エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2005年9月
9月4日 【キリストにとどまり、多くの実を結ぶ弟子】  ヨハネ15:1-11
 キリストはまことのぶどうの木であり、父なる神は農夫である。「まことの」は、実物、本体、完成、成就を表わしている。弟子たちは、ぶどうの枝である。人はキリストを信じる生きた交わりによって、神との関係が正しくされ救われるのである。実を結ぶものは皆、もっと多くの実を結ぶために、父が刈り込みをなされる。「刈り込みをする」(ギリシャ語のカサイロー)には、「きよくする」という意味がある。刈り込みは、苦難や試練を通して来る。霊的な訓練に服従し、悔い改めと聖霊の満たしに生きる必要がある。キリスト(御言葉)にしっかりととどまることによってのみ、きよくされ、多くの実を結ぶことができる。それはまた、キリストの教会に植えられることを意味する。教会は御言葉により、水の洗いをもって、きよめられ聖なるものとされ、キリストによって、キリストの花嫁なる栄光の教会として整えられ、キリストの御前に立たせられる。教会は世界が終わっても永遠に存続し、その中での弟子の役割も生き続ける。ぶどうの木であるキリストにとどまらないなら、実を結ぶことができず、無用なものとなり、火に投げ込まれて焼かれてしまう。祈りと御言葉を行なう生活によって、多くの実を結び、キリストの弟子となり、父なる神が栄光をお受けになり、キリストの喜びに満たされることができる。「多くの実」とは、御霊の実〜愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制であり、また、行って実を結び、その実が残る、救霊の実である。「キリストの喜び」とは、神の御心を行なうことであり、弟子たちが真理に歩むことである。御言葉に書かれている神の御心を求めるなら、祈りはかなえられる。キリストの愛にとどまる生活とは、キリストの愛の戒めを守る服従の生活である。罪から解放されて、神の奴隷とされた私たちは、聖潔に至る実を得た。その行き着く先は、永遠のいのちである。
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9月11日 【王なるイエスの友と呼ばれる弟子】  ヨハネ15:12-17
 イエスは十字架の死によって示された愛によって、友のためにいのちを捨てる大きな愛の模範を残された。「捨てる」(ギリシャ語のティセーミ)には、「置く」「差し出す」「任命する」といった意味がある。愛の最高の現われは、自分のいのちを惜しまない自己犠牲である。聖書は、特に神の御心を行なう信仰の家族のために、いのちを捨て、善を行なうようにと勧めている。キリストと結ばれ、地域教会に植えられ、キリストが愛されたように、互いに愛し合うなら、キリストを証しし、世に遣わされることができる。愛の御言葉を行なう弟子は、王なるイエスの友と呼ばれる。神の御心を行なう信仰によって、アブラハムは神の友と呼ばれた。「王の友」とは、王の権威に対する服従と、王との親しい交わりが、合わさった関係である。愛は礼儀に反することをしない。また、イエスの友と呼ばれる弟子は、犠牲的な愛の奉仕のうちに喜びを見出す。キリストは主の御心を成し遂げられ、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足された。キリストは主の正しいしもべとして、多くの人の罪を負い、多くの人を義とされた。一粒の麦が地に落ちて死ぬなら、豊かな実を結ぶ。イエスは弟子たちを選ばれ、任命された。それは、彼らが行って実を結び、その実が残るためであり、また、彼らがイエスの御名によって神の御心を求めるなら、何でも父なる神から与えられるためであった。自分のいのちを捨て、自分の十字架を負ってキリストに従い、聖霊によって生きるなら、多くの実を結ぶことができる。教会を通して、神の豊かな知恵が示されることは、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことなのである。 
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9月18日 【苦難の中にあっても、つまずかない信仰】  ヨハネ15:18-16:15
 イエスは弟子たちに、世から選び出されイエスに従うキリスト者であるがゆえに、世から憎まれ迫害されると言われた。イエスの時代のユダヤ人たちは、イエスの話を聞き、イエスの御業を見た上で、理由なしにイエスを憎んだ。知識と特権には、責任と使命が伴う。神を知っていながら、神を神として崇めず、感謝もせず、神を知らない者のように生きる者の罪に、弁解の余地がない。裁きが神の家から始まる時が来ている。義人がかろうじて救われるのだから、迫害を恐れず、むしろ喜んで神を崇め、聖潔に進むことを心がけよう。神の性質をもつ者として、キリスト者は自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るように命じられている。キリストの平安があるように祈るのである。また、善を行ない、祝福し、憐れみ深くし、赦すようにと言われている。キリスト者には、助け主なる真理の御霊によって、キリストを証しする任務がある。イエスがこれらのことを話されたのは、弟子たちが迫害や苦難の中にあっても、その信仰が挫折しないためである。キリスト者は信仰とともに、苦しみをも賜った。キリストにあって敬虔に生きようと願う者は皆、迫害を受ける。迫害は、信じる者には救いのしるしであり、反対者には滅びのしるしである。苦難の時には、栄光の御霊がとどまってくださる。聖霊は人々に、自己中心でキリストを信じず、十字架につけた罪について、キリストの全き義について、神の裁きがあり、悪魔が裁かれたことについて、認めさせて救いに導いてくださる。聖霊はキリストの全ての真理を明らかにされ、神の栄光を現わされる。キリストの十字架と復活の御業によって、キリスト者は罪から救われ、御国を相続する者とされた。キリストの昇天によって聖霊が派遣され、三位一体の神がキリスト者とともに住まわれる。キリストの御業は聖霊によって継承され、世界中に拡大し続けている。聖霊の器として、今、この国にあっても、キリストの御業を行ない、豊かな実を結ぶ者とされよう。
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9月25日 【キリストにあっては勝利と平安】  ヨハネ15:16-33
 イエスは弟子たちに、しばらくするとイエスを見なくなるが、またしばらくするとイエスを見るということの意味について語られた。イエスが十字架で死なれると弟子たちは嘆き悲しむが、イエスともう一度お会いする時、弟子たちの悲しみは喜びに変わり、その喜びを奪い去るものはない。女は子を産む時には苦しむが、子を生んでしまうとひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦しみを忘れてしまう。そのように、キリストは十字架の激しい苦しみを通して、新しいひとりの人なるなる教会が世に誕生し、多くの人が水と御霊によって新しく生まれることを喜ばれているのである。そして、私たちもキリストとお会いし、神と一つにされ、三位一体の神がともに住まわれることを喜んでいる。神の国は、私たちのただ中にある。神の御心にかなった悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、神に対する熱心を起こさせるが、世の悲しみは死をもたらす。キリストを信じる信仰ゆえの様々な苦しみは、将来の栄光に比べれば取るに足りない。真理の御霊が、私たちを全ての真理に導き入れてくださる。私たちは、キリストの十字架によって、まことの聖所への道が開かれ、大胆に恵みの御座に近づくことができる、救いの日に生かされているのである。イエスは、今、信じると言っても、聖霊のバプテスマをまだ受けていない弟子たちが、イエスをひとり残して散らされ、古い生活に舞い戻ることを知っておられた。しかし、イエスはいつも御父とともにおられたので、おひとりではなかった。キリスト者は、世にあっては患難があるが、キリストにあっては勝利と平安がある。私たちは、私たちを愛してくださったイエスを信じる信仰によって、様々な困難の中にあっても、圧倒的な勝利者とされ、凱旋の行列に加えられたのである。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」ヨハネ1:5 「死は勝利にのまれた。」Tコリント15:54 
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