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| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
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| 2004年9月 |
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| 9月5日 |
【愛の宣教計画】 使徒19:21-20:6 |
| パウロは御霊の示しにより、マケドニヤとアカヤの諸教会を通った後、エルサレム教会に献金を届けに行くことにした。パウロが伝道してできた異邦人教会は皆、貧しいエルサレム教会に献金していた。それは、聖徒たちに仕える交わり、恵みのわざ、教会の霊的一致、愛の実践、献身であり、主ご自身の栄光と教会の誠意を示すためであった。パウロはエルサレムに行ってから、ローマに行くことも示された。当時、ローマは世界の都であり、ローマに伝道することは、ローマ世界全体に福音を宣べ伝えることになることを意味した。そこで、パウロは先に彼に仕えている者の中から、テモテとエラストをマケドニヤに送り出した。その頃、エペソでキリスト教のことから、ただならぬ騒動が起こった。エペソはアルテミスという豊饒の女神の神殿でもっている町だった。しかし、パウロたちの伝道が実を結び、アジヤ全体の大勢の人々がまことの神に立ち帰ったので、アルテミス神殿の模型を作って繁盛していた銀細工人たちは、その経済生活を根底から揺さ振られ、パウロたちに激しく反対した。そして、町中が大騒ぎになり、人々はパウロの同行者の二人を捕え、二万五千人収容の野外劇場になだれ込んだ。パウロもその集団の中へ入って行こうとしたが、弟子たちとアジヤ州の高官でパウロの友人である人たちも使いを送り、そうさせなかった。集会は混乱状態に陥り、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と二時間ばかりも叫び続けた。町の書記役が暴動が起き自分の地位が失われることを恐れて、群衆を押し静めて解散させた。書記役の言葉から、パウロたちの伝道は、異教を攻撃するものではなく、イエス・キリストを鮮明に伝えるものだったことがわかる。ここに、銀細工人や書記役たちと、パウロと弟子たちとの対照的な生き方を見る。それは、自分の生活の安定のためにいのちをかけている人々と、神と救霊のためにいのちをかけている人々の違いである。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、キリストのために自分のいのちを失う者はそれを救う。騒ぎが治まると、パウロはエペソの弟子たちを集めて励まし、別れを告げて、マケドニヤに向けて出発した。そして、その地方を通り、多くの勧めをして教会を励まし、ギリシャに来た。ここで三か月を過ごし、シリヤに向けて船出しようとしたが、ユダヤ人の陰謀があったため、マケドニヤを経て帰ることにした。マケドニヤとガラテヤとアジヤの教会の代表者たちが、エルサレム教会への献金を携えてパウロに同行していた。パウロたちはピリピからトロアスに向かい、そこに七日間滞在した。 |
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| 9月12日 |
【御言葉による教会の育成と御国の相続】 使徒20:7-38 |
| 翌日の出発を前に、パウロはトロアスの集会で、夜中まで人々と語り合っていた。ユテコという青年が窓辺に腰掛けていたが、眠り込んで三階から下に落ちて死んでしまった。パウロは降りて来て、彼を抱きかかえ、彼が生き返ったことを人々に告げた。そして、また上がって行き、集会は明け方まで続いた。人々は青年のことで一方ならず慰められた。ここに、苦しみと喜びをともにする愛の共同体である教会の麗しい姿がある。その反対は、愛の冷めた無関心や個人主義である。一行は船で出帆したが、パウロは歩いてアソスに向かった。パウロはあらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦したが、彼にとっては毎日が死の連続、キリストのために一日中死に定められている生活であった。ミレトに着くと、パウロはエペソの長老たちを呼び寄せ、次の内容のメッセージを語った。パウロはアジヤに足を踏み入れた日から、謙遜の限りを尽くし、涙をもって、数々の試練の中で、奴隷として主に仕えた。益になることを知らせ、人々を教え、ユダヤ人にも異邦人にも神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰をはっきりと主張した。今、パウロは御霊に強く導かれて、五旬節までにエルサレムへ上る途中だが、なわめと苦しみが待っていることがわかっている。けれども、自分が走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた神の恵みの福音を証しする任務を果たし終えることができるなら、いのちは少しも惜しいとは思わない。パウロは神の計画の全体を余すところなく知らせておいたので、全ての人たちについて血の責任はない。聖霊はキリストの血によって買い取られた神の教会を牧させるために、エペソの長老たちを群れの監督(注意して見張る者の意味)としてお立てになった。今、エペソの長老たちを神と恵みの御言葉に委ねる。御言葉は教会を育成し、御国を相続させることができる。