エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2004年11月
11月7日 【お互いの祝福〜神の救済計画】 ローマ11:11-15
1.テトス2:13 
 一世紀の使徒的/新約聖書的教会の信仰に力を与え、信仰の目標であった「祝福された望み」の焦点とは、主イエス・キリストの「現われ」、つまり主の再臨であった。私たち福音主義のクリスチャンは「死んで天国に行く」望みをベースにして福音を語ってきた。しかし、聖書がいつも語っているのは、天の御国がこの世に来ることでもある。
2.ローマ11:11-15
 私たちはどのようにしてこの「祝福された望み」に至るのか? この聖書箇所はそのための「完成の法則」を提示している。それは、福音の交わりの中でのイスラエルと異邦人(諸国民)の「お互いの祝福」の関係についてである。歴史上、イスラエルや終末に関するクリスチャンの見解には大きく分けて二つの見方があった。一つ目は「置換神学」と呼ばれる教えで、大多数のユダヤ人がイエスを退け、民族や文化を超えたキリスト教会が誕生して以来、教会がイスラエルから全く取って換わって神の契約の民となったと教える。この教えはすでに一世紀から存在していた。二つ目は、今から約200年前に生まれた「ディスペンセーション主義」と呼ばれる神学である。この神学によると、今私たちは「教会時代」に生きており、将来全てての国々に福音が伝えられて、「教会時代」が終わった後に、神は再びイスラエルを顧みられ、ユダヤ人に回復とリバイバルが起こる。この神学では、「教会」と「イスラエル」との間に、意味・目的・アイデンティティーの大きな分離がある。メシアニックジューたちは文字通りのイスラエル回復の希望を取り戻してくれたディスペンセーション主義に感謝しているが、ローマ11章とエペソ2-3章がこの神学に必要な多くの修正を与えると信じる。ローマ11:11-15(二千年前に現在時制で書かれている)は、福音の祝福された望みが異邦人に及んだのは、遠い将来ではなく今イスラエルにねたみを起こさせるためであると、異邦人の教会に教えている。また、ユダヤ人と異邦人、イスラエルと諸国の「お互いの祝福」の関係は、一世紀に見られた以上に偉大な祝福と完成をもたらすようになると教えている。更に、ローマ11:25-26はこの奥義について、「こうして(このようにして)、イスラエルはみな救われる」と語っている。新約聖書の希望とは、ユダヤ人と異邦人のお互いに祝福し合う関係(「新しいひとりの人」)を通し、異邦人の完成と全イスラエルが救いが成り、地の全ての王なるイエスをエルサレムにお迎えすることである。
3.過去120年のリバイバルとお互いの祝福の法則 
 過去約120年の間、ローマ11:11-15の真理を映し出すイスラエルと教会の同時的回復が起こってきた。神の御言葉は永遠に堅く立つのであって、御国の原則は私たちが気付かない間にも働いている。神の願いは、ユダヤ人と異邦人からなる「新しいひとりの人」である教会が、ともに自分たちの召しを受け取って、「お互いの祝福と完成の法則」に積極的に参加していくことである。アーメン。
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11月14日 【責められることのない良心を保つ】 使徒24:1-27
 大祭司たちはカイザリヤへ下って来て、ローマ帝国のユダヤ地方総督ペリクスの前で、パウロを訴えた。聖書の中でサタン(敵対する者)は、日夜兄弟たちを神の御前で訴えている告発者として語られている。私たちは人を裁き訴える者ではなく、人を赦し愛し祝福する者でありたい。パウロはペリクスの前で、喜んで弁明した。彼はいつも、神の御前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしていた。「良心」ギリシャ語のシュネイデーシスには、「ともに知る」という意味がある。神は私たちの全ての歩みを見ておられ、ご存知である。そして神の御心は、私たちがあらゆる努力をして、成熟(完全)を目ざして前進することである。パウロがそのように努めた目的が、証しの中で語られている。

1.この道であられるキリストに従って、アブラハム、イサク、ヤコブの神に仕えるためである。
2.(旧約)聖書を全部信じており、その聖書をキリストが全部成就されるからである。
3.義人と悪人の復活という望みを、神にあって抱いているからである。

