エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2005年11月
11月6日 【十字架上で完了した救い】  ヨハネ19:17-30
 十字架刑は、イタリヤ以外で、ローマ人以外の、最低の身分の犯罪人と極悪人にのみ課せられる、極刑であった。十字架につけられるために引き渡されたイエスは、ご自分で十字架を負って、ゴルゴタに出て行かれた。

 イエスは実に、十字架上で死なれて、全ての人の救いを完了するために、世に来られたのである。

 十字架の上には、「ユダヤ人の王ナザレ人のイエス」という罪状書きが、ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で掲げられた。ユダヤ人は宗教、聖書の土台において、ローマは文明、政治、道(全ての道はローマに通ず)において、ギリシャは文化、言語において、世界宣教に貢献した。

 囚人には四人一組のローマ兵がついていた。兵士たちはイエスの十字架の御許で、イエスの着物を分け合い、下着のためにはくじを引いていた。

 彼らは自分たちの目の前に、救い主イエスが十字架につかれ、自分たちの罪のために血を流してくださっているのに、まるで無関心であり、むしろ物質的なものに心を向けていた。これは、イエスを生活の中心から退け、世のものを愛している、現代の人々の罪の姿でもある。

“ 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。”Tヨハネ2:17

 それとは対照的に、十字架の御許にまでイエスに従った四人の女とヨハネいた。イエスは十字架上でも、他者に対して愛の配慮をされ、母マリヤに救い主として、「女の方。」と話しかけられた。イエスは十字架の御許で、新しい神の家族の親子として、マリヤとヨハネを結びつけられた。

 神の御心を行なう者たちは、神の家族であり、そこにはキリストへの忠誠という一致がある。それが、キリストの教会の姿である。

 イエスが復活された後には、イエスの母マリヤだけではなく、イエスの兄弟たちも信者となった。キリストの血による、血縁関係を越えた神の国の関係をもつ、教会に植えられたのである。

 イエスはヒソプの枝(過越の小羊の血をつけるのに用いられた)によって、苦き杯を飲み干された。イエスは十字架上で、救いの御業を成し遂げられて、「完了した。」と言われた。御子イエスの尊い血によって、全人類の罪の代価が支払われ、永遠の贖いが完了したのである。

 それは、聖書の御言葉の成就であった。この良き知らせを全ての人に宣べ伝え、イエスの十字架の目的である栄光の教会を建て上げよう。
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11月13日 【十字架の御許に引き寄せられた弟子たち】  ヨハネ19:31-42
 ユダヤ人たちは安息日に、死体を十字架の上に残しておかないように、取りのける処置をピラトに願った。兵士がすでに死んでおられるイエスのわき腹を槍で突き刺すと、ただちに血と水が出て来た。

 血と水は霊的には、罪を贖う御子イエスの血による義認と、新しいいのちを与える聖霊による聖化を表わす。小羊イエスの花嫁なる教会は、最後のアダムであられるイエスのわき腹から、代価を払って買い取られたのである。キリストがそうされたのは、栄光の教会をご自分の御前に立たせるためであった。

 十字架は、聖書の中心的な出来事であり、真実である。イエス・キリストの十字架の福音は、信じる者に罪からの救いと永遠のいのち得させる、唯一の道なのである。

 イエスの弟子であり、有力な議員であるアリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトに許可を得て、イエスの御からだを取り下ろした。彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった、りっぱな正しい人であり、神の国を待ち望んでいた。

そして、イエスの弟子であることを公然と証しし、イエスを園の岩を掘って造った新しい墓に納めた。まだ誰も使っていないものは、神のために聖別されていることを表わす。

 岩なるキリストの十字架の死の上に、教会は建てられ、エデンの園における、神との愛の交わりが回復した。

 パリサイ派のニコデモも、高価な没薬とアロエを混ぜ合わせたものを多量に持って、やって来た。イエスの十字架の愛に引き寄せられ、イエスへの全き愛がユダヤ人への恐れを締め出し、大胆な信仰の証しがなされた。彼らは、イエスの御からだに対して、永遠に残る愛の記念となる奉仕をしたのである。