パウロは三年間、夜も昼も、涙とともにエペソの長老たち一人一人を訓戒し、自分たちの必要のために働いてきた。このように労苦して弱い者を助けなければならないことと、イエスご自身が言われた「受けるより与える方が幸いである」という御言葉を、万事につけ示してきた。パウロはひざまずき、皆とともに祈った。地上では二度と再会することがないので、エペソの長老たちは声を上げて泣き、幾度も口づけし、パウロを船まで見送った。パウロの全生活は、御言葉と一致していた。私たちは教会の徳を高めるために、御霊の賜物が豊かに与えられるよう熱心に求めよう。そして、聖書によって、教え、戒め、矯正、義の訓練を受け、全ての良い働きのために十分に整えられた奉仕者となろう。十字架の道を通り、キリストとともに苦しみ、ともに栄光の御国を受け継ぐために。 |
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| 9月19日 |
【ラッパの祭り〜アーメン 主イエスよ、来てください】 黙示録22章 |
第七月の第一日は、ラッパの祭りである。雄羊の角笛を吹き鳴らすことには、様々な意味がある。
1.神のいのちの息が吹き込まれ、聖霊に満たされる(創世記2:7/エゼキエル37:9-10)
2.主の山でイサクをささげ、神から一頭の雄羊を備えられたアブラハムの信仰に学ぶ(創世記22章)
3.神の律法を思い出す(出エジプト19章)
4.戦いの知らせ:神と共同体への奉仕のために、人々を呼び集める、サタンを打ち破る(ヨシュア6:20/士師6:34/7:22)
5.神を賛美せよと人々に呼びかける(詩篇98:6/150:3)
6.悔い改めの集会への召集(ヨエル2:15)
7.地上に王なるイエスが王国を確立する日(ゼカリヤ9:14-17)
8.イスラエルが約束の地に回復され、主を礼拝する(イザヤ27:13)
新約聖書では、キリストが神の大きな終わりのラッパの響きのうちに再臨され、キリストにある死者がよみがえり、教会が一挙に天に引き上げられ主とお会いし、栄光のからだに変えられると語られている。それは、賛美の中、小羊イエスの婚姻の時が来て、花嫁なる教会の用意ができたのだ。「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」 マタイ24-25章には、世の終わりとキリストの再臨に備えるたとえが語られている。目を覚ましてキリストを待ち望む「忠実な思慮深いしもべ」でなければならない。そのようなしもべは、委ねられた奉仕に、愛と謙遜をもって、勤勉に取り組む。神との親しい交わりを保ち、聖霊に満たされ続け、キリストの証しの生活をすること、委ねられた賜物を忠実に管理運用すること、日常的に信者の最も小さな者に対して愛の業に励むことが、主の日の備えとなる。「アーメン。主イエスよ、来てください。」と言い、王なるイエスを愛し、歓迎する生活をしよう。 |
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| 9月26日 |
【贖罪の日〜キリストの贖いを適用する】 レビ16:15-16/ヘブル9:11-14 |
| 第七月の第十日は、身を戒めて仕事をしない贖罪の日である。今日、イスラエルのほぼ100%の人が断食して悔い改める。この日はイスラエルの国家的贖いの日であるが、贖いが適用されるのは個人的に罪を悔い改めた人のみである。それは、キリストが全人類の罪のために十字架で永遠の贖いを成し遂げられたが、救われるのはキリストを信じて罪を悔い改めた人のみであるのと同じである。キリストの贖いの御業によってのみ、人は罪赦され、義と認められ、救われ、罪からの解放、自由、神との和解、永遠のいのちが与えられる。贖罪の日の二頭のやぎの一頭は、アザゼル(取り除くの意味)である。やぎの頭に両手を置き(一体化を表わす)、イスラエルの全ての罪を告白して荒野に放つ。キリストは「世の罪を取り除く神の小羊」であり、もし罪を言い表わすなら、神はその罪を赦し、御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめる。イスラエルがキリストを信じて悔い改めるなら、神はその国の不義を一日のうちに取り除かれる。また、私たちが人の罪を赦すなら、私たちの罪も神に赦され、赦した人の罪も赦されることになる。贖罪の日のもう一頭のやぎは、罪のためのいけにえとしてほふられ、年に一度大祭司がその血を至聖所へ持って入り、「贖いの蓋」(神の御座、神の御声の発する所、神の臨在と栄光の象徴)の上と前にその血を振りかけ、イスラエルの罪の贖いをした。キリストは大祭司として来られ、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた。私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入り、生ける神に仕える者とされたのだ。この新しい生ける道である神の御座の前で、私たちは金の香壇の賛美と祈りによって、神に仕えるのである。キリストの贖いを適用し、罪を悔い改めて告白し、御言葉と賛美をもってとりなしの祈りをしよう。全てのことをキリストの栄光の教会を建て上げるためにし、キリストに見える日に備えよう。永遠の都を求め、宿営(古い生き方)の外に出て、十字架を負って、キリストの御許に行こう。 |
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