エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2005年10月
10月2日 【大祭司なるキリストの祈り@】  ヨハネ15:1-26
 イエスは十字架の時を前に、目を天の御父に向けて言われた。この「大祭司の祈り」の第一は、ご自身のための祈りであった(1節〜5節)。イエスは十字架に上げられることによって、神の栄光で輝かせてくださいと祈られた。

 十字架は「天上のこと」であり、神の栄光の現われである。イエスは十字架の死にまでも従順に従われ、高く上げられ、神の右の座に着座された。私たちは上にあるものを求め、天にあるものを思うようにと命じられている。イエスは地上で神の御業を成し遂げられ、神の栄光を現わされた。神を愛し、自分に与えられた神の御心を忠実に行ない、完成されたのである。

 キリスト者は神のものであり、神のご支配の中に置かれている。永遠のいのちとは、唯一まことの父なる神と、神の遣わされたイエス・キリストとを、絶えず増大する経験として知ることである。

 人間は本来、神の似姿として、神との継続的な一致と交わりをもつ愛の関係に生きる者として創造された。悪魔の惑わしによって人間が罪を犯し、壊された神と人との親しい信頼関係は、キリストの十字架の贖いによって回復された。

 神の国は今、私たちのただ中に来ている。キリスト者は聖霊の宮として、キリストの似姿へと変えられいき、神の御心を行ない、神の栄光を現わす存在である。

 イエスから目を離さず、イエスを模範として、自分自身と教えることによく気をつけ続けるなら、自分自身をも、教えを聞く人たちをも救うことになる。キリストの御からだなる教会は、神ご自身の満ちておられるところである。
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10月9日 【大祭司なるキリストの祈りA】  ヨハネ15:1-26
 イエスは第二に、世のためにではなく、弟子たち(教会)のために祈られた(6節-19節)。「神にとって、教会以上に大切なものは、この地上に存在しない。」

 弟子たちは世から取り出され、神のものとされ、イエスによって、神の御名を明らかにされた。イエスが御言葉をお与えになった弟子たちは、御言葉を守り、イエスの栄光を現わすと、イエスは弟子たちを信頼して語られた。

 主の教えを喜びとし、御言葉にとどまる人は、豊かな実を結ぶ、幸いな人である。それは、イエスの十字架の愛に応答した、イエスの十字架の愛を継承する人生であり、弟子たちの中で、キリストの喜びは全うされる。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えよう。

 弟子たちは神と一つとされ、悪い者から守られ、御言葉によって、神の働きのために聖別された者たちである。そして、キリストが世に遣わされたように、神の使命を忠実に果たすために、世に遣わされている。天に住む者たちが、世の光、地の塩として、世に存在しているのである。

 地域教会を通し、神の国は建設される。愛と献身をもって、神の御心に従い、魂をキリストの救いに勝ち取ろう。
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10月16日 【大祭司なるキリストの祈りB】  ヨハネ15:1-26
 イエスは第三に、弟子たちの言葉(宣教の言葉と聖書)によって、イエスを信じる人々のために祈られた(20節-26節)。弟子たちがキリストにあって全うされて一つになることによって、世の人々はキリストを信じ、神の愛を知ることができる。

 教会は、御霊と信仰とキリストに関する知識の一致の中に完成される。神の御心である十字架の道への完全な服従のうちに、キリストの愛の姿と神の栄光を現わすことができる。キリストが愛されたように、互いに愛し合う兄弟愛は、キリストの弟子であることの証しである。

 キリストの教会は、キリストとともに十字架で死に、ともによみがえらされ、ともに天のところに座らせられた存在である。心のきよい(純粋で二心のない)者は、十字架にまで従われたキリストの栄光を見る。天に属する者として、キリストを見る時、鏡のように栄光から栄光へとキリストの似姿に変えられていき、神と教会が一つとされる。

 世の人々の神に対する無知は、闇であり、滅びであり、死である。しかし、キリストが知らせ続けておられる教会の神の栄光を知る知識は、光であり、救いであり、いのちである。教会の中には、神の愛があり、キリストがともにおられ、神の国(支配)が来ている。

 キリストを宿す存在として、主なるキリスト・イエスを宣べ伝え続けよう。
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10月23日 【キリストを大胆に告白する弟子になる】  ヨハネ18:1-27
 ユダはローマの軍隊と祭司長たちを引き連れて、イエスを捕えに来た。その時、イエスは、彼らが捜している者は、「わたしである。」と言われ、彼らは後退りして地に倒れた。

 「わたしである。」というギリシャ語の「エゴー・エイミ」は、旧約聖書で神が「『わたしはある』という者である。」と言われた神の御名である。イエスは常に真実であり、ご自身を否むことができない方である。万物は、御子によって、御子のために造られ、成り立っている。

