと願いをささげ、私たちの願い事を神に知って頂こう。そうすれば、人知を超える(私たちの常識を越えた)素晴らしい神の平安が、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださる。

 全ての真実なこと、誉れある(尊ぶべき、気高い)こと、正しいこと、清い(純粋な)こと、愛すべきこと、評判の良い(名誉な)こと、徳と言われること、称賛に値することに、心を留めよう(計画し、実行していこう)。御言葉を行ない、神の御心に仕えるなら、平和の神がともにいてくださる。
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7月8日 【どんな境遇にあっても満ち足りる生活】 ピリピ4:10-23
 パウロの生活と伝道を助けようとする心が、ピリピ教会によみがえってきた(花開く、芽吹く)。パウロは、どんな境遇にあっても満ち足りることを学び、境遇に左右されないキリストにおける内面的自由を得ていた。キリストへの全き依存と献身は、あらゆる境遇にあっても満ち足りる勝利の生活の秘訣である。生きる意味と目的がキリストでなければ、全ては空しい。

 ピリピ教会は、キリストの福音のためにいのちがけで労しているパウロと困難を分け合い、犠牲を払った。物をやりとりし、信仰から出た具体的な愛の業によって、パウロの働きに参加したのである。それは、ピリピ教会の収支を償わせて余りある霊的祝福(果実)、焼き尽くす献げ物を祭壇にささげる際の香ばしい香り、神が喜んで受けてくださる供え物であった。

 神への全き献身は、キリスト・イエスご自身にある栄光の富の満たしと、父なる神の栄光が現わされる生活である。

 ローマの教会には、カイザルの家に属する人々(ローマ皇帝の近親者から、今日で言う国家公務員まで、広い意味をもつ)がいた。ピリピ人への手紙は、「どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなたがた(複数形)の霊(単数形)とともにありますように」という祝祷で結ばれている。教会は、キリストのひとつのからだなのである。
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7月15日 【忍耐を完全に働かせる信仰】 ヤコブ1:1-8
 「ヤコブの手紙」は、宛て先が広範囲の(公同の、普遍的、一般的)教会であることから、公同書簡(公同の手紙)と呼ばれる。著者は、エルサレム教会の指導者、キリストの弟ヤコブと考えられ、国外に散っていたユダヤ人キリスト者へ送られた。

 ユダヤ人歴史家ヨセフスによると、ヤコブはAD62年頃、大祭司アンナスによって捕らえられ、石打ちの刑によってエルサレムで殉教した。この手紙は、迫害下の試練の中にあった教会を励まし、神の御心を行なう信仰を教えている。信仰生活における、行ないを強調した実践的・倫理的教えである。

 信仰義認が、信仰の根本的な面を強調したのに対し、行ないを伴う信仰は、信仰の結果的な面を強調している。両者は、互いに補い合うものである。

 ヤコブは自分を、神と主イエス・キリストのしもべと紹介している。神のしもべとは、自分の権利を捨てて、神に全く依存し、絶対的に服従する者、謙遜、忠誠、誇りを表わす。

 ヤコブは教会に、様々な試練をこの上もない喜びと思うように命じた。信仰が試される(精錬、純粋になる)と、忍耐(堅実な、確固たる力)が生じる。その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となることができる。

 神に知恵(人生への深い実際的な霊的洞察力)を少しも疑うことなく、信じて願おう。そうすれば必ず、神は惜しげなく(寛大に、率直に、単純に)、とがめることなく、聖霊を与えてくださる。主の霊は、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。

 疑う(心の分裂や葛藤のある)人は、主から何かを頂けると思ってはならない。そういう二心のある人(信仰と不信仰、神と神以外のもの、神への忠誠と神への不真実)は、歩む道全てに安定を欠いた人である。
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7月22日 【いのちの冠を受ける信仰】 ヤコブ1:9-18
 貧しい境遇(経済だけではなく、身分が低く、蔑まれている状態)にあるキリスト者は、自分の高い身分を誇りとするように、語られている。それは、神の子供、相続人にされているという、高い地位である。お金や所有物、権力のない人々は、神にのみ頼るので、実際は豊かであり、神の御前には、尊い地位が与えられている。

 富んでいる人は、自分が低くされることに誇りをもつように、語られている。富んでいる人は、働きの最中に、草の花のように消えていく。しかし、神の言葉は永遠に立つ。誇る者はただ、主にあって誇るのである。

 神を愛し、試練に耐え抜いて良しと認められた(試された結果、本物と認められた)人は、勝利者へのいのちの冠(永遠のいのち)を受ける。冠はまた、幸福と祝福、王権、名誉と尊厳を表わす。

 神は、悪と一切関わりをもたない方である。人は、自分の欲によって誘惑される。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生む。全ての贈るという良い行為と、全ての完全な賜物は、光を造られた父なる神から来る。神は、決して変化することがない方であり、常に期待を裏切らず、全ての良い贈り物と完全な賜物を、惜しげなく与えてくださる良い父である。

 父なる神は御心のままに、真理の御言葉をもって、私たちを被造物の初穂として、お生みになられた。収穫の初穂は、神に属する特別なささげもの、後に続く霊的収穫の保証である。私たちは、神の新創造の御業の最初の実とされた。やがて、神の贖いの御業は、全被造物に及ぶ。この望みによって救われ、忍耐をもって神の国を待ち望もう。
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7月29日 【御言葉に素直に従う生活】 ヤコブ1:19-27
 聞くには早く、語るには遅く、怒るには遅いようにせよと書かれている。人は大抵、自分のことで怒ってしまい、神の御心にかなった怒り方はしない。

 人の怒りは、神の義を実現するものではない。だから、全ての汚れや溢れる悪を捨て去り、心に植えつけられた御言葉に、素直に従って生活するように命じられている。神の知恵である御言葉を、喜んで、謙遜に、忠実に、充実して学び、実践するのである。御言葉は、私たちの魂を救うことができる。

 聞いたことを真剣に、自分のこととして受け取らず、聞くだけで終わる者になってはならない。聞くことは、実行することである。完全な、自由の律法(罪から私たちを解放する神の御言葉)を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、事を実行する人になり、その行ない(従順な生活)によって祝福される(幸せになる)。隣人を愛する者は、律法を完全に守っている。

 自分は信仰熱心だと思っても、平気で人を傷つけることを語るなら、その人の神信仰はむなしい。父なる神の御前で、きよく汚れのない礼拝とは、孤児ややもめたちが困っている時に世話をし(慈善、実践的奉仕)、世の汚れに染まらない(しみがない、人格的純潔)ように、自分を守ることである。

 しみとは、自分の利益ばかりを考える世俗的考えである。私たちを召してくださった聖なる方に倣って、あらゆる行ないにおいて聖なる者とされよう。
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