エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2004年5月
5月2日 【荒野の集会(エクレシア)】 使徒7:1-43
 議会に捕らえられたステパノは、聖霊によって証しし、モーセと神、聖なる所と律法について弁明した。ステパノはユダヤ人を“兄弟たち”、議員を“父たちよ”と、愛をもって語りかけた。栄光の神がアブラハム(多くの国民の父)をカルデヤ人のウルから召し出したのは、彼と彼の子孫が神を礼拝するためだった。アブラハムの信仰は神に聞き従う信仰であり、その信仰は彼の子孫に受け継がれた。ヨセフに与えられた神の恵みと知恵によって、エジプトはききんの時に蓄えがあり、ヨセフの全親族が助けられることになった。ヤコブやヨセフの骨は、カナンの地に葬られた。モーセはミデアンの地で40年訓練され、しもべの心を学んだ。神はシナイ山の荒野で柴の燃える炎の中からモーセに語られ、イスラエルの民をエジプトから導き出す支配者また解放者として任命した。モーセは非常に謙遜で忠実であり、神と語らい主の御姿を仰ぎ見ていた。そのモーセが、神はイスラエル人の中から、私のような一人の預言者をお立てになる、彼に聞き従わなければならないと言ったのが、キリストである。モーセはキリストの予型的人物となったのだ。モーセは荒野の集会(エクレシア)で、生ける御言葉を授かり、人々に与えた。地上において寄留者であり、天に故郷のある私たちは、神を第一として礼拝し、御言葉に聞き従い、キリストを分かち与えていくことが大切である。後ろのものを忘れ、前のものに向かって進もう。
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5月9日 【信仰を受け継ぐ】 使徒7:44-60
 アブラハム、イサク、ヤコブの神への信仰は、神の命令どおりに造られたあかしの幕屋礼拝を通し、モーセからヨシュアへと次々と受け継がれた。ダビデは神の恵みを受け、神のために御住まいを願い求めて準備し、息子ソロモンが神殿を建てた。しかし、創造主なる神は人の手で造った家にはお住みにならず、心砕かれてへりくだった人とともに住まれる。今は、どこであっても、霊とまことによって神を礼拝する時である。神の御子キリストを信じる者は、キリストの住まわれる神の神殿であり、生ける石としてキリストのからだなる教会に築き上げられる。神の御心を行なうキリストの御業は、信仰によって教会へ受け継がれた。聖霊に逆らう罪は、悔い改めず、キリストを裏切り殺す罪、信仰者への迫害、神の御言葉への不従順である。私たちは聖霊を受け、聖霊に満たされ、聖霊に導かれるよう命じられている。そのためには、日々、キリストの十字架の死と復活のいのちに与ることである。議会でキリストを証言したステパノ(冠)は殉教した。彼は天の神の栄光とイエスを見つめ、死に至るまで忠実にキリストに従い勝利した。彼は非合法な石打の刑の中で、「主イエスよ。私の霊をお受けください。主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と、死の間際にも祈りをささげた。それは、キリストの十字架上での祈りに倣う祈りであった。ステパノの熱い信仰は、その後の教会に受け継がれた。そして、その教会には、ステパノと初代教会を激しく迫害したサウロが、後にキリストに出会い、変えられて使徒として加えられた。
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5月16日 【御霊に導かれる宣教】 使徒8:1-40
 ステパノの殉教した日、教会に激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者は皆、ユダヤとサマリヤ諸地方に散らされた。教会迫害の中心人物は、サウロであった。散らされた信徒たちは、福音を宣べ伝えながら、巡り歩いた。彼らにとって、生きるのも死ぬのも主のためであった。神の言葉は、迫害によってとどめられることはない。ピリポはサマリヤの町に下って行き、キリストを宣べ伝えた。当時、ユダヤ人はサマリヤ人を、人種的にも宗教的にも混血民族として軽蔑していた。紀元五世紀以来、両者の間には、いやしがたい断絶と憎しみがあった。ピリポは、そのような先入観に捕われない、御霊にある自由な伝道をした。ピリポの伝道によって、サマリヤの町に大きな喜びがあり、神の国とイエス・キリストの御名を信じた人々は洗礼を受けた。自分を偉大な者だと話していた魔術師シモンも、信じて洗礼を受けた。エルサレムからペテロとヨハネが遣わされ、手を置くと人々は聖霊を受けた。それを見た魔術師シモンは、神の権威を金で買おうとしたが、心が神の御前に正しくないので退けられた。彼は神の賜物を、神の栄光と人々の救いのためにではなく、自分の栄光のために、不純な動機で求めたのだ。彼の関心は、神の御言葉という内面的事柄ではなく、御言葉に伴なうしるしと奇蹟という外面的現象にあった。