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| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
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| 2007年6月 |
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| 6月3日 |
【従順による救いの達成】 ピリピ2:12-18 |
神に愛されている者たちは、キリストの十字架の死に至るまでの従順の模範に倣い、従順によって救いを達成する(働く、努力するのニュアンスがある)。救いには、始まり(新生)と成長(聖化)と完成(栄化)があり、全てのことが、神から発し、神によって成り、神に至る。その達成の仕方は、神が、良い御心のために、私たちの内に働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる。全てのことをつぶやかず、疑わずに(争わず、議論せず)行なうことが大切である。
それは、キリストのご性質に与って、非難されるところのない純真な者、曲がった邪悪な世代の中にあって、傷のない(完全、汚れがない)神の子供となり、永遠のいのちに至る御言葉にしっかり服従し、世の光(星、輝き)として輝くためである。主にあっての労苦はむだでなく、キリストの再臨の日に誇ることができる。キリストによって、勝利はすでに与えられた。「事は成就した。」
パウロは、「ピリピ教会」のために、犠牲となって、殉教の血を流すとしても、「あなたがた全て」とともに喜ぶと語った。キリストに従うことをともに喜び、キリストのために苦しい戦いをともにするのが、愛の共同体である教会の姿なのである。 |
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| 6月10日 |
【キリストの仕事の奉仕者】 ピリピ2:19-30 |
パウロは彼の裁判の結果(釈放か処刑か)がわかり次第、ピリピ教会にテモテを送って、ピリピ教会の様子を知り、励ましを受けたい(元気になる、喜ぶ、快活になる)と、主イエスにあって望んでいた。テモテのように、パウロと同じ心(同志意識)になって、真実に(親身になって)教会のことを心配している者は、他に誰もいなかった。
誰でも皆、自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めていなかった。キリストのこととは、真実に教会を愛する心である。テモテは立派な働きぶり(適格性、確かな人物、素晴らしさ、練られた品性、試験に合格した有資格者)で、子が父に従順であるように、パウロの助け手として、福音のために奉仕してきた。
エパフロデトは、パウロの兄弟、同労者、福音の戦いの戦友、ピリピ教会の使者として、パウロの窮乏の時に仕えた。彼は、贈り物を携えてパウロのもとに遣わされただけではなく、留まってパウロの伝道を助け、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになった。ピリピ教会が、パウロに仕えることができなかった分を果たそうとしたのである。
いのちがけの奉仕は、キリストの仕事にふさわしい。キリストの仕事とは、教会を建て上げているパウロに仕えることであった。神との縦の関係と人との横の関係が、一致するのである。また、地域教会は、自分の教会のためにだけ働くのではなく、使徒を助ける働きをする。
死ぬ程の病気になったエパフロデトは、神にいやされ、ピリピ教会を慕い求めていた。そこで、パウロは、エパウロデトをピリピ教会に早期に帰還させることにした。そして、エパフロデトを喜びにあふれて、主に結ばれている者として大いに歓迎し、尊敬を払うようにと、ピリピ教会への手紙に書いた。 |
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| 6月17日 |
【キリストの仕事の奉仕者】 ピリピ2:19-30 |
パウロは、ピリピ教会の安全のために、以前と同じことを書いた。それは、犬(ユダヤ人が最も卑しい汚れた動物と考えていた、通常は異邦人に使われた言葉を逆用した)、つまり、悪い働き人、肉体だけの割礼の者(救われるためには、割礼を受けなければならないと教えている者)に気をつけよということであった。彼らは、正しい福音をもたず、間違った教えをする働き人である。
本当の割礼(アブラハム契約のしるし)の者であり、神に受け入れられるのは、神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、人間的なもの(肉、ユダヤ的なもの、新生していない生まれながらの一切のもの)を頼みとしない者たちである。主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものが決してあってはならない。
パウロにとって、神に対して人間的なものであり、キリストを知ったがために、損(全く価値のないもの)と思うようになったこととは、生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族(ベニヤミン族)に属し、生粋のヘブル人で、律法を守ることに最も厳格なパリサイ派として、熱心に生活してきたという、血統と経歴だった。
パウロは、主キリスト・イエスを知っていることの素晴らしさ(絶大な価値)のゆえに、一切のことをつまらぬものと思い、キリストのために全てのものを捨てて、塵芥(廃物同然、糞土)と思った。それは、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義によって、キリストと結ばれるためであった。
同じように私たちも、主イエス・キリストを知る素晴らしさに満たされる時、キリストが全てとなり、人間的なもの(肉)を捨てることができる。そして、霊とまことによって神を礼拝する、真の礼拝者となるのである。 |
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| 6月24日 |
【キリストを復活させた超自然の力】 ピリピ3:10-21 |
パウロの願いは、更に深くキリストの素晴らしさを知ることであり、キリストの苦しみに与り(ギリシャ語のコイノニア:一緒に結ばれる)、生まれながらの利己的な自分に死んで、キリストを復活させた超自然の力を体験し続けることであった。そのようにして、死者からの復活(救いの完成)に達するのである。
パウロはキリスト・イエスに捕らえられ、神の栄冠(賞)を得るという一事に励んだ。すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、目標を目ざして一心に走り続けたのである。それが、成人(完全)である者の考え方である。私たちは、既に達しているところを基準として、更に神の啓示によって成長しよう。
パウロは、ピリピ教会の兄弟たちに、自分を模範とするように、また、自分たちを一緒に手本として、十字架の道を歩んでいる人たちに目を留めるように語った。なぜなら、多くの人々が、キリストの十字架の敵として歩んでいたからである。彼らの一番の関心事は、自分たちの生活のことであり、彼らの思いは地上のことだけであった。欲望(腹)の満足を神とする人々の最後は、滅びである。
しかし、私たちの国籍(本国)は天国にある。私たちは、天にある神の共同体の市民として、天国の原理(いのちの御霊の原理)に従って生活する。天から主イエス・キリストが救い主として再び来られるのを待ち望みつつ、神の御心を行なうことを喜びとし、食物として生きるのである。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる超自然の力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる。 |
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