エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2005年5月
5月1日 【神の時に、神の御心を行なう生き方】 ヨハネ7:1-24
 その後、イエスはユダヤ人の指導者たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われず、ガリラヤを巡っておられた。イエスの兄弟たちが、仮庵の祭りにユダヤに行って、自分がメシヤであることを世に現わすようにと助言した。彼らは十字架なしのメシヤ観をもって、神の御心である十字架の道に反する安易な道を提案したのである。そこには、神であられるイエスに対する信仰はなかった。イエスは、「わたしの時はまだ来ていないが、あなた方の時はいつでも来ている」と言われた。ここでの「時」は、ギリシャ語の「カイロス」であり、「正しい時、適切な時、好機、何事かをするのにふさわしい時」を意味する。イエスは、神が定められた時に従って、神の御心を行なわれた。イエスの時とは、十字架の時であり、十字架によって神の栄光を現わすことであった。それとは対照的に、「あなた方の時はいつでも来ている」というのは、神の使命に生きず、この世の流れに従っている人たちのことである。彼らは神の御心とご目的に主導されず、神のご計画とは無関係に行動し、自由に動き回っている。イエスは神の権威によって、神から出た教えを語られた。神の御心を行なおうと願う者には、神からの教えかどうかがわかる。神の栄光を求める者は真実であり、不正がない。人は、イエスに服従して献身するか、イエスを退けて自分勝手に生きるかのどちらかである。口伝律法(ミシュナー)には安息日の細則が1500あり、ユダヤ人の指導者たちはそれらにはこだわったが、律法そのものと律法の本質である神と人を愛することを守っていなかった。人間の霊肉の安息は、主イエス・キリストにある。御言葉を信仰によって結びつけ、安息に入るよう力を尽くして努め、安息の主であられるキリストにとどまることが大切である。また、割礼は洗礼の型であり、罪を切り離し、解放され勝利することを意味し、心に割礼を受け、神を愛し生きるために受けるものである。影である律法の実物であるキリストは、愛の律法を成就された。キリストから受けた聖霊に導かれ、神の時に神の御心を行ない、祝福と栄光を受け継ぐ者とされよう。
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5月8日 【流れ出る聖霊の祝福】 ヨハネ7:25-53
 エルサレムの群衆は、知らない所から突然現われる神秘的なメシヤや、しるしの中に神を求めていた。しかし、受肉されたイエスご自身や御言葉、平凡な普通の出来事の中に、神を見ていなかった。聖書の神は、「わたしはある」という方であり、天にも地にも満ちておられる。「まだしばらくの間」、「光がある間」に、悔い改め、キリストを信じ、従い、福音を宣べ伝えなければならない。悔い改めるには遅過ぎる時、誰も働けなくなる夜が来る。今が恵みの時、今が救いの日なのである。イエスは、仮庵の祭りの終わりの大いなる日「大いなるホサナ(どうぞ救ってください)の日」に、大声で「誰でも渇いているなら、わたしの許に来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われた。仮庵の祭りには、祭司が毎日ギホン(湧き出す)の泉から引いたシロアム(遣わされた者)の池から水を汲み、神殿の土台の鉢に水を注いだ。水を汲むことは、救い主なるキリストを信じること、水を注ぐことは、作物の成長に欠かせない雨を求める祈りと聖霊のバプテスマを表わしている。キリストに聖霊を求め、御言葉を信じるなら、流れ出る聖霊の祝福に与ることができる。「心の奥底」ギリシャ語コイリアは、「腹」、厳密には「胎」であり、いのちの発生の場である。また、「流れ出る」は、祝福が周囲に拡大することを意味する。キリストの十字架の贖いは、アブラハムの祝福が異邦人に及び、信仰によって約束の御霊を受けるためであった。そして、私たちが聖霊の祝福を受けるのは、世界宣教のためである。

 “見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私の誉め歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。その御業を、国々の民の中に知らせよ。御名が崇められていることを語り告げよ。主を誉め歌え。主は素晴らしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。”イザヤ12:2-5

 “どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。セラ それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いが全ての国々の間に知られるためです。神よ。国々の民があなたを誉めたたえ、国々の民がこぞってあなたを誉めたたえますように。神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。”詩篇67:1-3、7
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5月15日 【世の光として輝く使命】 ヨハネ8:1-20
