エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2005年6月
6月5日 【神の栄光が現わされるために】 ヨハネ9:1-41
 生まれつきの盲人を見られたイエスに、弟子たちはその原因について、過去の罪に焦点をあてた質問をした。しかし、イエスはご自身に焦点をあて、神の業が現わされるためであると答えられた。罪や問題、過去に支配される生き方ではなく、キリストに対する信仰と従順によって、今から将来、罪から解放され変えられて、神の栄光のために、永遠のいのちに至る生き方ができるのである。主の恵みは十分であり、神の力は弱さのうちに完全に現わされる。神を愛し、神のご計画に従って召された人々には、万事が益となり、御子のかたちと同じ姿となることが定められている。私たちには、この地上に残されている後わずかな間に、神に遣わされた者として神の業を行ない、世の光として神の栄光を現わすという使命がある。盲人は、イエスに言われたとおりに従い、シロアム(遣わされた者)の池に行き目を洗って、いやされた。キリストを信じ従う者には、救いと聖霊が与えられる。メシヤのしるしの目的は、神の栄光と人々の救いである。盲目であった人は、キリストと直接個人的に出会い、神の業を体験したので、霊的な目も開かれた。彼は、イエスに敵対するパリサイ派の人たちの前でも、大胆に神の側に立ち、イエスを証しした。そのために、彼は会堂から追放された。イエスはそのことを聞かれ、彼を見つけ出して、救い主であられるご自身に対する信仰へと彼を導かれた。そして彼は、イエスを拝した。そのように、今もイエスの忠実な証し人に、イエスは現われてくださる。救い主なるイエスを大胆に証しし、礼拝しよう。
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6月12日 【御霊に仕える栄光の務め】 Uコリント3:1-18
 出エジプトしたイスラエルの民に与えられた二枚の証しの板は、それ自体神の作であり、両面から表と裏に神の指で神の字が刻まれていた。このことは、神の良い作品として造られた人間の心に、聖霊によって御言葉が裏表なく刻まれ、御言葉どおりの生き方をして神の証しとなるようにという、神の御心を表わしている。しかし、人間の肉の力によっては律法を守ることはできず、律法を守ることによって救われるという条件付の古い契約は、人間の側から破られてしまった。罪を犯したイスラエルの民は、敵の物笑いとなり、主につくレビ族の剣によって、その日、兄弟、友、隣人の三千人が殺された。しかし、モーセは民の犯した罪のために、神の契約と自分のいのちをかけて、神にとりなしの祈りをささげた。キリストが復活されて50日目の七週の祭り(ペンテコステ)の日に、律法が死んだ石の板ではなく、生きた人の心に、聖霊によって書き記されるという新しい契約が成就し、教会が誕生した。その日、聖霊のバプテスマを受けたペテロの説教によって、三千人の人々がキリストを信じて救われ、バプテスマを受けて弟子に加えられた。キリストは律法を完全に守ってくださり、成就された。新しい契約に仕える御霊に仕える者は、キリストの十字架によって罪赦され、罪の力から解放されて、聖霊の力によって、愛の律法に従って生きる力を与えられる。御霊の務めは、人をキリストによる義と永遠のいのちに定める、永遠の栄光にあふれる務めである。人がキリストに向くなら、おおいが取り除かれて自由にされ、主の栄光を鏡のように反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていく。神と相対する愛の関係によって、神の栄光は解き放たれる。聖霊の満たしの現われは、キリストと教会が一つとされて互いに愛し合うこと、生ける神の言葉の剣を受け取ること、御霊による祈りと賛美、キリストの証人とされることなどである。夏の収穫の始まりとして、二千年前のエルサレム教会が初穂となり保証となったように、教会が更に成長し完成に向かっている21世紀の教会の私たちも、ともに主にささげられて、世の終わりの大収穫の初穂となり保証となろう。
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6月19日 【良い牧者であられるキリスト】 ヨハネ10:1-21
