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| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
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| 2004年12月 |
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| 12月5日 |
【嵐の中の信仰と従順】 使徒27:1-44 |
| カイザリヤからローマへ、囚人として船で護送されることになったパウロに、同労者のルカとアリスタルコが同行した。パウロと数人の囚人が引き渡されたローマの親衛隊の百人隊長は、パウロを親切に取り扱った。船は航行の途中、風のために進むことができなくなり、ようやくクレテの良い港に到着した。そこでパウロは人々に注告し、神からの知恵の言葉を語った。それは、この航海は危険であり、積荷や船体だけでなく、生命にも危害と大きな損失が及ぶので、出帆しない方が良いという内容だった。しかし百人隊長は、パウロの言葉より、航海士や船長の方を信用した。大多数の者の意見と状況によって、人々は船は出帆させることにした。その結果、船は嵐に巻き込まれて流され、積荷を捨て、幾日も太陽も星も見えないので方角も分からず、彼らが助かる最期の望みも絶たれようとした。神の御言葉に従わないで、人の思いや目に見える状況を優先して決断し、行動してはならない。それは、アダムとエバが善悪の木から取って食べた、原罪の古い生き方である。パウロはこの時、人々の中に立ち、元気を出すように勧め、いのちを失う者は一人もなく、失うのは船だけであると、神の啓示によって語った。ローマでキリストの証しをするという、パウロに対する神の御心ゆえに、同船している276人のいのちも救われたのである。神の御言葉に聞き従い、神の御心に生きることは、自分ばかりか、他者のいのちも救うことになる。この嵐の中の信仰は、「望みえない時に、神に望みを抱いて信じた」アブラハムの信仰である。ところが、水夫たちはパウロの言葉を信用せず、自分たちだけ助かろうとして、小船を使って船から逃げ出そうとした。パウロは百人隊長たちに、彼らがいないとあなたがたも助からないと言った。そこで兵士たちは、小船の綱を断ち切った。水夫たちの存在は、ローマへ行くために必要だったのだ。このことから、天国行きのノアの箱舟である教会にとどまり、役に立つ者となるべきことを学べる。パウロは、皆が何も食べずに14日たった夜明けに、食事をとることを勧め、これで助かることになると言った。彼はパンを取り、神に感謝して裂いて食べ、一同も元気づけられ、皆が食事をとった。十分食べてから、彼らは麦を海に投げ捨てて、船を軽くした。砂浜のある入江が見え、船を乗り入れようとしたが、途中で船が座礁し、壊れ始めた。兵士たちは、囚人たちが逃げると厳しく責任を問われるので、囚人たちが泳いで逃げないように、殺してしまおうとした。しかし百人隊長は、パウロをあくまで助けようして、皆が海に飛び込んで陸に上がるように命じた。こうして、パウロゆえに囚人も含めて全員が、無事に陸に上がり助かった。神の御心は、困難を乗り越えて成就する。そのために必要なのは、神に従順に従う忠実なしもべである。私たちの信仰は、従順によって成長し、完成に至るのである。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さず、たとい嵐の中でも、神への信仰と従順によって、神の御心を成就する者でありたい。 |
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| 12月12日 |
【キリスト・イエスにある生き方@】 使徒28:1-31 |
| 乗船していた276人が無事に上陸したのは、マルタ島であった。島の人々は、彼らを非常に親切にもてなした。寒かったので火をたいていた時、パウロは一抱えの柴を束ねて火にくべた。ここに、自ら仕える者の姿を見ることができる。キリストは仕えるために来られ、贖いの代価としてご自分のいのちを与えてくださった。私たちが求め、捜し、叩き、良いもの(聖霊)を受けるのは、他者に仕えるためである。パウロが柴を火にくべると、熱気のためにまむしがはい出して来て、彼の手にかみついた。しかし、パウロはまむしを火の中に振り落として、何の害も受けなかった。その後、パウロは島の首長の父の病を手を置いて直し、島の他の病人たちも直した。これらのことから、福音宣教に生きる者の姿を見ることができる。“蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。”(マルコ16:18)という、御言葉を確かなものとするしるしが、主のお働きによってなされている。蛇が火の中に振り落とされたのは、将来、悪魔が火と硫黄との池に投げ込まれることを象徴している。キリストを信じる者は、悪魔に打ち勝ったのである。パウロはまむしにかまれても、心を騒がせなかった。キリストは心を騒がせたり、恐れたりせず、神とわたしを信じなさいと言われた。キリストは十字架の懲らしめによって、私たちに平安を残してくださった。私たちは揺り動かされることのない御国を受けている。 キリストを信じる者は、キリストの行なう業を行ない、また更に大きな業を行なう。それには、キリストの御名によって祈り、聖霊に満たされ、キリストを愛して御言葉を守る生き方をすることである。神のご命令は、私たちが互いに愛し合うことである。島の人々はパウロたちを非常に尊敬し、パウロたちが出帆する時には、必要な品々を用意した。聖書には、指導者は二重の尊敬を受けるにふさわしく、働き手が報酬を受けることは当然であると書かれている。また、「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい」とある。それは、香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物である。献げる者には、収支を償わせて余りある霊的祝福があり、神は、キリスト・イエスにある栄光の富をもって、その者の必要を全て満たしてくださる。 |