彼の信仰の問題点は、罪の悔い改めに対する不徹底さ、神との個人的関係の薄さ、金銭への執着、まだ悪に染まった古い性質と不義の絆の中に生きており、キリストとともに古い自分に死に新しいいのちに生きていないことにあった。神の賜物は、神の恵みによって、神の御心に従うきよい心の人に与えられる。一番優れた賜物は、愛である。次に、ピリポは一人のエチオピアの宦官を救いに導くために、荒野に遣わされた。一歩一歩、主に伺って従う伝道であった。宦官は、礼拝のためにエルサレムに上り、二千キロの道程を馬車で帰る途中だった。彼は、当時高価であった聖書(イザヤ書)を読んでいた。彼の心は、世にある偽りの神々や富や権威によっては満たされなかったのである。彼は熱心な求道者であった。ピリポが走って行くと、彼はちょうどイザヤ53章を読んでいて、導く人を必要としていた。ピリポはこの聖句から始めて、イエスのことを宣べ伝え、彼をキリストに導いた。宦官は自分から洗礼を願い出て、ピリポから洗礼を受け、救いの喜びに満たされてエチオピアに帰って行った。ピリポは、それから聖霊に導かれてアゾドへ行き、町々で福音を宣べ伝えながら、カイザリヤへ向かった。
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5月23日 【神の選びの器】 使徒9:1-25
 パウロ(ギリシャ名)の回心について、「使徒の働き」は三度にわたって言及している。サウロ(ヘブル名)は、キリスト者への迫害の意に燃えてダマスコへ行く途上、復活し昇天されたキリストと出会った。突然、天からのまばゆい光に照らされ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という御声を聞いたのだ。神が人の名を二度呼ばれる時は、御心を示される場合である。サウロが迫害してきた教会とは、キリストご自身であった。そして、彼が熱心に仕えてきた聖書の神は、主イエスだったのだ。サウロは直ちに回心し、神に聞き従う、キリストという道を歩む者とされた。後にサウロは、教会を迫害した私は罪人のかしらであり、神のあわれみとこの上ない寛容の見本とされた、私は神の恵みによって、全ての使徒たちよりも多く働いたと語っている。三日間、目が見えなくなったサウロは、悔い改めと断食の祈りの中にいた。そこへ、律法を重んじる敬虔な人で、ダマスコのユダヤ人全体の間で評判の良い、アナニヤというキリストの忠実な弟子が遣わされた。それは、サウロが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためであった。アナニヤが赦しと兄弟愛をもって手を置くと、サウロの目からうろこのような物が落ち目が見えるようになり、彼はバプテスマを受け、食事をして元気づいた。そして、教会に植えられ、直ちにダマスコのユダヤ教の諸会堂で、福音を宣べ伝え始めた。それからの三年間に、サウロはアラビヤヘ出て行き、神との交わりの期間をもった。彼はイエスがキリストであることを、聖書と組み合わせ、結び合わせて論証し、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたさせた。神はサウロを、福音を異邦人、王たち、ユダヤ人に伝える神の選びの器として召し、キリストの御名のために十字架の苦しみの道を歩む者とされたのだ。キリストを迫害する者は、教会(キリスト者)をも迫害する。キリストの福音を語るサウロは、ダマスコの町で殺されそうになり、彼の弟子たちによって助けられた。それから、サウロはエルサレムの教会へ向かった。
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5月30日 【七週の祭り〜神の栄光の教会】 レビ23:15-21/使徒2章
 キリストが復活されて50日目の七週の祭り(ペンテコステ)に、約束の聖霊のバプテスマによって、教会は誕生した。聖霊は天から、炎のように一人一人の上に下り、神の栄光を現わされた。キリストは、地上に火を投げ込むために来られた。そして、その火が燃えているようにと、切に願っておられる。その火とは、第一に神の御言葉である。聖霊によって、新しい契約である「人々の心に聖書が書き記されること」が成就し、教会は、大胆に神の御言葉を語り出した。第二にその火は、精練する者の火である。火の試練は、信仰者をキリスト以外のものから精練してきよめ、金のように純粋にする。第三にその火は、すさまじい愛の炎である。神が私たち罪人を愛された十字架の愛、そして、その愛に応える私たちの神への愛、人々への愛。何ものも、主キリスト・イエスのある神の愛から私たちを引き離すことはできない。キリストと教会の関係は、花婿と花嫁の愛の関係である。教会は、聖霊に火に燃やされた神の栄光の住まう所である。神の栄光であられるキリストが、私たちの内側から輝き出ますように。“聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。”エペソ1:14
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