エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2004年10月
10月3日 【仮庵の祭り〜永遠のいのちへの準備期間@】 ゼカリヤ14章
 第七月の十五日から七日間プラス一日は、仮庵の祭りである。エルサレムで祝う三大祭りの一つ、秋の収穫祭である。仮庵を作って住み、荒野で過ごした四十年の恵みを覚える。そこで食事をし、富む者も貧しい者も、神の恵みによって生かされている弱い存在であることを味わう。荒野の四十年間、イスラエルは皆幕屋に住んでいた。モーセの幕屋には、主の栄光が満ちていた。キリストは人となられて、私たちの間に幕屋を張られた。キリストは世の光、神の栄光であられ、恵みとまことに満ちておられた。教会はキリストのからだであり、キリストの満ちておられるところである。夕暮れ時に、光がある。キリストが再臨されると、毎年、異邦人もエルサレムに上り、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝う。新天新地では、神の幕屋が人とともにある。神であられる主と小羊とが都の神殿であり、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりである。神の幕屋の栄光は、あらゆる時代に現われ、永遠のいのちに至る。仮庵の祭りは喜びの例祭である。ユダヤ人の男性は四種類の植物を持って、主の御前で喜んで振る。
右手にナツメヤシ(しゅろ)の枝(実があっても、香りがない:律法的行ないはあっても、霊的祝福がなく、愛とあわれみの伴なわない人)、ミルトスの枝(香りはあっても、実がない:霊的過ぎて、足が地に着いていない人)、柳の枝(実も、香りもない:教えの風に吹き回されて、自分の霊的基盤のない人)、左手にシトロン(実も、香りもある:信仰によって、バランスの取れた知恵深い生き方をしている人)を持つ。シトロンは、約束の地の果物の象徴であり、民数記には、ぶどうとざくろといちじくが語られている。私たちは、ぶどうの木であるキリストにとどまり、多くの実を結ぶことによって、神の栄光を現わす者となりたい。また、仮庵はそれらの材料で作られる。そのことは、教会が様々な成長の段階にあるキリスト者によって、組み合わされ、結び合わされた共同体であることを表わしている。キリスト者と教会は、御言葉と聖霊によって整えられ、奉仕の働き、信仰と知識の一致、キリストの身たけにまで、あらゆる点において成長することが求められている。それらの植物を振る動作には、次の意味がある。

1.雨季の始まりに、雨を求める祈り。
2.神の約束の成就を願う祈り。
3.「野の木々もみな、手を打ち鳴らす。」喜び、賛美。
4.悪を払う行為。

 私たち教会も、聖霊の雨を求め、神の御言葉の成就を祈り、喜び、感謝し、賛美し、キリストの御名の権威を行使し、キリストの勝利に与る礼拝生活をしよう。「枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。」 しゅろは結実まで四十年を要するが、高さ十五m、百五十年の長きにわたって結実(一房に千個、一本に十二房)を続ける。聖書では、正しい者の繁栄と優美の象徴として語られている。天国では、数えきれない程大勢の異邦人の群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を持って、御座と小羊の前に立って、神を礼拝している。神は彼らの上に幕屋を張られる。
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10月10日 【仮庵の祭り〜永遠のいのちへの準備期間A】 申命記16:13-17
 仮庵の祭りの八日間、毎日多くの主へのささげ物がささげられる。礼拝者が神との交わりに入ることができるためには、罪のきよめが必要だからである。罪のきよめのための動物犠牲は、過越の祭りのほぼ二倍である。非常に高価な雄牛が、七日間で七十頭ほふられる。このことの意味は、全世界の民の回心を願ってささげられると、ユダヤ教のラビは説明する。まだ救われていない魂に対する、愛と重荷と犠牲の必要性を教えられる。キリストは万民の救い主として来られて、私たちの罪のためにいのちを捨ててくださった。キリストは、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄である。天国には、イスラエルの子孫と異邦人の大群衆が入れられている。諸国の民の神のしもべたちは、祭司、永遠の王とされる。また、ささげ物は、信仰者が従順に神に従うかどうかを問われている。ささげ物を備えてくださるのは神であるが、神の民が信仰によって忠実に与えられたものを祭壇の上に置くかどうかである。私たちは、私たちの心とからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげるように、命じられている。日々、自分を捨て、自分の十字架を負い、キリストに従うのだ。神の御心を知り、それを行なうなら、祝福される。仮庵の祭りには、水と雨が強調された。