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| 12月19日 |
【キリスト・イエスにある生き方A】 使徒28:1-31 |
| パウロたちはついに、ローマに到着した。「使徒の働き」の主題である1章8節の、聖霊の力によって、エルサレムから地の果てまで、キリストの証人となるという御言葉の成就である。ローマの兄弟たちは、パウロたちのことを聞き、アピア街道沿いの町々まで、それぞれ出迎えに来た。パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。そのように、キリスト・イエスにある者は、神と兄弟たちとの交わりに生きる者である。主はそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられた。パウロはここでも、大都市のユダヤ人伝道から始めている。彼は早速、ユダヤ人を呼び集め、神の国と主イエス・キリストの証しをした。彼は鎖につながれていても、大使として大胆に御言葉を語った。パウロの投獄によって、兄弟たちの大多数は、ますます大胆に神の言葉を語るようになった。ステパノの殉教によって、散らされた兄弟たちが、御言葉を宣べながら巡り歩いたように、である。キリスト者が語ることを止めない限り、神の言葉はつながれることがない。パウロはローマで囚人であった時でさえ、「自費で」二年間番兵付きの家に住み、宣教した。彼は福音宣教という、返さなければならない負債である神の使命に、犠牲を払って生きていたのだ。働き人が報酬を受けるのは当然のことではあるが、仕事をしながら宣教しなければならない場合、それは勤勉の模範となる。福音を聞いたユダヤ人は、信じる者と信じない者の二派に分かれた。それは、どこにおいても、異邦人においても、同じである。信じない者の心は、鈍くなっている。「鈍くなる(ギリシャ語:パキュノー)」という言葉の意味は、「肥え太る」である。御言葉を受け入れず、適用しない心の態度である。その人は神の御前に立とうとせず、故意に自分勝手なことをし続けていくために、いくら御言葉が語られても、それを自分に語られたこととして聞こうとしない。そして、毎日の生活にあくせくする。そのような人には、救いといやしがない。神の御心に従う十字架の道だけが、大きな報いをもたらす栄光への道である。「使徒の働き」は、主イエスが再び来られる日まで続く。神は、福音を拡め、教会を建て上げる良き働きを、キリスト・イエスの日までに完成してくださる。だから、忠実なしもべとして、主の働きに従事しよう。 |
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| 12月26日 |
【闇の中に輝く光】 ヨハネ1:1-18 |
| ヨハネの福音書は、「イエスが愛された弟子」ヨハネによって記された霊的な福音書であり、イエスを神の子として描いている。異邦人キリスト者を対象とし、九割は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)にはない記事である。「初めに、ことばがあった。」と、キリストをことば(ロゴス)と表現し、キリストの先在性を語っている。キリストは父なる神と相対(あいたい)しておられる方であり、神である。万物は、キリストのために、キリストによって造られた。神は初めに、「光よ。あれ。」と言われ、天と地を創造し始められた。私たちも、まだ何もなく、悩みの中にあるような時にも、御言葉を信じて語る(祈る)なら、神の御業が現わされることになる。「光が、闇の中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださる。キリストは、全ての人を照らすまことの光であられ、闇に打ち勝たれた。キリストを全面的に自分の内に迎え入れ、またキリストを信じる(キリストの懐に飛び込んで行く)人々には、神の子供とされる特権が与えられた。この人々は、ただ、神によって新しく創造されたのである。キリストは人となって、イスラエルに幕屋を張られ、神のひとり子としての栄光を現わされた。ヨハネは、キリストの栄光をその目で見た。恵みとまことは、イエス・キリストによって実現したのである。今日も、キリスト者と教会を通して、目に見えるかたちで神の栄光(臨在)を見ることができる。キリスト者はキリストの御霊を与えられ、永遠のいのちをもっている。それは、キリストの十字架の贖いによって聖霊の宮とされ、神の栄光を現わすためである。また、キリストの御名によって、兄弟たちの集まる所には、キリストもともにおられ、主はそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられた。キリストの愛によって互いに愛し合うなら、私たちはキリストの弟子である。御言葉によってきよめられ、聖なる栄光の教会として建て上げられよう。 |
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