 |
| |
| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
| |
| 2005年4月 |
|
| 4月3日 |
【聖書によって教えられ、キリストによって生きる】 ヨハネ6:41-59 |
| イエスは続いてカペナウムの会堂で、ユダヤ人たちに語られた。ユダヤ人たちはつぶやいていたが、イエスは「互いにつぶやくのはやめなさい。」と言われた。つぶやきは不信仰、疑いの表われであり、非建設的な悪魔の働きである。神が語られれることを聞く時、語る人の素性によって、神の言葉を差し引いてはならない。父なる神が引き寄せられる人は、キリストの御許に来、終わりの日によみがえらせられる。「引き寄せる」(ギリシャ語ヘルキュオー)は、「重い物を引きずって行く」という意味であり、何らかの抵抗がそこにはあるというニュアンスをもつ言葉である。神の恵みによる主権と信仰による救いがここにはある。大切なことは、神の愛を素直に受け入れ、反抗したり拒絶したりしてはならないということである。もし、かたくなになるなら、自らを滅びに定めることになる。神から直接聞いて学び、聖書によって教えられる者は皆、キリストの御許にとどまり、キリストとの個人的な親しい関係を保つ。5つのパンと2匹の魚の奇蹟は、聖餐式の原型となった年に一度の過越の祭りの食事ではなかったが、キリストの十字架の贖いによって与えられる永遠のいのちのしるしであった。律法で、血はいのちを表わす。キリストの肉を食べ血を飲むとは、キリストを信じて心に受け入れることを意味する。新生してキリストのいのちに与るのである。53節の「食べる」(ギリシャ語ファゲーテ)は不定過去形であるが、54節から58節の「食べる」(ギリシャ語トゥローゴー)は現在形で、食欲旺盛な動物が餌をばりばり食べる時に使われる言葉である。それは、新生したキリスト者がキリストを信じ続け、キリストによっていのちに溢れた生活をし、永遠に生きることを表わしている。キリストとともに十字架につけられ罪に対しては死に、キリストとともに復活し神に対しては生きる者とされたことを喜ぼう。キリストと一つとされ、信じる者一人一人の内にキリストは生きておられる。 |
| メッセージのトップへ戻る |
| 4月10日 |
【恩寵の勝利“キリストに継ぎ合わされて”】 ローマ6:1-11 |
いくつかの国語辞典を開くと、『恩寵』とは「神の恵みと慈しみ」とあります。恵みとは労働に対する対価として与えられるというものではなく、無対価で頂けるものです。私たちは永遠のいのちを、神からの恵みと慈しみによって頂くことができるのです。なぜでしょうか? エペソ人への手紙2章10節にその答えのヒントがあります。今日は三つの事柄を通して、この恵みを分かち合いましょう。
(1) あなたはなぜ、今ここにいるのでしょうか?
こう質問されたら、返答に困るかも知れません。しかし、聖書は明確に語っています。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」 神の作品すなわち、神が造られたので、今ここにいるのです。更に、神なるキリスト・イエスの御心としての良い行ないをするために、ここにいるのです。
(2) 信仰義認と聖潔に進むように。
ローマ人への手紙では、1:16-17或いは4:25、10:10など、多くの箇所で神の義(神のもっておられる義を恩寵によって頂ける信仰)について述べています。人は良いと思っていることをできない時が多々あります。人は自分の努力で義となることは不可能です。だからこそ、神は救い主イエスを通して、恩寵によって信じる者を義としてくださいました。信じて義なる者とされ、義なる天の御国(永遠のいのちに溢れる御国)への道を備えてくださいました。それによって、私たち信じる者が良い行ないを遂行できる者にしてくださっているのです。バプテスマを受けたということは、キリストに継ぎ合わされて、キリストと一体とされたということであり、キリストにあって邪悪に勝利し、いよいよ聖潔に進むことができるのです。
(3) 良い行ないとは、どういう行ないでしょうか。
Tコリント9:19-22は、良い行ないの最たるものでしょう。それは、救われて今ここにいる者として、『何とかして、幾人かでも救うこと』であります。一人一人が幾人かでも救いに導くなら、1000万人救霊に手が届くのです。 |
| メッセージのトップへ戻る |
| 4月17日 |
【生きている時代において、神の御心に仕える】 ヨハネ6:60-71 |
