エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2003年12月
12月7日 【神の御子キリストの証し】 マタイ26:57-27:10
 捕らえられたイエスは、六回にもわたる裁判を受けられた。罪ある人間が、罪のない神であられるキリストを不条理にも裁いたのである。ユダヤの最高議会サンヘドリンでは、イエスを死罪にするために偽証が求められ、不正な裁判が行なわれた。そのような裁判の場で、イエスはご自分が神の御子キリストであられることを証言された。イエスは十字架の先にある栄光〜復活と昇天、再臨についても語られた。ローマの総督ピラトの前でも、イエスはご自分がユダヤ人の王であられることを証しされた。証し人(ギリシャ語マルテュス)には、殉教者という意味がある。イエスの御姿から、いのちをかけた宣教のあり方を学ぶことができる。“兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。”黙示録12:11 イエスはその証しによって、神への冒涜罪と定められ、死刑判決となった。ユダヤの宗教指導者たちのねたみと憎しみ、殺意のゆえである。キリストは神の御心により、最大の善を行なって、最大の苦しみをお受けになられた。正しく裁かれる神に全てをお任せになられたのである。イエスにつまずいたペテロは、キリストの愛と祈りによって悔い改めに導かれ、後にイエスと再会し信仰を回復することができた。しかし、ユダは罪を後悔したが悔い改めず、自分の罪のために自殺してしまった。悔い改めとは、キリストへの方向転換であるのに、ユダはキリストの御許へは行かず、当時の宗教指導者の許へ行ってしまった。そこには、神の愛、罪の赦しときよめ、回復の恵みはなかった。“神のみこころに添った悲しみは、悔い改めに導いて、後悔のいらない救いを得させますが、世の悲しみは死をもたらします。”Uコリント7:10 ユダが祭司長たちに返した銀貨は、キリストの血の代価とされ、そのお金で陶器師の畑が買われて旅人たちの墓地となった。それは、キリストの血による新しい契約によって贖われた教会とイスラエルの回復を表わす、エレミヤの預言の成就であった。
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12月14日 【十字架の死にまでも従われたキリスト】 マタイ27:11-44
 神への冒涜罪としてイエスを死刑判決に定めたサンヘドリンは、今度はユダヤ人の王としてイエスをローマの総督ピラトの前に訴えた。当時ローマの皇帝カイザルが王として支配していたので、イエスを政治犯としたのだ。イエスはご自分が王であられることを認めながらも、様々な訴えに対して何も自己弁護なさらなかった。ピラトは、イエスがサンヘドリンの人々のねたみによって引き渡され無罪であることを認めつつも、神よりもユダヤ人の群衆やカイザルを恐れ、最終的にイエスを十字架につけることを許してしまった。キリスト(神・真理・正義)のために、自分のいのちをかけなかったのである。ユダヤ人の群衆は、キリストの血の責任について自らが発した呪いの言葉の恐ろしさを知らなかった。神の御子キリストを拒んだイスラエルへの神の裁きは、紀元70年のエルサレム神殿破壊をはじめ、歴史上に臨んでいく。十字架刑は、ローマ市民以外の卑しい犯罪人や極悪人にのみ科せられる恥辱に満ちた極刑である。十字架刑の前には、金属片のついた皮ひもによるむち打ちがある。イエスはむち打たれ、ローマの兵士たちに嘲弄された後、十字架の横木を背負わされて、処刑場のゴルゴタへと向かわれた。途中、北アフリカのクレネ出身のシモンが、ローマ兵たちによってイエスの十字架を無理に背負わされた。この出来事をきっかけに、シモンは回心したと言われている。イエスは十字架の苦き杯を極限まで飲みほされた。“これはユダヤ人の王イエスである。”というのが、イエスの公式処刑理由であった。この時、ユダヤ人をはじめとする人々がイエスを十字架につけたが、私たちは今日、同じイエスを心の王座に迎えているか。自分を王とする自己中心によって、イエスをあるべき王座から除外してはいないか。イエスは神の御子キリスト、イスラエルの王であられるがゆえに、神の御心に十字架の死にまでも従われ、その愛によって、全人類ばかりか全被造物の贖いを成し遂げてくださったのである。キリストは死に至るまで、十字架の道を回避されなかった。私たちもキリストに倣って、神の御心に従い十字架の道を歩む者とされよう。
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12月21日 【キリストの十字架上での出来事】 マタイ27:45-66
 イエスは、午前九時(神殿用の過越の小羊がほふられる時間)に十字架につけられた。十二時から三時まで、全地が暗くなった。それは、霊的暗黒〜神の裁き、神との断絶を意味した。イエスは十字架上で、“わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。”(詩篇22:1)と叫ばれた。イエスは、罪人の身代わりに父なる神の御前で、罪の刑罰をお受けになられたのである。十字架上で、罪のない方が罪とされたことによって、私たちに義がもたらされ、キリストへの呪いが、私たちに祝福をもたらした。キリストはその死によって悪魔を滅ぼし、死の恐怖に縛られている人々を解放してくださった。イエスが息を引き取られた時、神殿の聖所と至聖所の仕切りの幕が、上から下まで真二つに裂けた。それは、年に一度大祭司だけが、イスラエルの民の罪の贖いのために、動物犠牲の血を携えて入った至聖所へ、今やキリストの永遠の贖いを信じる者たちが、イエスの血によって大胆に入ることができるようになり、“新しい生ける道”が開かれたことを表わす出来事だった。また、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、聖徒たちが生き返った。それらは、イエスが死に勝利され、復活されることを予表する出来事であった。ローマの百人隊長たちは、いろいろな出来事を見て、イエスはまことに神の御子であったと告白した。女の弟子たちは、イエスを見守っていた。サンヘドリンの議員の一人、アリマタヤのヨセフがイエスの弟子となっており、イエスを取り降ろし、岩に掘った自分の新しい墓に丁重に葬った。“彼は富む者とともに葬られた”イザヤ53:9の成就である。イエスはこの墓から、栄光の復活をされた。
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12月28日 【キリストの弟子として】 マタイ28:1-20
 女の弟子たちは、葬られたイエスに香料や香油を塗るために、日曜日の明け方墓にやって来た。そこで天使に空の墓を見せられ、イエスの復活を告げられた。それから、彼女たちは復活の主に初めに出会った。イエスが何度も語っておられたにも関わらず、男の弟子たちにも女の弟子たちにも復活信仰はなかった。それ程彼らにとって、十字架におけるつまずきと失望は大きかった。その弟子たちを、イエスは、初めに宣教を開始され彼らをお召しになったガリラヤに集め、そこで彼らにお会いになられた。再び弟子たちを召し、回復させて、宣教の大きな使命を託するためである。異邦人に囲まれたガリラヤ、霊的・肉体的暗黒の中にいた絶望した人々は、イエスの宣教開始と復活の顕現によって、偉大な光を見た。キリストには、一切の権威が与えられている。それは、神の権威に服従することによって与えられたものである。弟子たちは、行って全ての国民をキリストの弟子とするように命じられた。諸国の民の光として、アブラハム契約の祝福をもたらすためである。弟子とするとは、福音を宣べ伝え、父、子、聖霊の御名によって洗礼を授け(三位一体の神との結合を意味する)、聖書全体を守るように教えることである。教えは絶えず継続されなければならず、単なる正しい知識だけではなく、全人格、全生活を通して実践されるものである。イエス・キリストの御名にある一切の権威と、キリストがともにおられることによって、また、聖霊のバプテスマと更新によって、世界宣教は果たされていく。私たちもキリストの弟子として、復活のイエスの宣教命令に従う者とされよう。
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