エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2005年7月
7月3日 【キリストを信じる生きた信仰】 ヨハネ11:1-29
 ベタニヤのマルタとマリヤの兄弟ラザロ(ヘブル語エレアザル「神は助けられた」のギリシャ語訳)が、病気にかかっていた。イエスは、この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光と御子の栄光のためのものであると言われた。このヨハネの福音書の第七のしるしは、イエスの十字架と復活を証しするものであり、イエスの栄光である十字架につけられる時が決定的になる出来事であった。イエスはマルタたちを愛しておられたので、ラザロが病んでいると聞かれても、なお2日とどまられて死が確実な事実になってから、「もう一度ユダヤに行こう」と言われた。弟子たちは、たった今、ユダヤ人たちがイエスを石打ちにしようとしていた所に、またおいでになるのですかと言った。イエスの関心事は、神の時に神の御心に従い、ラザロをよみがえらせることであったが、弟子たちの関心事は、イエスと自分たちの身の安全であった。イエスの弟子、イエスの家族とは、神の御心に従う者たちである。その時、真に神と一つとされ、弟子たちも一つとなることができる。イエスは、受難前の公的宣教期間には、妨害されずに働くことができると言われた。貴重な時間を浪費せず、キリストを見ている神との正しい関係において、本質的な神の使命を果たすことに、限られた昼間の時間を費やさなければならない。キリストなしの人生は、悪魔に支配された人生であり、夜歩いてつまずくことになる。ラザロの復活は、弟子たちの信仰教育と人々の救いのためでもあった。弟子たちはいのちをかけて、イエスに従った。イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて4日もたっていた。出迎えたマルタは思い上がってイエスに不平を言ったが、神は最も良い方法で祈りに応えてくださるのである。マルタは終わりの日にはよみがえるという正しい教理をもっていたが、ラザロの死という現実問題には役に立たない死んだ信仰であった。しかしイエスは、生きていてイエスをよみがえり、いのちと信じるなら、現実問題の死にも勝利することができると言われた。キリストを信じる生きた信仰と聖霊によって、今、神の豊かな永遠のいのちをもつ超自然的な生き方をすることができるのである。永遠のいのちは現在化する。今、死からいのちに、暗闇から光に、悪魔の支配から神の支配に移されている。古い人に死に続け、新しい人キリストのいのちが栄える幸いな人生を歩もう。
メッセージのトップへ戻る
7月10日 【キリストを信じるなら、神の栄光を見る】  ヨハネ11:30-57
 イエスはマリヤたちが泣いているのをご覧になると、死の力をもつ悪魔に対して霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、涙を流された。偉大な大祭司であられる神の子イエスは、罪は犯されなかったが、全ての点で私たちと同じように試みあわれたので、私たちに同情することがおできになられる。イエスは、あわれみ、恵み、折にかなった助けを与えてくださる方である。キリストを信じるなら、神の栄光を見る。人々はイエスに命じられ、墓の石を取りのけた。ラザロはイエスの言葉によって復活し、人々に顔や手足に巻かれた布を取ってもらった。イエスの涙やラザロの復活を見て、人々は二分された。同じキリストを体験しても、二種類の人に分かれる。一方は、キリストの愛、救い、恵み、あわれみ、祝福を素直に受け入れる、空の器の人であり、もう一方は、目の前にキリストがいても、その事実と意味を素直に受け入れない、心のねじけた人である。その人は、心に悪意と不正のパン種をもっている。その人は、主との隔ての罪を告白し、悔い改めなければならない。「あなたはいのちを選びなさい」と命じておられる神に、与えられている自由意志をもって、応答するのである。神と自分との愛の関係を確立し、聖霊によって神の御心を行なう人生を歩もう。ユダヤの最高議会の指導者たちは、イエスの言葉や御業の正しさではなく、暴動を恐れた。彼らにとって、自分たちの安全と特権と自由を守ることだけが、判断の基準であった。それは、伝統的なユダヤ教の権威であり、また大祭司たちサドカイ派にとっては、富と安逸と宗教的・政治的・社会的権力者としての地位と威光であった。大祭司カヤパは、ただ自分たちの利得だけを打算的に求め、「一人の人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びない方が、あなたがたにとって得策だ」と言った。そこで彼らはその日から、イエスを殺す計画を立てた。カヤパの言葉は、イエスがイスラエルと散らされている神の子たちを一つに集めるために、死のうとしておられることを預言したものだった。キリストを信じるなら、ユダヤ人だけではなく、異邦人も神の子とされ、ともに一つに集められて御国を受け継ぎ、神の栄光を誉めたたえる者となる。このあらかじめ定められた神のご計画を知り、地球規模の幻をもって、地域教会を建て上げ、再臨の主イエスをお迎えする準備をしよう。私たちの全生活がキリストへの愛に満ち、神の栄光を現わすものとされるように!