| イエスの十字架の言葉を聞いて、弟子たちの多くの者が、「これはひどい(ギリシャ語スクレーロス:受け入れ難い、がまんするのが困難である)言葉だ」と言って、つまずいた。十字架の言葉は、滅びに至る人たちには愚かでも、救いを受ける人たちには神の力である。耳障りの良い人間中心の言葉ではなく、罪の悔い改めと神の愛と義と裁きを示す十字架の言葉によって、真のキリストの弟子であるかが試される。神の言葉には最終的な権威があり、服従を要する。十字架の道は、永遠の栄光への道である。キリストの十字架と復活と昇天によって、永遠のいのちを与える御霊が弟子たちに分け与えられた。肉(目に見える人間的なもの)を目的とする人生は、何の益ももたらさない。霊であり、いのちである神の言葉に主導される目的をもった人生は、永遠の報いをもたらす意味のある人生である。聖書には、キリストを目標とした人生の5つの目的(礼拝・交わり・弟子訓練・奉仕・伝道)が語られている。大切なことは、自分の生きている時代において、神の御心に仕えることである。イエスは、弟子たちの中にも信じない者、裏切る者がいることを知っておられた。多くの離れ去った弟子たちは、日和見主義的追従者であった。彼らはパンを食べて満腹した時には、イエスを追いかけて集まって来たが、イエスに十字架の影がさし、苦難を要する時には、散って行った。キリストから与えられることばかりではなく、キリストのために自己犠牲と与えることがないなら、十字架の道には従えない。キリストのために全てを捨て、キリストを全てとしていた弟子たちは、キリスト以外に救いと生きる道はないと告白した。キリストへの愛と忠誠という個人的関係のある弟子だけが、本当の弟子としていかなる時もキリストにとどまることができる。イエスは、イスカリオテ・シモンの子ユダのことを名指しにはしないで、悪魔だと言われた。イエスは最後まで、ユダに「友よ」と呼びかけ、悔い改めるように配慮された。悪魔もユダも初めは良かったが、堕落した。ユダはイエスを引き渡そうと、悪魔の導きに従い、悪魔の目的に仕えていた。神の目的は、教会をきよめて栄光の教会として建て上げることであるが、反対に悪魔の目的は、教会を罪によって汚し破壊することである。教会(エクレシア)は呼び集められた者たちの集まりである。そして、キリストとともに集めない者は、散らす者である。一方を助けない者は、事実上他を助けている。神の国と悪魔の国に中立はない。 |
| メッセージのトップへ戻る |
| 4月24日 |
【過越しの祭りへの召集】 歴代誌30:1-31:1 |
| ヒゼキヤ王は、祭司とレビ人、主の宮を聖別させた後、北イスラエルと南ユダに、エルサレム神殿に来て、主に過越しのいけにえをささげるよう呼びかけた。王のメッセージで語られた、「@主に立ち返りなさい。Aそうすれば主は、帰って来てくださいます。Bあなたがたの兄弟や子たちも、この地に帰って来るでしょう。」という三つの「立ち返る」という言葉は、皆ヘブル語のシューブである。そして、主に立ち返る悔い改めの行ないが、過越しの祭りへの参加であり、主に服従し仕える表現が、エルサレム神殿礼拝であった。今日に当てはめるなら、十字架で死に復活されたキリストを信じ受け入れ、地域教会に植えられ礼拝に参加することである。エクレシア(教会)という言葉の意味は、「呼び出された者たちの集まり」である。また、王は「主に対して不信の罪を犯し、裁きを招いた父たちや兄弟たちのように、かたくなであってはならない。」と語った。近衛兵(ヘブル語ラーツィーム:走る者たち)によって伝えられた王の言葉に、イスラエルには物笑いにしてあざける人々と、へりくだってエルサレムに上って来る人々がいた。ユダ(彼〔神〕を賛美しようの意味)の人々には神の御手が望み、心を一つにして主の御言葉どおりに王とその司たちの命令を行なった。こうして、おびただしい群集がエルサレムに集まった。彼らは立ち上がり、町から偶像を取り除いてキデロン川に投げ捨て、過越しのいけにえをほふった。祭司とレビ人は、自らの怠慢や不熱心を恥じて身を聖別し、全焼のいけにえを主の宮に携えて来た。それは、罪を悔い改めて献身し、神と互いとの交わりを保つことである。イスラエルの人々は神から遠ざかっていたので、身をきよめておらず、しかも記されているのと異なった方法で、過越しのいけにえを食べてしまった。しかし、王はいつくしみ深い主にとりなし、主を求める純粋で真実な心による礼拝を強調したので、主は王の願いを聞かれ民をいやされた。種を入れないパンの祭りの七日間、レビ人と祭司は毎日、主に向かって強い調べの楽器を奏で、主を誉めたたえた。王は主の務めに通じているレビ人の心に語りかけ、全集団はもう七日間祭りを行なうことを決議した。この祭りを通し、エルサレムに南北一体の統一イスラエルが再建し、全イスラエルと在留異国人に大きな喜びがあった。レビ人と祭司たちが立ち上がり民を祝福すると、祈りは主の聖なる御住まいである天に届いた。祭りが終わると、全イスラエルは町々に出て行き、偶像を破壊した。そして、おのおのの所有地、町へ帰って行った。キリスト者が聖別され、ともに集まり神を礼拝する時、祈りは聞かれ、祝福が教会から町々へと拡がっていく。イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、罪に引き替え、二倍の祝福を主の御手から受け取ることができるのだ。 |
| メッセージのトップへ戻る |
|
 |