エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2005年1月
1月2日 【見よ、世の罪を取り除く神の小羊】 ヨハネ1:19-42
 バプテスマのヨハネは、荒野で叫ぶ声として、次のように、イエス・キリストを証言した。

 1.「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」 
 ヨハネは、キリストを過越の祭りにほふられる過越の小羊だと証言した。過越の祭りは、イスラエルの民がエジプト(罪)の奴隷状態から贖われ、解放されたことを記念する祭りである。エジプトへの第十の災いである初子の死は、小羊の血によってイスラエルの家々を過ぎ越した。過越の祭りは、キリストが十字架の死なれ、罪のない血をささげられたことによって成就した。今日、罪を悔い改めてキリストを受け入れるなら、キリストの尊い血潮による罪の赦しときよめを受け取ることができる。
 2.「私より先におられた、私にまさる方である。」 
 キリストは万物より先におられ、万物はキリストによって、キリストのために造られた。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える者である。
 3.「聖霊によってバプテスマを授ける方である。」 
 キリストは天に上げられ、聖霊を遣わされて、私たちの内に住んでくださる。聖霊は、私たちが御国を受け継ぐことの保証であられる。キリストをもつ者は、永遠のいのちをもっている。
 4.「キリストは神の御子であられる。」 
 この福音書が書かれたのは、神の御子キリストを信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。
 イエス・キリストを証言され、応答するキリストの弟子たちが起こされた。 
 1.二人はイエスに「何を求めているのか」と聞かれ、イエスとともに過ごすことを求めた。
 詩篇27篇には、「わたしの御顔を、慕い求めよ。」「主よ。あなたの御顔を慕い求めます。」と語られている。礼拝者の一つの願いは、主イエスの御顔を慕い求めることである。ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された父なる神は、キリストと一緒に全てのものをも恵んでくださる方である。
 2.二人はキリストの弟子として、キリストについて行った。羊は羊飼いの声を聞き分けて、羊飼いについて行く。キリストについて行くためには、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、従って行かなければならない。
 3.二人の弟子の一人であるアンデレは、まず自分の兄弟シモンを捜したあげく見つけ出し、キリストと出会ったことを伝えた。福音書の中で、アンデレの役割は、他者をキリストの御許へ連れて行くことである。救われて間もなくても、まず身近な家族や友人に、最も大切なキリストを伝えることは、健全であり、必要なことである。キリストは、失われた人を捜して救うために来られた。神は、全ての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられる。
 4.イエスはシモンをじっと見つめ、ケパ(アラム語:岩)と呼ばれた。
 後にペテロ(ギリシャ語)は、イエスを「生ける神の御子キリスト」と告白し、天の御国の鍵を与えられ、使徒として教会の土台となった。キリストの教会は、岩なるキリストの上に、キリストがお建てになる。それゆえ、悪魔の力も教会には打ち勝てない。私たちは生ける石として、霊の家である教会に築き上げらるように命じられている。古い自分ではなく、キリストのうちにある新しい創造に生き、教会における自分の役割を知り、それを忠実に果たす者となろう。
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1月9日 【神の家でキリストを知る弟子たち@】 ヨハネ1:43-51
 イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい。」と言われた。ピリポはアンデレのように、早速メシヤに出会ったことをナタナエル(神が与えた者の意味)に伝えた。彼は、聖書に書かれているメシヤは、ナザレのヨセフの子イエスであると言った。ナタナエルは、ナザレから救い主が出るはずはないと言ったが、「来て、そして、見なさい。」と言うピリポの声に従った。イエスはナタナエルが来るのを見て、「これこそ、本当のイスラエル人だ。彼の内には偽りがない。」と言われた。主に罪を告白し、その罪を赦された人は幸いである。イエスは、ナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見たと言われた。いちじくの木の下とは、祈りと瞑想の生活を意味する。ナタナエルはイエスを神の子、イスラエルの王と告白した。ダビデの子孫として生まれた救い主イエスは、世界の王となられる方である。イエスはナタナエルに、「あなたは、それよりも更に大きなことを見ることになる。あなたがたは、天が開けて、神の御使いが人の子(イエス)の上を上り下りするのを、今に見る。」と言われた。このことは、ヤコブのベテル(神の家の意味)体験を前提として語られている。ヤコブが天のはしごを上り下りする御使いの夢を見、神の御声を聞いた時、主がその所におられることを知り、その場所を神の家、天の門と言った。そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズ(ヘテ人の地の意味)であった。ヘテ人は約束の地カナンの先住民であり、エサウがめとったヘテ人の娘たちは、イサクとリベカの悩みの種となった。神とヤコブとの出会いによって、ルズはベテルとなった。キリストは、天の父との交わりの架け橋であられる。キリストによって、神との交わりは開かれた。今日、神の家とは、生ける神の教会のことである。私たちは、神の栄光を現わすために贖われた聖霊の宮であり、キリストにあってともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのだ。イエスを信じる者は、更に大きなことを体験によって知るようになる。キリストの御業を行ない、それより更に大きな御業を行なうのである。神を礼拝するために、罪の奴隷から贖われた私たちは、神の家である教会で、キリストを知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように確かに現われ、大雨のように私たちの所に来、後(春)の雨のように地を潤してくださる。
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1月16日 【神の家でキリストを知る弟子たちA】 ヨハネ2:1-11
 イエスと弟子たちは、ガリラヤのカナの婚礼に招かれた。そこには、イエスの母マリヤもいた。ところが宴会の途中で、「人の心を喜ばせる」ぶどう酒がなくなってしまった。マリヤがイエスにそのことを告げた時、イエスはマリヤに「女の方」と言い、マリヤはイエスのことを手伝いの人たちに「あの方」と言った。 ここに、イエスが公の生活に入られ、私的な肉的親子関係ではなく、霊的な父なる神と、神の御心を行なう神の家族との関係に生きておられる姿を見ることができる。キリストの弟子は、自分や家族よりもキリストを愛し、神の御心に従う者である。キリストと福音のために、家、家族、仕事を捨てる者は、今の時代に迫害の中で百倍の祝福を受け、後の世では永遠のいのちを受ける。マリヤは手伝いの人たちに、イエスの言われることを、何でもするように言った。神が言われることを何でもするのが、献身である。神の協力者として、神に託された小さなことを忠実に果たす者でありたい。イエスに言われて、手伝いの者たちが、ユダヤ人のきよめのしきたりの水がめに水を縁までいっぱいにした時、水は良いぶどう酒に変わった。私たちは、聖霊に満たされる時、キリストと同じ姿に変えられていく。聖霊に満たされ続け、御言葉の洗いにもってきよめられよう。ぶどう酒はキリストの新しいいのち、またキリストの血潮を象徴している。宴会の世話役はそのぶどう酒がどこから来たのか知らなかったが、水を汲んだ手伝いの者たちは知っていた。私たちも神を知り、神の役に立つしもべでありたい。イエスは水をぶどう酒に変える創造の奇蹟を、カナの婚礼で最初のしるしとして行なわれた。その目的は、神の御子としての栄光を現わされ、人々がイエスを信じて救われるためであった。イエスは、神によって制定された結婚を祝福された。イエスが十字架につかれたのは、教会をきよめて聖なる栄光の花嫁として、ご自分の前に立たせるためであった。
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1月23日 【神の家を思う熱心〜宮きよめ】 ヨハネ2:12-25
 ヨハネの福音書には、過越の祭りが三回出てくる。共観福音書はガリラヤ伝道に集中しているが、ヨハネの福音書はエルサレム伝道に集中している。イエスは過越の祭りにエルサレムに上られた時、父の家である宮の中が商売の家にされているのをご覧になり、神の家を思う熱心ゆえに宮きよめをされた。聖なる純粋な礼拝をするためには、霊的な戦いがある。