メッセージのトップへ戻る
7月17日 【純粋な香油のかおりで満ちた家】  ヨハネ12:1-11
 イエスは過越の祭りの6日前にベタニヤに来られ、人々はイエスのために晩餐を用意した。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロもいて、マルタは給仕していた。マリヤは、非常に高価な純粋なナルドの香油300グラム(300デナリ)をイエスに注ぎ、家は香油のかおりでいっぱいになった。それは、キリストの愛を知った者の純粋な愛の応答であり、精一杯の感謝の表現であった。香油は当時の嫁入り道具であり、300デナリは労働者の1年分の給料であったが、惜しみなく注ぎ出された。イエスは、マリヤの打算なき愛の行為を、「わたしに対して自分にできる最善の奉仕をささげ、埋葬の用意にりっぱなことをしてくれた。世界中の福音の語られる所ではどこででも、この人のしたことも語られて、この人の記念となるだろう。」と語られた。「人はいつでも、最高のものを最愛の人にささげる。愛の香りは、永遠に生きるキリストの御からだとともに永遠に続く」、愛は決して絶えることがない。ここに、真の礼拝者の姿がある。キリストの十字架の愛を前にして、キリスト者の献身に行き過ぎはない。香油の壺が割れていないと、完全に香油は注ぎ出されない。割れていない壺とは、砕かれていない心、主にささげていない心、神に明け渡さない心であり、香油とは、愛であり、聖霊である。弟子たちはマリヤを見て憤慨し、イエスを裏切ったユダは、「なぜ、この香油を売って、貧しい人に施さなかったのか。」と言ったが、それは彼が盗人であり、いつも預かっていた金入れから盗んでいたからであった。人間の判断は、その人の価値観に起因している。ユダは神と人を欺き、金銭を愛して生きていた。マリヤは純真な動機をもって、この時限りのチャンスをとらえた。キリストの十字架の愛を前提とし、キリスト(の御からだなる教会)への奉仕のチャンスを逃さず、聖霊によって最良の奉仕を通し、キリストへの愛を実践しよう。キリストの教会が、純粋な愛のかおりでいつも満ちあふれるように!復活したラザロは、キリストのいのちを身をもって証ししていた。人々は彼の姿に、キリストの栄光を見た。彼のために、多くのユダヤ人がイエスを信じるようになったので、復活を信じない祭司長たちは彼も殺そうとした。神の小羊イエスの血と自分たちの証しの言葉と死に至るまでいのちを惜しまない信仰によって、悪魔に打ち勝つキリスト者となろう。
メッセージのトップへ戻る
7月24日 【一粒の麦となる十字架】  ヨハネ12:12-33
 過越の祭りに、礼拝のために多くの人々がエルサレムに上って来た(一説によると270万人)。彼らは、イエスが来られると聞いて、しゅろの枝を取って、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と大声で叫んで出迎えた。この言葉は、仮庵の祭りの時に、メシヤを待望して歌われる詩篇118篇からの告白である。ゼカリヤ書に記されている預言のとおり、イエスは柔和な平和の君として、ろばの子に乗って来られた。幾人かのギリシャ人が、イエスを求めてやって来た。すると、イエスは重要な真理を語られた。“一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。”
一粒の麦は、イエスの十字架と葬りと復活のことであるが、同時にキリスト者にも語られている真理である。それは、キリスト者がイエスとともに十字架につけられて葬られ、イエスの復活のいのちに生きることを意味する。新しいいのちは、死によってのみもたらされる。私たちが古い人に死ぬなら、新しい人キリストによって、聖霊の宮として、天上のかたちをもつ者とされる。自己保身的な人はいのちを失い、キリストのためにいのちを失う人は、永遠のいのちの祝福を頂く。いつもイエスと行動をともにし、イエスに仕える者に、父なる神は報いてくださる。「十字架の道とは、自我を取り扱われ続ける一本の道である。」 「殉教者たちの血は、教会の礎である。」永遠のいのちに至る霊性とは、自己中心な生活を放棄し、教会でイエスに仕えるものである。毎日の生活の中で、主のためにいのちを捨てる祭壇を築くなら、祝福されて、イエスのいのちが満ち溢れる者となることができる。イエスは十字架で死ぬという神の御心を行なわれるために、この地上に来てくださった。この十字架こそが、神の栄光、勝利、人々の救いの唯一の道なのである。
メッセージのトップへ戻る
7月31日 【イエスの栄光を見たから】  ヨハネ12:34-50
 イエスのことを理解しない群衆に対し、イエスは、光がある間に光を信じて歩みなさいと言われた。それは、キリストに倣って、自己保身的な生き方ではなく、一粒の麦となって十字架で死ぬ生き方をすること、自分のためにではなく、キリストと教会のために生きる、目的のある生活をすることを意味する。 光であられるキリストをもたない人生は、闇である悪魔に支配された、目的のない人生である。だから、神の真理を教えられた者として、機会を十分に生かして用いる賢い生き方をしよう。エルサレムの人々は、イエスと多くにしるしを見、その御教えを聞いたにも関わらず、イエスを信じようとしなかった。それは、本人がイエスを信じたくないという、かたくなな意思をもっていて、イエスに対し、無気力、無関心、不信仰、不従順であったからである。このような心の状態を続けていくならば、回心し、いやされることがなく、やがて滅びることになる。そのことを、イエスの栄光を見たイザヤは、預言していた。指導者たちの中にはイエスを信じる者も沢山いたが、彼らは神の栄誉より人の栄誉を愛し、会堂から追放されたくないため、パリサイ派の人たちをはばかって、告白しなかった。しかし、神の側に立って、永遠に対して正しくある方が重要である。隠れキリスト者は神の御心ではない。私たちには、主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならず、国籍を天にもつ者として、キリストの再臨を待ち望む生き方をする必要がある。イエスは、群衆に対する最後のメッセージを大声で語られた。イエスの真実な十字架の愛を与えられたことに対する態度によって、人は永遠に裁かれることになる。イエスは神の試金石である。何度も恵み深い救いを語られたにも関わらず、受け入れなかったこと、神から聞いた聖書のメッセージ、多くの学び、知識によって、神の御心を知っていながら行なわなかったことが、終わりの日の裁きとなる。しかし、御言葉を一心に見つめて行なう人は、祝福される。キリストは、それぞれのしわざに応じて報いるために、永遠の報いを携えて来られる。いのちであられるキリストを選び、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがって生きよう。
メッセージのトップへ戻る