 キリスト者も、人を恐れずに神を恐れ、人の前でキリストへの忠誠を大胆に告白するなら、神の御前でキリストに認められることになる。しかし、キリストを否むなら、神の御前でキリストに否まれることになる。

 偉大な大祭司なるキリストがおられるので、私たちは信仰の告白を堅く保ち、大胆に恵みの御座に近づき、あわれみ、恵み、折にかなった助けを受けよう。

 キリストとともに十字架で死んだのなら、キリストとともに生きるようになり、耐え忍んでいるなら、キリストとともに治めるようになる。イエスを主と告白することは、イエスを唯一の神として受け入れ、自分の生活における最高の地位を与え、王として完全に支配して頂き、自分自身をささげて神に服従する霊的な礼拝者になることを意味する。本当のキリストの弟子は、御言葉を守り行なう者である。

 イエスはご自分が矢面に立たれ、この時まだ聖霊のバプテスマを受けておらず、信仰の弱い弟子たちを守られた。神は真実な方なので、私たちを耐えることのできない試練には会わせず、脱出の道も備えてくださる。キリストと苦難をともにし、キリストとともに栄光を相続する者とされよう。

 ペテロは剣を抜いて撃ち、神の方法である十字架とは異なる行為をし、イエスに「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」と言われた。私たちの格闘は、血肉に対するものではない。

 この時にあった「二振の剣」とは、「キリストと同じように、神のために苦しみを受けようとする心構え」と「自分の罪を断ち切ること」を意味することを、後にペテロは聖書に記した(Tペテロ4:1)。

  イエスは、大祭司による不当な裁判に、証人を立て、悪いなら証拠を示すようにと言われた。大祭司たちは、罪のない方を初めから有罪判決にするために、不法と暴力をもって臨んだ。
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10月30日 【十字架への勝利の凱旋】  ヨハネ18:28-19:16
 イエスは十字架に上げられ死なれるために、ローマ総督ピラトの前に連れて行かれた。キリストは私たちのために、木にかけられて呪われた者となり、私たちを罪の呪いから贖い出してくださった。このことによって、アブラハムへの祝福が異邦人に及び、約束の御霊を受けることができるようになった。

 キリストを王とする御国(支配)は、この世のものではなかった。イエスは真理を証しするために生まれ、世に来られた。真理に属するものは皆、御言葉に聞き従う、キリストの弟子である。

 ピラトはイエスに罪はないことを、三回にわたってユダヤ人たちに宣言した。そして、過越の祭りに一人の人を釈放するならわしに、彼らが政治犯として告発した「ユダヤ人の王」を釈放しようかと言った。しかし、ユダヤ人たちは大声をあげてイエスを拒み、強盗であるバラバを選んだ。

 バラバは、イエスによって救われた罪人の象徴である。悪魔の支配下にある古い人から解放され、新しい人キリストのご支配に移されて生きることが、常に大切である。

 続けてピラトは、イエスを残酷なローマ時代のむち打ちにし、いばらの冠と紫色の着物を着せた状態で、ユダヤ人たちの前に連れ出し、「この人を見よ。」と言った。イエスこそが、世の罪を取り除く過越の小羊の本体であられた。

 過越の食事のために汚れまいとして、異邦人の官邸に入らなかったユダヤ人たちは、「神の御子」であられるキリストを十字架につけて殺した。裁き主であられる方を律法によって裁き、有罪にしたのである。

 イエスは故意に犯される罪に対しては、もはや沈黙されたが、ピラトの権威は神から与えられたものであると言われた。イエスには、十字架で死なれる権威があり、復活される権威があられた。神によらない権威はなく、権威を正しく用いなければならず、神が立てられた権威には従わなければならない。この神の定めに背く人は、その身に裁きを招く。

 また、イエスはピラトにイエスを渡した者に、もっと大きな罪があると言われた。神の選びと特権、恵みと使命には、大きな責任が伴う。神を恐れ、神の権威に従って、忠実に自分に与えられた任務を果たそう。

 ユダヤ人たちはまた、イエスを釈放するなら、ピラトはカイザル(ローマ皇帝、当時、神ともされていた)の味方ではないと言い出し、ピラトの弱みにつけ込んだ。更に、イスラエルの王は神であるにも関わらず、「カイザルの他に、私たちに王はない。」と言って、イエスを除いて十字架につけるように激しく叫んだ。

 ピラトは自分の職務を保持しようして、もはやイエスの側には立たず、イエスを十字架につけるために、彼らに引き渡した。キリストが王となることを望まなかった人々は、その言葉によって裁かれることになった。

 エルサレムは神の訪れの時と平和を知らなかったので、歴史の中で裁かれた。しかし、悔い改めてイエスを信じるなら、全ての人に回復が約束されている。キリストを王とする心に、神の国は来ており、真の平和が実現する。キリストを王とする御国の前進のために、教会を建て上げ、宣教に励もう。
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