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| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
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| 2005年8月 |
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| 8月7日 |
【イエス・キリストの愛の模範】 ヨハネ13:1-20 |
| キリストはご自分が十字架で死なれる過越の祭りに、弟子たちにその愛を残るところなく(最後まで、完全に)示された。過越の食事に、イエスは十字架の死と復活、昇天によって、父が万物をご自分の手に渡されたことと、父から来て父の御許へ行くことを知られた。イエスは夕食の席から立ち上がり、上着を脱ぎ(捨てる:十字架の死を表わす)、奴隷がする足を洗う仕事を、弟子たちになされた。ペテロはイエスが足を洗う意味がわからず、逆ではないかと思い拒絶したが、もし洗わなければ何の関係もないと言われ、その愛の行為を受け入れた。水浴した者は全身きよいが、外を歩くと足だけは汚れるので、洗わなければならない。ここに罪をきよめるイエスの洗いの一回性が強調されている。イエスはご自分の血によって、ただ一度まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げてくださった。しかし、信仰によって義とされた後も、日々の歩みの罪を告白し、御子イエスの血によってきよめられなければならない。イエスとキリスト者との愛の関係は、キリスト者がイエスの十字架の死と復活のいのちに生き続けることによってのみ保たれる。イエスは弟子たちの足を洗い終わると、上着を着けて(得る:復活を表わす)、再び席に着かれた。そして、愛と謙遜を表わされたイエスの模範に従い、互いに足を洗い合うようにと言われた。キリストは人々に仕え、ご自分のいのちを与えるために、来てくださった。イエスが愛されたように、互いに愛し合いなさいというのが、イエスの新しい戒めである。キリストを恐れ尊んで、互いに謙遜を身につけ、へりくだって仕え合い、兄弟を愛するのである。イエスの愛を知っている者が、それを御霊によって行なうなら、祝福される。私たちはキリストの大使であり、神から出た新しく造られた者として、十字架の言葉を委ねられ、遣わされている。この栄誉と責任のある仕事を忠実に行ない、人々を神の和解に導こう。 |
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| 8月14日 |
【十字架の栄光の時】 ヨハネ13:21-38 |
| イエスは霊の激動を感じ苦しまれて、ユダの裏切りについて語られた。イエスはラザロの死と十字架に対しても、心の動揺を感じられ、苦しみを受けられた。キリストは御子であられるのに、多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従う全ての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって大祭司と呼ばれた。ユダは表面的には忠実な弟子の振舞をしていたが、心には悪魔によってイエスを売ろうとする思いを入れられていた。ユダの罪は、計画的で故意に犯す重い罪であった。イエスはユダが裏切ることを知っておられ、キリストを裏切るような人間は呪われる、生まれなかった方が良かった、きよくない、悪魔だと語っておられた。神を知ろうとせず、悔い改めないで、罪を犯し続ける者は、サタンに引き渡され、裁かれることになる。イエスはそのようなユダの足を洗われ、過越の食事で、おそらくイエスの左側の最上の席にいたユダに、パン切れを浸して渡された。パン切れを浸して渡すという行為は、主人が客に親愛の情を表わし、特別な好意を示すもてなしの行為であった。そのようにして、イエスはユダに、悔い改めを迫る愛の訴えをされた。ユダには悔い改めのチャンスが提供され続けたが、主の愛に対して無感動、無感覚であり、聞く耳をもたなかった。イエスの愛と御言葉を退ける者は、悪魔を選び取り従っており、救いの道が閉ざされることになる。しかし、御霊が諸教会に言われることに聞き従い、キリストと御言葉にとどまるなら、悪い者から守られ、勝利を得ることができる。神への愛と従順による十字架の時は、神の栄光の時である。キリストのためにいのちを捨てることは、神の栄光となる。イエスが愛されたように、自己犠牲の愛で互いに愛し合うという、イエスがお与えになった新しい戒めは、永遠に価値のある生き方、教会の本質、また証しである。人がその友にためにいのちを捨てるという、大きな愛を行なうなら、その人はイエスの友とされる。今、聖書に書かれている神の御心を知り、イエスに従う者となろう。イエスは、私たちが天の父の御許へ行く、唯一の道であられるからである。 |