 イエスは、良い牧者についての比喩を語られた。羊は夜になると羊飼いによって羊の囲いに入れられ、野獣から守られて安全であった。羊の門であられるキリストを通らず避けて入って来る者、良い牧者であられるキリストに聞き従わない者は、盗人であり強盗である。イエス・キリストは、いのちに至る天国の門であられ、この方以外に救いはない。キリストの十字架の血によって、人間の罪は赦され、きよめられて、まことの聖所への道は開かれた。キリストという門を通して、神のいのちの豊かさが教会にあふれる。キリストの十字架にだけ心が向けられ、キリストご自身で100%満たされているか。心の王座にイエスがおられ、いつも祈りと賛美と御言葉に満たされている喜びの生活は、神の栄光を解き放つ。羊飼いという職業は、絶えざる警戒、不屈の勇気、羊の群れへの忍耐強い愛を要する。羊飼いは羊を野獣や盗人などの危険から守るために、いのちがけで働き、羊を養う。良い(魅力的な)牧者は、羊のためにいのちを捨てる。イエスは父から受けたご命令に従われ、ご自分から私たちの罪のために十字架につかれ、いのちをお捨てになった。牧者キリストと羊キリスト者の関係は、父なる神と御子イエスの愛の関係と同様である。私たちも自分を捨て、イエスに倣い、神を愛し、神の御声に聞き従って生きよう。羊の所有者でない雇い人には使命感がなく、羊のことを心にかけていない。彼は自分の利益や報酬のために生きているので、危険に直面すると自分が危害に加わらないように、責任を放棄して逃げてしまう。イエスにはまた、羊の囲いに属さない他の羊をも導く使命があられた。それは、キリストの十字架によって、敵意という隔ての壁が打ち壊され、ユダヤ人も異邦人も、キリストを牧者とする一つの群れとなるという神の御心である。罪を悔い改め、イエスを求める者に、イエスは触れてくださり、霊の目を開き、神の御業を現わしてくださる。闇の中からご自分の驚くべき光の中に招いてくださった、素晴らしいキリストの十字架の福音を宣べ伝えよう。
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6月26日 【良き牧者キリストに聞き従う】 ヨハネ10:22-42
 宮きよめの祭りに、ユダヤ人の指導者たちはイエスを取り囲み、イエスがメシヤであるのか質問した。彼らは、イエスが語ったり御業を行なっても信じないので、イエスの羊に属さなかった。彼らは、イエスご自身とは違うメシヤ観をもっていた。そこには、霊的高慢と御霊に属することがわからない霊的無知があった。イエスを信じる者は、イエスの羊であり、羊飼いなるイエスの御声を聞き分け、ついて行く。信じる者には、永遠のいのちが与えられ、その信仰は、御子イエスと父なる神によって保証されている。御子イエスと父なる神は一つ(同一の本質)である。イエスは御父と相対し、互いに愛し合われて生きておられる。その愛の関係は、イエスが御父のご命令に聞き従われる姿に表わされていた。神への愛は、御言葉を守ることによって表わされる。相手に対する愛と尊敬があるなら、相手の言うことに聞き従うのである。旧約聖書において、「裁き人」のことを「神」と呼んだ。裁き人とは、神からこの世に神の真理と公正をもたらす仕事を委任された人である。神の言葉を受けて、神の御心を行なうことにおいて、神と人は密接に結びつく。イエスは、父なる神が聖なる(神が特別な目的のために選別された)方として、世に遣わされた救い主であられる。イエスの言葉と行ないが、イエスがメシヤであられ、父なる神と一つであることを証言していた。イエスを信じるなら、神を知るようになり、永遠のいのちが与えられる。ユダヤ人の指導者たちは、イエスを自分を神とする冒涜のゆえに、捕えて石打ちにしようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた。そして、バプテスマのヨハネが初めに洗礼を授けていたベタニヤに行かれ、そこに滞在された。ヨハネがイエスについて、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」と証ししていたことは、みな真実であったと、その地方の多くの人々がイエスを信じた。新しい契約には、罪の赦しが約束されている。古い契約は罪を覆うだけであったが、新しい契約の御子イエスの血は、罪を赦しきよめ取り除くことができる。良き牧者キリストに聞き従い、罪から解放され、永遠のいのちを今受け取ろう。
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