1.本来、いけにえの動物を売ることや両替は、律法にかなう正しいことであった。しかし、ここに世的な精神、自己中心な思いが入り、礼拝が変質してしまった。神の家を商売の家として、不正な利得をあげる貪欲があばかれた。今日で言えば、キリストの教会を愛しささげるのではなく、自分のために教会を利用しようとする精神である。

2.エルサレム神殿の周囲には、祭司の庭、イスラエル人の庭、婦人の庭、異邦人の庭があった。この一番外側の異邦人の庭は、本来「全ての民の祈りの家」であったが、強盗の巣にされていた。イスラエルの神を信じ、ここまで礼拝に来た異邦人の祈りの場が侵害されていた。それは、反伝道的精神、救霊に対する無関心である。

3.尋ね求めている主が突然、神殿に来られて、精練する者の火、布をさらす者の灰汁(漂白剤)のように、レビの子らをきよめて純粋にするという(マラキ3:1-4)、メシヤ預言が成就した。エルサレム神殿に行き、動物犠牲をささげるという儀式的な礼拝ではなく、キリストの十字架と復活によって律法が成就し、新しい霊的な礼拝が始まった。イエスは、ご自分のからだのことを神殿と言われた。それは今日、キリストをかしらとする教会のことであり、その教会を構成する一人一人のキリスト者のことでもある。私たちは神によってきよめられ、自分の全存在をささげ、霊とまことをもって神を礼拝する。

 祭りの間、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て信じた。しかし、イエスは彼らの信仰が本物ではないことを知っておられたので、信用されなかった。本当の弟子は御言葉にとどまり、多くの実を結ぶ。そのためには、聖書に親しみ、教えと戒めと矯正と義の訓練を受け、御霊によって、キリストと同じ姿に変えられていく必要がある。キリストがご自身の働きを委ねられるのは、主を愛し小さなことに忠実なしもべである。神の恵みによって、死に至るまで忠実な者であり、いのちの冠を受ける者とされよう。
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1月30日 【永遠のいのちに入る新生】 ヨハネ3:1−21
 パリサイ派で議員のニコデモが、夜、イエスの御許にやって来た。彼はイエスを先生と呼び、しるしに心をとめていた。しかしイエスは、新生しなければ、神の国に入ることはできないと言われた。新生とは、人間を内的・根本的に変革させる、神による超自然的霊的誕生である。人は水と御霊によって生まれなければ、永遠のいのちに入ることはできない。水にはいろいろな解釈があるが、御言葉、すなわち、神のことであると言える。ギリシャ語とヘブル語において、霊と風は同じ言葉である。御霊によって生まれる者は、風が吹き、目には見えないが確かに音を聞くように、現実生活において、確かに神との交わりの中に生きる者に変えられる。ニコデモはイスラエルの教師でありながら、そのことの意味がわからなかった。神は御霊によって、ご自身の御心を啓示される。キリストを信じる者には御霊が与えられ、永遠のいのちに入っている祝福された生活をすることができる。永遠のいのちとは、唯一まことの神とイエス・キリストを知ることである。キリストは十字架に上げられ、その後、天に上げられた。十字架の受難の死は、神の栄光の現われである。神の全世界の人々に対する愛は、ひとり子イエスのいのちを与えたことによって実証された。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。この神の愛に応答する者となり、キリストを信じて従い、御霊によって、永遠のいのちの祝福に入る光の生活をしよう。
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