 宮で教えておられたイエスの所に、律法学者とパリサイ派の人たちが、姦淫の女を連れて来た。それは、イエスがどう答えられるかによって、イエスを告発する理由を得るためだった。モーセの律法では、この女は死刑であった。しかし、ローマの支配下のユダヤ人には、死刑を決定する権限はなかった。死刑だと言うなら、ローマへの反逆罪となる。また、イエスは罪人を救うために来られた、愛と憐みに満ちた神であられる。彼らの策略を見抜かれたイエスは、何もお答えにならず、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けるのをやめなかったので、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われた。人を裁く権限があるのは、罪のないイエスだけであった。彼らはそれを聞くと、年長者から始めて皆去って行った。イエスはその女に語りかけ、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われた。イエスはご自分の十字架の代価によって、その女に罪の赦しを宣言されたのであった。「悔い改めにふさわしい行ないをするように」と言うのが、神から人へのメッセージである。悔い改めの証拠は、新しい生活であり、生活の変化によって、その真実性が実証される。過去の罪を悔い改め、今から生涯、神の御心に生きるのだ。地上でのいのちは、永遠の未来に備えて、良い基礎を築き上げるためにある。十字架には、神の愛と義がクロスしており、イエスは、愛と義に生きられた。イエスのいのちと御霊の原理に従う者は、罪と死の原理から解放され、律法の要求が全うされる。隣人を愛する者は、律法を完全に守っているのである。仮庵の祭りでは、神殿の庭に大きな金の燭台が灯され、神の栄光の象徴としてエルサレム中を照らし出した。聖書では、神は光として表現されている。イエスは、「わたしは、世の光です。」と言われた。また、弟子たちに、「あなたがたは、世界の光です。」と言われた。キリストを信じ従う者は、永遠のいのちの光をもち、世の光として輝く使命がある。闇とは、神に対する無知である。それは、まことの神であられるキリストを知る機会がなかったか、キリストを知ろうとしなかったことによる。その行き着く先は、滅びである。しかし、キリストを信じ従うなら、光が差し込み、罪から救われる。人が罪に定められるのは、闇を愛しキリストを信じようとしない、本人の決断によるのである。
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5月22日 【御言葉にとどまる本当の弟子】 ヨハネ8:21-41
 イエスはユダヤ人たちに、「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」と言われた。人は、原罪をもって生まれた。原罪とは、神のご意思に反逆する、自己中心な生き方である。神を第一にせず、自分の欲望を第一にして生きることである。その行き着く先は、滅びである。人は、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて罪赦され、死からいのちへ方向転換しなければならない。神を信じ従う時を逸すると、永遠に救われなくなってしまう。有限の時間に中に生かされている人間が、一度しかない人生の中で、神の時に従わないなら、その時に従って救われる、また祝福されるという機会は、二度とない。人生は、自分の心と肉の赴くままに、自分勝手に生きるためにあるのではない。人生は、神の御心と時に従うためにある。全ての人に、やがて神の御前に立ち、地上でなすべき分をしたか精算する、神の裁きの時が来る。罪にとどまり続ける生活ではなく、日々こつこつと、神の栄冠を得るために、神の御声に聞き従う生活をしよう。イエスは、本当の弟子は御言葉にとどまり、真理を知り、自由にされると言われた。キリストと教会にとどまり、罪の奴隷から解放され自由にされて、聖書から学んだとおりの生き方をしていくのである。御言葉が心の内にとどまっているなら、罪の内を歩むことはない。キリストが現われたのは、悪魔の仕業を打ち壊すためである。キリストを愛する人は、御言葉を守る。その人は、神に愛され、神がともに住まわれる。その人のしていることが、神とその人との関係を表わしている。キリストと教会を愛し、御言葉を行なう者となり、信仰によって、神の祝福を豊かに受け継ごう。
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5月29日 【神から出た者と悪魔から出た者】 ヨハネ8:41-59
  唯一の神を父とする者は、神から出て来られたイエスを愛するはずである。神に対する愛は、キリストによって試される。神から出た者は、神の言葉にとどまり続け、聞き従う。神の愛は、誠実を尽くし続ける永遠の愛である。神のご性質を表わすヘブル語の hesed には、忠誠心、忠実、誠実、恵み、あわれみなどの意味がある。本来、神のかたちに造られ、キリストによって罪から救われた者にも、あるべき品性である。イエスは神を知っておられ、十字架の死に至るまでも、従順に神の言葉を守られた。神を愛する者も、キリストの模範に御霊によって従い、神の言葉を心から守るなら、決して霊的な死を見ることなく、神の愛され、祝福される。悪魔(ギリシャ語ディアボロス:中傷者)は、初めから人殺しであり、真理がない偽り者、破壊者である。悪魔は御言葉の働きを妨害し、人間の霊を盲目にし、神から離反させ、罪に誘惑して陥れ、滅び(死)に導く。悪魔から出た者は、悪魔の支配下にあって操られており、神の言葉に聞き従わず、真理に背いている。世の終わりには、全世界を惑わす悪魔が、自分の時の短いことを知り、激しく怒って、できれば選民をも惑わそうとする。私たちは、主の大能の力によって強められ、神の武具を身に着け、目を覚まして祈ろう。そして、死に至るまで忠実に歩み、小羊の血と証しの言葉のゆえに、勝利を得る者とされよう。キリストは待ち望まれたメシヤであり、永遠の実在者であられる。
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