祭司は毎日神殿の丘を下り、ダビデの町にあるシロアム(遣わされた者)の池で水を汲んだ。「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」イザヤ12:3 それから、神殿の外庭から内庭への十五段の階段を、一段ずつ都上りの歌(詩篇120−134)を歌いながら上り、祭壇の土台の鉢に水を注いだ。この水の注ぎは、作物の成長に欠かせない雨を求める祈りを意味した。祭りの最後の日は、大いなるホサナの日と呼ばれ、水が注がれた時に大きな喜びの声が上がり、メシヤが待望された。この日にイエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われたのである。それは、川にたとえられる聖霊のバプテスマである。聖霊を飢え渇いて祈り求め、イエスの御許へ行き、信仰によって受け取るのである。このいのちの水の川は、神と小羊との御座から出ている。空の器に聖霊は満ちあふれる。聖霊の力によって、天的な歩みをし、神に用いて頂くことができるのである。
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10月17日 【キリストの証人となる】 使徒21:1-40
 パウロはミレトから出帆し、まっすぐにエルサレムへ向かった。途中、ツロとカイザリヤの弟子たちは、パウロがエルサレムへ行ったら、ユダヤ人に縛られ異邦人の手に渡されることを御霊に示され、彼にエルサレムに上らないよう、しきりに頼んだ。しかし、パウロは主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟していると応えた。礼拝のためにエルサレムに上り、エルサレム教会に献金を届け、教会の一致のために愛を実践すること、また、ユダヤ人伝道という、主から委ねられた任務遂行に対する責任感、使命感のゆえである。キリストがゲッセマネの園で祈られたように、弟子たちは、「主の御心のままに」と言って黙ってしまった。ルカは、「福音書」が重要なイエスの受難に多くを割いているように、「使徒の働き」の四分の一を割いて、パウロの受難を記している。エルサレムの異邦人の弟子の所へ行くと、兄弟たちは喜んでパウロたちを迎えた。翌日、エルサレム教会のヤコブを訪問すると、長老たちが皆集まっていて、パウロの伝道旅行で神が異邦人の間でなさったことを語ると、神を誉めたたえた。しかし彼らは、律法に熱心な幾万のユダヤ人信者たちが、パウロはユダヤ人に律法を守らないように教えていると、根も葉もないことを聞かされていると言った。異邦人に関しては、偶像に備えた肉と血と絞め殺した物と不品行を避けること、律法を守ることによって救われるのではないという、根本教理の一致によって、パウロは律法を守って正しく歩んでいるという枝葉末節のことに同意し、誓願を立てている者たちと一緒に身を清め、頭をそる費用を出すことにした。パウロが律法を守ったのは、ユダヤ人にはユダヤ人のようになりユダヤ人を獲得するためあり、彼にとって全てのことは福音のためであった。ところがアジヤから来たユダヤ人たちが誤解し、パウロがギリシャ人を宮に連れ込んで神聖な場所を汚していると、全群衆をあおりたてた。当時、異邦人が神殿の内庭に入ると死刑になった。義のために迫害され、ありもしないことで悪口雑言を言われたのである。町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕え、宮の外に引きずり出した。そして、だだちに宮の門が閉じられた。キリストも門の外で十字架の苦しみを受けられたのである。私たちが神に召されたのは、善を行なって苦しみを受けるというキリストの御足跡に従うためであると聖書には書かれている(Tペテロ2:20-21)。暴動を取り締まるため、ローマ軍の千人隊長と兵士たちが駆けつけたのを見て、パウロを殺そうとしていた人々は、彼を打つのをやめた。パウロは二つの鎖につながれ、階段にさしかかった時には、群衆の暴行を避けるために、兵士たちにかつぎ上げられた。ローマの公平な裁判が、パウロの命を救ったのである。パウロはそこで、千人隊長に人々に話をさせてほしいと願う。それは、民衆にキリストの証しをするためであった。ギリシャ語の証人(マルテュリア)には、殉教者という意味がある。パウロは時が良くても悪くても、聖霊の力によって、命がけでキリストの証人となった。イエスが語られたように、パウロはこれから人々、議会、総督、王の前で、ユダヤ人と異邦人にキリストの証しをする。父の御霊が語らせてくださるのである。私たちをキリストの愛から引き離すものはなく、これら全てのことの中にあっても、私たちは神によって、圧倒的な勝利者とされる。キリストの証人は、死に至るまで忠実でいのちを惜しまず、小羊の血と自分たちの証しのの言葉ゆえに、悪魔に打ち勝ったのである。
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10月24日 【キリストの証人とは】 使徒22:1-23:10