ここでの復活は、最後の審判と言われる、大きな白い御座の裁きのことである。全ての人は、自分の行ないに応じて裁かれることになる。いのちの書に名の記されていない者は皆、火の池に投げ込まれる。イエス・キリストを信じ、いのちの書に名を書き記され、神の御心(御言葉)を行なう生活をすることだけが、地上において大切なことである。数日後、キリスト・イエスを信じる信仰について、パウロから話を聞いたペリクスは、正義と節制とやがて来る審判に恐れを感じ、話を中断させ、救いの機会を逸した。延滞は不従順に通じる。むしろ、私たちは時を贖い出し、神の御心に従う機会を逸しないように、今の時を有効に活用しなさいと命じられている。全てを神にささげ、全てを神のためにするのである。神を避け所とし信頼することこそが、最も安全で祝福に満ちた道である。
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11月21日 【キリストの復活のために】 使徒25:1-27
 パウロは無罪であるにも関わらず、ユダヤ人たちに訴えられてカイザリヤに拘置されていた。彼は、自分の走るべき行程を走り尽くし、神の恵みの福音を証しする任務を果たし終えることができるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思っていなかった。しかし神の御心は、パウロがこの時に殉教することではなく、ローマでも証しすることだった。そのためにパウロは、新しい総督フェストにローマ皇帝に上訴することを願い出た。パウロはローマへの道を、囚人として行くことになったのだ。キリストの生涯は、神の時に神の御心を行なわれることが全てであった。キリストは、自分からは何事も行なわず、ただ神の御心を求め、死に至るまで従順に従われた。私たちの歩みも、時を悟り、神の御心を知って従うことが大切である。十字架の言葉は、滅びに至る人々には愚かでも、救いを受ける私たちには神の力である。そのように、神の御思いと道は、人の思いと道とは異なり、天が地よりも高いようにはるかに高い。たとい、私たちの思いと方法とは違っていても、神の御心であるならば、私たちは喜んで従わなければならない。神の御言葉を聞いて、信仰によって従うのである。その時、神の御業は解放され、神の栄光が現わされる。イエスは、「わたしを信じる者は、わたしの行なう業を行ない、またそれよりも大きな業を行ないます。」と言われた。それは、祈りと聖霊の働きゆえである。パウロは神の栄冠という目標を目ざして、前のものに向かって一心に走っていた。そして天に召される前には、「私は勇敢に戦い、走るべき道程を走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。」と言うことができた。このように、復活の望みをもってパウロは、最期まで神の御前に最善を尽くした。私たちもキリストの再臨に希望を置き、走るべき行程を完走する者となりたい。
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11月28日 【天からの啓示に従って】 使徒26:1-32
 パウロは回心の時、イエスの御名を、ユダヤ人、異邦人、王たちの前に運ぶ選びの器として、神に召された。また、イエスの御名のために、苦しむことも示されていた。その使命感によって、彼は、アグリッパ王の前で弁明できることを幸いだと言った。彼は、この機会にアグリッパ王を救いに導こうとしたのだ。彼がユダヤ人に訴えられていたのは、復活の希望ゆえであった。彼は以前は、イエスの御名に強硬に敵対する者であった。しかし、彼は教会を迫害しに行くダマスコ途上で、太陽よりも明るい天からの光を見、復活のイエスの御声を聞いた。彼は、この主イエスとの決定的な出会いによって、回心したのである。彼が迫害していた教会は、イエスご自身であった。アブラハムの子孫であるキリスト(教会)を愛し祝福しない者は、痛みと呪いをその身に招くことになる。私たちキリスト者の仕事は、福音を拡大させ、教会を建て上げることである。パウロが天からの啓示(人間の側からはどうしても知り得ないことを、神の側から示してくださること)によって、任命された奉仕者、また証人の使命とは、次の内容である。

1.遣わされて福音を語り、人々を神に立ち返らせ、信仰によって罪の赦しを得させる。
2.人々を教会に植え、悔い改めにふさわしい行ないをするように教え、キリストの弟子とする。
3.キリストの花嫁なる栄光の教会を整え、キリストとともに御国を受け継がせる。

これは、パウロだけではなく、全てのキリスト者にも与えられている使命である。天からの啓示に従う者となろう。パウロはこの日に至るまで、神の助けを受け、全ての人に証しをし、聖書とキリストだけを語ってきた。しかし、彼の弁明の途中で、総督フェストは「気が狂っているぞ。パウロ。」と言い、アグリッパ王は話をそらし、救いの機会を逃がしてしまった。彼らは、この世の一時的な地位や富はあっても、神の御前には何一つもたない人たちである。パウロは祈りの力、聖霊の力によって、鎖につながれていても、福音のために大使の役を果たし、大胆に福音を語った。そして、聞いている人が皆、信じ救われることを願ったのである。
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