 イエスは犯罪人として十字架で処刑されたが、王として葬られた。キリスト者の葬儀と埋葬も、公然たる信仰の証しとなり、キリストの御からだなる教会への愛の奉仕となる。キリストとともに永遠に生きる将来に目標を置き、走るべき行程を忠実に全うしよう。
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11月20日 【復活されたキリストの使者として】  ヨハネ20:1-18
 七つの悪霊を追い出して頂いたマグダラのマリアは、イエスが十字架で死なれて三日目の日曜日、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。マリヤは、イエスの福音宣教の旅に同行し、イエスの十字架の御側にもいた、主を深く愛する弟子であった。

 墓からは石が取りのけてあったので、彼女はイエスの遺体が誰かに取って行かれたと思い、ペテロとヨハネのところに走って行き、そのことを伝えた。イエスのからだに巻かれていた布が、そのままの形で墓の中に置かれていた。ヨハネはそれを見て、神がイエスを復活させられたことを信じた。それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行ったが、マリヤは墓のところで泣いていた。

 二人の御使いとイエスが、マリヤに「なぜ泣いているのですか。」と同じことを尋ねた。マリヤは悲しみに沈み込んでいたので、話しかけている相手が、御使いとイエスであることがわからなかった。

 神がわからなくなる世の悲しみは、自己中心であり、死をもたらす。それは泣く時ではなく、復活のイエスに出会って喜ぶ時であった。

 同様に私たちも、いつも主にあって喜ぶこと、何も思い煩わないで感謝をもって祈ること、賞賛に値することに心を留めることを、命じられている。

 またイエスは、「誰を捜しているのですか。」とマリヤに言われた。マリヤは、イエスの死体を捜していた。しかし、よみがえられたイエスが、そこにはおられたのである。

 死なれているイエスや、イエス以外のものを求めるのではなく、今生きておられるイエスご自身を求めることが大切である。園における復活のイエスと出会いによって、神と人との交わりは回復した。

 最初に復活のイエス出会ったマリヤに与えられたのは、イエスにすがりついてイエスの昇天を妨げることではなく、行ってイエスが昇天されることを弟子たちに告げる使命であった。マリヤは行って、主との出会いとその御言葉を弟子たちに告げ知らせた。神の恵みと祝福に伴う責任を果たし、キリストとの出会いと御言葉を証しする福音宣教に励もう。
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11月27日 【イエス・キリスト・神の御子・救い主】  ヨハネ20:19-31
 イエスは復活された日曜日の夕方、ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた弟子たちの所に、「平安があなたがたにあるように。」と言われて、お現われになった。イエスが残された平安は、完全な勝利の平安である。イエスの復活の御からだには、十字架の傷跡が残されてたが、戸が閉められていても、通過できた。

 弟子たちは、主を見て喜んだ。私たちの平安と喜びは、イエスにある。

 イエスは弟子たちに、御父がイエスを遣わされたように、イエスも弟子たちを遣わすと言われ、彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい。」と言われた。遣わされたイエスの特徴は、御父に対する完全な服従と、完全な自己犠牲の愛であった。キリスト者は聖霊が臨むと力を受け、地の果てにまで遣わされ、キリストの証人となる。心に悔い改めがあり、イエスを信じる者は、罪が赦され、永遠のいのちを受ける。しかし、心に何の悔い改めもなく、イエスを信じない者は、罪が赦されず、自分を裁きに定めることになる。

 弟子たちは、その時一緒にいなかったトマスに、「私たちは主を見た。」と言い続けた。キリストとの出会いは、証しの力となる。イエスの御名によって、呼び集められた教会には、主との特別な出会いの祝福がある。イエスは弟子たちへの二度目の顕現の時、イエスの復活を見て信じたトマスに、「見ずに信じる者は幸いです。」と言われた。見ずに信じる者とは、イエスの昇天後、福音を聞いてイエスを信じる者たちである。彼らは霊の目が開かれ、イエスと出会うことができる。

 イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも同じである。今日、キリストの弟子たちのしるしを伴う福音宣教によって、キリストの御業は教会の完成に向かい、更に増大している。ヨハネの福音書は、イエスが神の御子キリストであることを人々が信じ、イエスの御名によって永遠のいのちを得るために書かれた。聖書は、人々がキリストに対する信仰によって救いを受け、キリストの弟子として成長し、全ての良い働きにふさわしい十分に整えられた者となるために、記されたのである。

 そのように、聖書をはじめ、あらゆるメディアを用いた伝道は、全世界の全ての人に福音を宣べ伝え、キリストの弟子とするために有益である。神から与えられたあらゆる賜物と機会を用い、御言葉を至る所で宣べ伝えよう。
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