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| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
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| 2004年4月 |
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| 4月4日 |
【新しい創造】 ガラテヤ6:11‐16 (Y.K.) |
| ただイエスを信じることによって救われるという十字架の福音は、信じる私たちに新しい人生観をもたらします。第一に、自分を誇るのではなく、十字架のみを誇る生き方となります。14節に“十字架以外に誇るものがあってはならない”とあります。キリストを信じる者は、キリストの十字架と共に古い自分が断ち切られ、過去に縛られていた私たちは、完全に解放されたのです。出エジプトのイスラエルの民は、普通なら11日で到着できる約束の国に入るまでに、荒野の旅を40年も続けなければなりませんでした。その一番の原因は、彼らの心の状態に問題があったためでした。すなわち、神を知りながらも神に従順せず、自己中心であったからです。彼らの心の状態が正しく変えられる時まで、神は彼らが約束の国に入ることを許さなかったのです。私たちは約束の国に入るのに、40年もかけることはやめましょう。20年もかけることもやめましょう。何年も待つこともないのです。ただキリストを信じる信仰によって、直ちに入ることができるのですから。第二に、この世に調子を合わせる生き方から、キリストの十字架を通して世に関わっていく新しい価値観に立って世を見ていくようになります。第三に、十字架によって古い自分が死んだだけで終わるのではなく、新しい創造が始まったのです。Uコリント5:17にあるように。キリストの御言葉につながり、聖霊の働きを受けて新しく創造されていくのです。キリスト抜きでもちょっとした向上、ちょっとした明るい人生を送ることはできるでしょう。しかし、そこには肉の思いが残り、そして肉は結局のところ朽ち果てていきます。けれども、キリストにあっては霊の思いで満たされ、それは永遠へとつながっているのです。あなたがキリストにあって、聖霊に満たされた新しい人となって歩まれますように。 |
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| 4月11日 |
【収穫の初穂〜キリストの復活を覚えて】 レビ23:5‐14 |
聖書の春の祭りは、イエス・キリストの初臨を預言している。
「過越の祭り」:キリストの死によって成就した。
「種を入れないパンの祭り」:罪のないキリストの血がささげられたことによって成就した。
「初穂の祭り」:キリストの復活によって成就した。
過越の祭りは、主がエジプトへ初子の死の災いを下された時、子羊の血によって、その災いがイスラエルの家を過ぎ越し、エジプトの奴隷生活から贖われたことを記念するものである。更に、過越の祭りは、罪汚れのない過越の小羊キリストの尊い血によって、罪からの霊的解放と神の自由に入ることを覚えるものとなった。それは、私たちが選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民として、闇から驚くべき光に招いてくださったキリストの素晴らしい御業を宣べ伝えるためである。種を入れないパンの祭りは、イスラエルの民がエジプトを出る時、食事の準備をする間もなかったことに起因し、七日間種を入れないパンを食べる。パン種は罪を象徴し、この祭りの期間、種を入れないパンを食べることは、神の義に与ることを表わしている(聖餐式の原型となった過越の食事のパンも種なしパンであった)。キリストは私たちの罪を取り除き、義としてくださるために尊い血を流してくださった。パウロは教会に、“パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。”Uコリント5:8 と語っている。私たちは罪を告白することによって、パン種(罪)を取り除くことができる。神がその罪の赦し、全ての罪から御子イエスの血によってきよめ、交わりを回復してくださるからだ。聖くされるなら、神を見ることができ、神に用いられる器とされ、約束の地に入ることができる。初穂の祭りは、春の収穫の始まりであり、大麦の初穂の束をささげ、来たるべき収穫を感謝する。キリストは収穫の初穂として、死者の中からよみがえられた。キリストの十字架の死と復活によって、数え切れない程の群衆が、天国に入れられている。私たちも収穫をもたらす初穂として、後に続くキリストを信じて救われる人々のために働こう。そのためには、一粒の麦となって、キリストとともに古い自分に死に、キリストが私のうちに生きることである。御言葉を聞いてそれを悟る人は、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ。ただキリストを信じて、福音を宣べ伝え、多くの実を結び、神の栄光を現わす者とされよう。 |
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| 4月18日 |
【キリストゆえの苦しみに与る】 使徒5:12-42 |
| 迫害時の弟子たちの祈りが応えられ、御言葉が大胆に語られ、多くのしるしと不思議が行なわれて、信者の数はますます増えていった。皆は一つ心になって宮のソロモンの廊にいた。しかし、大祭司たちはねたみに燃えて、使徒たちを捕え留置場に入れた。ところが、夜、天使が牢の戸を開き、宮へ行き、人々にいのちを与える言葉をことごとく語り続けるように命じた。使徒たちは忠実に、夜明け頃宮に入って教え始めた。使徒たちはエルサレム中に教えを満たしたのだった。再びユダヤ人議会に連れ出された使徒たちは、人に従うより神に従うべきであると語り、ここでも福音を大胆に証しした。人は心に満ちていることを口が話すのだ。議会の人々はそれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうとした。彼らのねたみと怒りは、キリストを十字架につけた罪である。高慢と無知が争いの原因であり、苦いねたみと敵対心は悪霊に属す。人の怒りは神の義を実現せず、ただ悪への道だ。神に対しては心を全て開き、悪魔に対しては心の戸をすぐに閉ざさなければならない。聖霊に支配され、心と語る言葉と行ないによく気をつけよう。使徒たちは、キリストゆえの苦しみに与ることを喜んだ。自分に死ぬ戦い、教会外からの戦い、教会内の戦い…キリストとともに様々な苦しみを負う者は、将来キリストとともに栄光を受け継ぐ。それは喜び、楽しみ、幸い、平安である。使徒たちはむち打たれ宣教を禁じられながらも、喜びながら議会から出て行った。そして、毎日熱心に宮や家々で教え、キリストを宣べ伝え続けた。それは、神への愛と信仰と従順のゆえであった。 |
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| 4月25日 |
【祈りと御言葉の奉仕の優先性】 使徒6:1-15 |
| 弟子たちが増えるにつれて、ギリシャ語を使う(バビロン捕囚以来、外国で生まれ育った)ユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに、やもめたちの毎日の配給がなおざりにされていると苦情を申し立てた。それに対し、使徒たちは、神の言葉を後回しにして食卓のことに仕えるのは良くないので、その仕事をする七人を選ぶことにした。その条件は、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い(証しされている)人たちであった。この提案は弟子たち全員の承認するところとなり、選ばれた七人に使徒たちは祈って手を置いた(按手)。食卓の仕事をする七人は、この後のステパノやピリポの伝道の働きからわかるように、素晴らしい福音の働き手であった。使徒たちが、もっぱら祈りと御言葉の奉仕に励んだ結果、神の言葉はますます広まり、エルサレムで弟子の数が非常に増え、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。教会において、祈りと御言葉(特に、礼拝と祈祷会)は最優先(第一)である。教会には、祈りと御言葉に専門的に従事する人が要り、そのために配慮することが必要である。祈りと御言葉が最優先されることは、全ての聖徒についても同様である。それぞれが自分の置かれた立場において、時を定めて習慣的・継続的に、神との交わりをもつことが求められている。信仰と恵みと力に満ちたステパノは、ユダヤ人から迫害されて議会に連れ出され、イエスと同じように、曲解された偽証によって殺意をもって訴えられた。しかし、ステパノの顔は御使いのように、神の栄光に輝いていた。それは、ステパノが神に顔を向けていたからであり、栄光の神の御霊が彼の上にとどまっていたのである。 |
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