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| 8月21日 |
【父の御許へ行く道】 ヨハネ14:1-14 |
| イエスは、「心を騒がせず、神とわたしを信じなさい」と言われた。ヘブル語のシャローム「平安・平和」は、祝福、健康、安全、幸福、繁栄、休息、全体、統一などの概念を包括する、力といのちに溢れた動的な言葉であり、その語源は「完全」である。「平和の君」「力ある神」であられるキリストを王として心に迎え入れ、聖霊によって生きるなら、平安な人生がもたらされ、神の御心を実現することができる。イエスは天の父の家に住まいを用意して、再び私たちを迎えに来てくださる。私たちは、天に永遠の家と国籍をもつ者として、救い主を待ち望みつつ、十字架の道を歩もう。イエスは父の御許へ行く唯一の道、また、真理、いのちであられる。主は、私たちの魂を生き返らせ、御名のために、義の道に導いてくださる。父なる神と御子イエスは、一つの神であられる。三位一体の神において、キリストは「永遠の父」とも呼ばれ、聖霊は「父の御霊」「イエスの御霊」とも呼ばれている。イエスは父なる神を説き明かされ、御霊はイエス・キリストを啓示され、神の栄光を現わされる。イエスは、「わたしを信じる者は、わたしの行なう業を行ない、またそれよりも更に大きな業を行ないます」と語られた。イエスの弟子たちは、イスラエルにだけ遣わされたイエスより、全世界に福音宣教をする、影響力の及ぶ範囲において、大きな働きをし、世界宣教の実を結ぶ。その御業は、イエスの御名によって求める祈りと聖霊によって、行なわれる。イエスの御名による祈りとは、イエスの御心にかなう祈りである。父なる神は、いつもイエスの願いを聞いてくださった。イエスが父の御心を祈られたからである。また、神は偉大なご自身の聖なる御名を惜しまれる。だから、神への信仰と従順と献身に伴う、神の御心にかなう祈りは聞かれるのである。イエスの願いとは、聖霊が与えられ、御言葉により、教会をきよめて聖なる栄光の花嫁として、ご自分の前に立たせることである。それは、各地域教会を建て上げる祈りである。 |
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| 8月28日 |
【イエスの御名によって遣わされた聖霊】 ヨハネ14:15-31 |
| 神の御心は、弟子たちが神と愛し合い、イエスが愛されたように、互いに愛し合うことである。そのためにイエスは、弟子たちにもう一人の助け主として聖霊が与えられ、ともに住まわれるように祈られた。助け主(ギリシャ語パラクレートス)は、援助のために側に呼ばれた方、助けるために招き入れられる方、とりなしてくださる方、仲保者、弁護してくださる方を意味する。イエスは「不思議な助言者」と呼ばれる。イエスは弟子たちを捨てて孤児にはせず、戻って来られると言われた。それは、父なる神がイエスの御名によって遣わされた、もう一人の助け主、聖霊によって成就した。真の愛は、全き服従によって証しされる。イエスの戒めを守る人は、御父と御子に愛され、キリストが現われ、三位一体の神がともに住まわれる。イエスを愛して、御言葉に従順に従っていなければ、キリストが啓示され、神がともに住まわれる生活は送れない。神の啓示、神との交わりは愛に基づき、愛は服従に基づくのである。イエスが残された平安は、状況に左右されない平安であり、全てを克服する、十字架による勝利の平和である。この平安は、主イエス・キリストにあって救いを得ている者に与えられる。救われる(ギリシャ語ソーゾー)には、いやされる、解放される、保たれる、完全にされるという意味がある。イエスは弟子たちに、「わたしを愛しているなら、わたしが父の許へ行くことを喜ぶはずです」と言われた。イエスは十字架で死なれ、復活された後、昇天され、御父の右の座に着かれた。神は、キリストを高く上げて、全ての名にまさる名をお与えになった。天に国籍をもつ私たちは、天が開かれた価値観をもって、地上生活を準備期間として過ごさなければならない。イエスの十字架によって、悪魔は追い出され、滅ぼされた。それは、人々を罪と死から解放するためであった。十字架は、キリストの御父への愛と従順、また人々への愛の表われであった。 |
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