 パウロは自分を殺そうとしている民衆に対して、「兄弟たち、父たちよ。」と、エルサレムで殉教したステパノと同じ言葉で語りかけた。聖書には、「優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。」と書かれている。パウロはユダヤ人にはユダヤ人のように、ヘブル語で律法や宮に触れて、キリストのことを語った。この証しの中で、神は、キリストの証人とはどのような者であるのかを語っておられる。

1.旧約聖書以来の神の御心を知っている者である。そして、ダビデのように、その生きている時代において、神の御心に仕える者である。神の御心とは、全ての人が救われて、真理を知るようになることである。
2.キリストを見たこと、聞いたことがあり、キリストとの出会いと神との継続的交わりの中に生きる者である。私たちは神を体験し、知っていることを証しする。それは、伝えた人たちも、この御父及び御子イエス・キリストとの交わりに入り、永遠のいのちをもつためである。
3.全ての人に対して、キリストの証言をする者である。私たちは福音を聖霊の力によって、あらゆる機会にいのちをかけて宣べ伝えるのである。

 民衆はパウロの話を聞いている途中で怒り、わめき立てた。千人隊長はパウロにむち打って自白させようとしたが、パウロは自分がローマ人であることを主張した。このむち打ちは、死者が出たり、身体に障害をもつ程の拷問で、ローマ市民には禁じられていたのである。この時から、高い値段でローマ市民権を買った千人隊長の態度は、生まれながらのローマ市民であるパウロを保護する立場へと変わった。パウロは次に、サンヘドリン(ユダヤの最高議会)で、「兄弟たちよ。」と呼びかけ、弁明した。すると、世俗的で強欲だった大祭司アナニヤは、パウロの口を打つよう命じた。パウロはアナニヤに向かい、「白く塗った壁」と言った。「白く塗った壁」とは、崩れそうになった壁に、外側から白いしっくいを塗って一時的に保護することで、外見は良く見えても、内部に危険をはらんでいることを意味する。危険な状態が隠されてしまって、かえって危険が増す。議会はパウロが語った「死者の復活という望みのこと」で、復活を信じるパリサイ派と復活を信じないサドカイ派との間で、二つに分かれ、論争が激しくなった。千人隊長は、パウロが引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵隊に力ずくで引き出させ、兵営に連れて来させた。パウロは、エルサレムでキリストを証しした。敵には蛇のようにさとく、神には鳩のように素直に、父の御霊によって示されたことを証しし、人前でキリストを認めるのが、キリストの証人である(マタイ10章)。
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10月31日 【主からの励ましと使命】 使徒23:11-35
 パウロがサンヘドリン(ユダヤの最高議会)から引き出され、ローマ軍の兵営に連れて来られたその夜、主イエスが彼の側に立って語り励まされた。1.「勇気を出しなさい。」キリストの苦しみの溢れているところには、キリストの慰めもまた溢れている。そしてその慰めは、他者をも慰める力となる。へりくだる者には神の慰めと恵みが授けられる。大切なことは、もはや自分ではなく、神により頼み従うことである。2.「あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、」パウロはエルサレムでキリストを証ししたと、イエスに評価された。たとえ、伝道の成果がすぐに表われなくても、ただ神の御心を行ない、良い忠実なしもべであることが大切である。私たちは人からの名誉を受けず、唯一の神からの栄誉を求める者でありたい。神は全てをご覧になられて、報いを与えてくださる。3.「ローマでもあかしをしなければならない。」ここでもう一度、パウロに神の宣教計画が語られている。神からの励ましには、使命遂行という目的がある。神の御心に仕えることが、地上で人間に与えられている人生の目的である。神は聖霊によって力を与え、御心を知らせ行なわせてくださる。キリストのために苦しむ者の上には、神の栄光の御霊がとどまられる。だから、真実な神に自分の魂をお任せしよう。パウロはユダヤ人の陰謀を逃れ、カイザリヤに駐在しているローマ帝国のユダヤ地方総督のもとへ送り届けられることになった。そのために用いられたのは、天使ではなく、パウロの甥とローマの軍勢であった。神は超自然的方法だけではなく、自然的方法を通しても働かれるのである。このような人為的、政治的に思える出来事の中にも、神の摂理はあった。パウロは囚人として、総督や王の前でキリストの証しをし、ローマに導かれていく。中国には文化大革命の時代、下放運動によって大都会から山東省の山奥へ一人の兄弟が送り込まれ、30年後には13万人のキリスト者の群れになったという証しがある。神は歴史を支配しておられ、神の約束と聖徒の祈りと証しによって、世界に介入され世界を変えてくださる。私たちもどのような状況に置かれていても神に信頼し、御国の前進のために祈り働く者とされよう。
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